第18話 バイトをしましょう。
——むにゅん。
ゴールデンウィークの朝。身体全体に、特に胸板のあたりに、柔らかくて温かいものが重くのしかかるような感覚がして意識が覚醒した。
目蓋を開く。
「——なぁ、ユキさんや」
「なんですか? ヒロさん」
「なんで俺の上に乗ってるの?」
ユキは俺の身体に乗り掛かって、俺の顔を覗き込んでいた。顔が近い。
あとほんの少し近づくだけで唇が触れ合いそうな距離だ。
「ヒロさんの寝顔が可愛かったので」
「そうですか……」
あんま寝顔とか見ないで欲しい。自分ではどんな顔してるかわからないし。
それと、まだ疑問はある。
「あとさ、なんでまた水着メイド?」
ユキは以前も着てみせてくれた、水着メイドの格好をしていた。朝から見るにはさすがに刺激が強すぎる。
妙に柔らかい感触がした原因もそれである。当たり前だ。布面積があまりに少ない。
「今日は喫茶店のバイトですので。気合の表れですね」
「そんな格好をする喫茶店はねえ!」
少なくともまともなお店なら。
え? バイト先ってそんな店じゃないよね?
「まあ、私も人前でこの格好はしたくないので。これを見せるのは、ヒロさんの前だけですよ?」
そう言って、ユキは軽くウィンクをして微笑んだ。朝からその表情もやめて欲しい。男にも色々とあるのだ。
「とにかく、ヒロさんもバイトなんですから。はやく準備してくださいね。朝ごはんもできてますから」
「……あいよー」
✳︎ ✳︎ ✳︎
今日は俺とユキの記念すべき人生初バイトである。といっても短期のため、今日だけなのだが。
そのヘルプを頼まれたのが俺とユキというわけである。
俺もユキもバイトは未経験だが、やってみたいという気持ちがないわけでもなかったので快く引き受けることにした。
そして現在。
俺とユキは開店前に簡単な接客指導を受けている。
指導をしてくれているのは星乃と、高校の先輩でもある
「では一通り説明も終わったし、実際に練習してみようか」
その夏目先輩が言う。
黒髪で、年上らしく落ち着いた雰囲気の女性だと思う。威圧感のない、柔らかい微笑みが特徴的だった。なんというか、同性に人気がありそう。
「じゃあまずは、
「お客っすか?」
「ああ、店の入り口から入って普段通りに対応してくれれば構わないから」
「わかりました」
「
「はい」
了承した俺は一度店から出て、もう一度入る。
さて、ユキの接客はどんなものだろうか。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
「…………」
「いいがなさいましたか? ご主人様?」
俺の幼馴染は接客の説明を一つも聞いていなかったらしい。
「いらっしゃいませ」だバカ。
「ご主人様? ……ふむ、言葉はいらないからさっさとご奉仕しろということですね。かしこまりました」
無言の俺を不思議そうに覗き込んでいたユキは意味のわからない結論に至る。
「ここはそういう店じゃねぇ!」
「ふにゃっ」
俺はユキの頭を軽くチョップした。
「痛いですよぉ……」
「ユキがふざけるからだ」
「ふざけてないです。これが私の接客です」
「ちゃんと店に合わせなさい」
「ヒロさん。接客指導を受けて私はひとつ、わかったことがあります」
「あ?」
「私、ヒロさん以外には接客をしたくないです」
「……は?」
「ヒロさん以外に対するおもてなしの心なんて、私は持っていません。ヒロさんに全振りなのです」
「おう……」
なんでこの幼馴染を接客のバイトに連れてきてしまったんだろう。
気合の表れとはなんだったのか。
こんなんクビじゃクビ。
もうお帰りになってください。
「星乃くん。なんであの子たち連れて来ちゃったんだい?」
「ええ!? 先輩が可愛い子連れて来いって言ったんじゃないですか!」
「いや確かに可愛いけど。あの子のために今からメイド服を用意したいくらいだけど。あの子浅間くん以外には接客しないらしいよ?」
「そんなのあたしだって予想外ですよ!」
「むむぅ……どうしたものか……」
俺たちの様子を見て、星乃と夏目先輩が小声で言い合っている。
いやぜんぶ聞こえてるけど。
幼馴染がすみません……。
でも言い出した以上、この子マジで接客しないと思います……。
「あー、浅間くんは接客できそうかい?」
「まあ、ふつうにやる分には大丈夫だと思います」
「そうか……安心したよ」
夏目先輩がホッと胸を撫で下ろす。
星乃の人選ミスです。星乃の。
俺たちは悪くねぇ!
星乃って友達多そうだけど。
他に頼める人はいなかったんだろうか。
基本的にコミュニケーション能力は高くない俺とユキである。
絶対に接客バイト向きではない。
それから話し合いが行われ、ユキは厨房を手伝うことになった。料理の腕は確かだし問題ないだろう。
そして、俺たちの人生初バイトが始まった。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「8番さんショートケーキとパンケーキでーす」
「あ、浅間くん3番さんのオーダーとってきてくれる? あたし今手離せなくて!」
「はいよー」
早くも時は夕刻。午後4時過ぎくらいだろうか。
ゆったりとした時間が……ということはなく忙しい。さすがSNSでバズった人気店。GWとなればお客の入りは留まるところを知らないらしい。
それでも一番混雑するお昼時を乗り越えたおかげもあってか、いくらかの余裕を持って仕事ができるようになってきた。
バイトは午後5時までのため、あとほんの少しの辛抱である。
星乃に頼まれた注文を取ってくると、新たにお客が来店した。
高校生らしき感じの男女ペアだ。
距離感が近くて、いかにも恋人同士っぽい。なんだか甘いオーラがこっちにまで漂って来そうなほどだ。
一番近くに居る星乃が対応するだろうし、俺は他の仕事をと思った。
——しかし、星乃に動きはない。
先に夏目先輩が対応を始めた。
星乃は立ち止まったまま動かない。
様子がおかしい気がする。
震えている? 体調が悪いのか?
いや何かに動揺、しているのか?
星乃は来店したばかりのカップルを見つめていた。
「……星乃?」
思わず俺は声をかける。
「……へ?」
星乃はまさしく顔面蒼白といった様子でこちらを見る。
その表情から読み取れるのは不安や絶望、落胆。そんなマイナスの感情である気がした。
「どうかしたか?」
「あ、いや。その……ごめん。ちょっと裏下がってもいいかな」
「ああ、構わないけど……。体調悪いなら今日はもう休んでていいんじゃないか? 時間もあと少しだし」
「うん、ありがとう」
そう言って、どこか心あらずの星乃は裏の休憩室へ下がった。
✳︎ ✳︎ ✳︎
バイト後、俺とユキは揃って店を出た。
厨房でのユキの活躍は中々のものだったらしく、また何かあったら手伝って欲しいと頼まれていた。俺もついでのように、もしよかったらと言われた。
星乃は力なく、とぼとぼとした様子で家路に着いた。その様子は本当に、見ていて心配になるほどで。
少しだけ、星乃から話を聞いた。
夕方に来店した高校生カップル。
星乃の様子がおかしくなった原因は体調不良などではなく、やはりこのカップルの来店によるものだった。
あのカップルのうちの一人、男の方。
その人が、星乃の想い人。
俺とユキに打ち明けた、星乃の好きな人。
星乃の、幼馴染の男の子であったらしい——。
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