ハッキング リバーシ

藤田 眞一

第1話 エニグマ復活

甲高い耳障りな異常音が非常灯の緑に照らされる暗い長い廊下に響きわたった。定時帰宅署員との交代時間はゆうに超えており、いつもなら粛々としているはずが、異常音と共に騒々しく、怒声と叫び声が響く。

葉山利奈は踵を鳴らし、電球の切れ掛かった薄緑の階段を慣れた足取りで一段飛びで掛け降りた。利奈を呼ぶ声が頭上から飛ぶ。

「おい、葉山!帰宅するのは待て!」

利奈は長い髪を靡かせ、足を止め頭上から怒鳴る男を見上げた。逆光で輪郭だけに黒く塗られた年配者の顔が覗いている。

「わかるだろう、コンピュータがオカシイ!専門家だろ!なんとかしろ」声の主は刑事部長らしかった。「明日非番なんで、これから予約のディナーなんですけど、部長…」肩を竦め、降りた階段を引き返した。皺の刻まれた男の手が招く。やはり部長だ。

「サイバー対策室室長の葉山利奈。こんな時に活躍しなくて、いつ活躍するんだ。さっさと端末を見てこい!」

警視庁とは言え、まだまだ男社会である。女子に頭ごなしに命令し、残業許可なしに残業命令だ。

「はい、はい。キャンセル料は請求できますか」嫌味を言ったつもりが、部長は、ホッとしたのか、利奈を《情報調査室》と書かれた部屋へエスコートした。

利奈は、足を踏み入れ眉を顰めた。

多くの年配者が端末の前に座る若い署員に、手元の紙切れを見せて指示をしている。いや、情報紹介をさせている。

「こりゃ、ディナーは本格キャンセルね」利奈は短い息を吐いて、端末に群がる長打の列に歩み寄った。額に皺を刻み込んで赤面する男達の肩をかき分け、利奈は最前列で首を捻る髪の禿げ上がった男性に問うた。

「画面は反応してますか?これ、どうなってます?」

「わからない。全然反応しないんだ」

「動かないんですね」

利奈は端末を覗き込んで、キーを少し叩き、起動しているシステムリソースが極端に少なくなっていることに気付いた。「端末のリクエストに対して、返答がない状態ね、明らかに本署のサーバがオーバーフローを起こしてる」動かないのは当然である。

「君は何者だ」

「私は、サイバー対策室の葉山利奈です。こんな旧式は管轄じゃないんですけど…」

と言いかけた時、男の顔が弛緩した。

「あぁ、君か、若くて綺麗な女性がやっている例の新組織の室長ってやつか?」

利奈は、こういう時だけ胡麻を剃る年配年寄りが大嫌いだったが、今はそういうことを言っても仕方ない。

「原因はこの機械じゃないです。上の階にある所轄のメインサーバです。ここは暫く使えないですから、皆さん、珈琲でも飲んで待っててください。ちょっと見てきます」踵を返し、早足で部屋を抜けた。薄暗い階段を五階まで一気に駆け上がる。

案の定、責任の所在が理解出来る若い署員とセキュリティに明るい上層部数名集まっていた。利奈は脇をすり抜け、部屋の奥へ潜り込むとメインサーバに座っている坊主頭を見つけた。利奈の同僚である美並が当たり前のように座っている。

「南、あんたもここに担ぎ出されてるの?で、どうなの、直りそう」美並は、口を紬ぎ、画面を指さした、利奈は指先が示す画面を凝視した。

生き物のように文字が画面に吐き出され、次々と埋め尽くしていく。その勢いは微塵も止まる気配がなく、永遠に増殖し湧き出す蛆虫のようにタイプし続けていた。何かの意味を持つものとは考えられない。

「これ」利奈が目を瞬かせると、美並が坊主頭を掻きながら応える。

「DDOSです…。メールの集中攻撃です。サーバに付加が与えられ続けています。原因は分からないですが、署内で複数の端末からサーバに当ててリクエストが発生してます。全ての照会作業が停止するほどの量です」

利奈は鋭い目つきで問いかける。

「え、だって、VPNも効いてるでしょう。内部からしかアクセスできないはずなのに…DDOSって変でしょう」

「それが、そうでもないんです。予め仕掛けられたウィルスでしょうね。一定のタイミングで爆発的に署内内部で拡散したと思われます。内部の端末がお互いに大量のデータをやり取りしていて、都合が悪いことに加速度的に量が増えています。ここでの操作も既に全く受け付けない状況です」

画面を見ていた利奈は、文字が網膜に焼き付いて目眩を覚えた。

「ちょっと見せて!」利奈が美並から椅子を奪うようにして座ると、画面を素早い動きで黒眼が追った。発信元が表示されている文字を指で叩くようにディスプレイの羅列を叩く。

「一定間隔で、同じ文字が繰り返す。読み上げるから、書いて。同じ、始まった」利奈が言う。

美並は、胸に刺したボールペンを取り出すと、「どうぞ」と応じた。

「E」利奈が画面から文字を読み取る。「N」美並が続けて書き取る。

「I」利奈の指が画面をなぞる。「G」美並が眼を瞑って利奈の声に集中している。

「M」画面の文字がどんどん流れて表示される。「A」利奈は六文字のアルファベットを口にして視線を止め振り返った。同時に美並も瞼を開き、利奈の顔を見た。

美並が書き取った紙を目の前に突き出した。

「そんな、ENIGMA…《エニグマ》だって言うの?」

声に出して読み上げ、眉間に縦に皺を刻んだ。そのふざけた名前が七年前に逮捕した警視庁のネットワークに初めて大規模ウィルスを送りつけ、数百台のサーバを壊滅させた、史上最悪事件の犯人エニグマを名乗っているのである。

「葉山室長、《エニグマ》は掴まって収監されているはずでは?」

利奈は首をゆっくり縦に振った。


―これが《エニグマ》が狙ったソーシャルエンジニアリングの幕開けだった―。

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