海へ

AW

第1話 海を見てみたい……

 鳥を見た。

 大空を優雅に翔ける夢を見ているのだろうか。

 鳥は道端で翼を広げたまま微動だにせず。


 僕は祈る。

 君が何処を目指していたのかはわからないが、

 その夢は僕が引き継ぐから安心してくれ。


 もし僕が挫けたとしても、

 きっと、必ず、絶対に、

 誰かが僕らの夢を背負ってくれると信じて――。


 家を出てから既に3日目の朝を迎えた。

 何も口に入れず、一睡もせずに歩き続けてきた。


 物言わず行き交う人かげはいつしか木々へと姿を変え、太く高くなって僕の行く手を遮ろうとする。


 僕はひたすら真っ直ぐに道なき道を行く。

 崖を下り、川を泳ぎ、泥まみれのまま歩き続ける。


『ネコさん、待って!』


 不意に背後から呼び止められ、僕の足が止まる。

 その瞬間、剥がれかけた爪から熱を伴った猛烈な痛みが襲いくる。

 それは、がむしゃらに歩き続けた代償であり、生きている証。


『やっと追いついた! って、大丈夫?』


 振り返ると、僕を呆れ顔で見下ろす女の子がいた。


「ウサギが僕に何の用?」


『やっぱり気づいていなかったのね』


「何?」


『私がずっと後ろを歩いてたこと』


「え?」


 笑いかけるウサギの真意をつかもうと、僕は久しぶりに物事を考える。

 綺麗に着飾ったウサギが、こんな野山まで僕を追いかける理由――。


 幾つかの候補が白波に漂うカモメの如く現れては消え、溺れたかと思うとふっと浮かんでくる。


 そして、最後に僕の思考は孤島に辿り着く。

 僕の家族に頼まれたのか? きっとそうだ、そうに違いない。


「僕は帰らないよ」


『は? 何言ってんの?』


「連れ戻そうとしても無駄だよ。僕の決意は固いから」


『ぷ……はははっ!』


 咄嗟に勘違いに気づく。

 埃まみれの顔から熱を伴った激しい羞恥心が湧きたつ。


「お前は、何なんだよ」


『ふふっ、ごめんね。私も同じ方向を目指しているだけだよ。君を追いかけていたわけじゃないからね。ふふふっ』


 僕と同じ方向?


「偶然……ってことか」


『そう、本当に偶然』


「でも、目的地は違うだろ」


『どうかしら。一斉に言ってみる?』


 まるでゲームを楽しむように提案するウサギ。

 ウサギの驚く顔を見たくてすぐに賛成する僕。


「いいよ」


『じゃあ、合わせてね。せーのー!』


「『海!!』」


 えっ!?

 コイツも海に? 嘘だろ?


『あははっ! その顔、凄く驚いてる!』


「な、な、なんで海なんかに行くんだよ」


『海なんか、じゃないでしょ! 貴方だってそんなになってまで目指しているじゃん』


 ウサギが指さす先、僕は初めて自分を見る。


 泥と血に染まった手足……目前に佇む眩しいほどの白とはあまりにも対照的で、あまりにも情けない格好。


『でも、私だって海を目指す気持ちは負けないよ』


 そう言って遠くを見上げるウサギ。

 その瞳には、遥か彼方に輝く大海原が見えた。


「どうして海に行くんだ?」


『初対面の子には話しにくいかな』


「初対面だから話せることもあるだろ」


 気になるあまり、思わず強引になってしまった。

 何かが通じ合ったのか、彼女は少しだけ微笑んでからゆっくりと話し始めた。


『初対面の時期はもう過ぎてるから君の理屈には納得できないけど……いいよ、教えてあげる。でも、まずは君からね!』


 足元に落ちていた木の枝を拾い、鼓笛隊の指揮者さながら振り回して歩き出すウサギ。


「僕が先頭だぞ!」


 思わず声が出る。

 この数年で一番大きな声が。


 手足の痛みはもう感じない。

 同じ目的地を目指す仲間がいる、その事が僕に勇気と自信を与えてくれたから。


 こうして、僕とウサギの奇妙な旅が始まった。



 ꙳★゚꙳★゚꙳★゚꙳★゚꙳★*゚꙳



 僕には病気の妹が一人いる。

 日常に追われ、妹を顧みなかった日々。

 彼女と過ごした記憶ですら、彼女には見ることができない落ち葉で埋もれ、必死に掘り起こさない限り光を放つことはない。

 そんな折、お父さんの口から唐突に出た言葉は僕を罪悪感の谷に突き落とす。


 僕には余命1ヶ月の妹がいる。

 彼女は一言だけ“海を見たい”と言った。

 いくら考えても彼女が海を見たがる本当の理由なんてわからないし、彼女の目を見ると怖くて聞き出すこともできなかった。

 そして、そのたった一つの短文が彼女の僕への最後の言葉となってしまった。


 僕には海を目指す理由がある。

 僕の目に映る光景は彼女には届かない。

 もしベッドで静かに眠る妹に海の光を届けられる素敵な魔法があるのなら、この辛い旅路は明るく楽しい行進に変わるはず。

 僕に力を授けてくれる存在がいたら、妹の病室を両手一杯の海で満たしたい。


 僕には成し遂げたい夢がある。

 妹を蝕む苦痛を僕も全身で共有したい。

 妹より苦しんで苦しんで苦しんで、いくつもの山を乗り越えて乗り越えて乗り越えて、世界を一つに繋ぐ海を僕は目にする。

 そうして勝ち取る光は、きっと妹に安らかな朝を迎えさせてくれると信じて。



 息苦しくて言葉が出ない。



 死ってなんだろう。

 生ってなんだろう。


 死ぬ直前ってどんな気持ちになるだろう。

 残される者はどんな気持ちになるだろう。


 死ぬのは怖いよね。

 長く生きたいよね。


 妹は海に恐怖を投げ捨てたかったのかな。

 妹は海に奇跡を起こす力を求めたのかな。


 僕は悲嘆や悔恨から逃げたいのではない。

 僕は笑顔や希望を再び取り戻したいだけ。

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