ヴァイオリンの魅力①

 十分ほど歩いて連れて来られたのは、栗ノ木坂駅だった。

 夕方の時間帯ということもあり、駅前は家路につくサラリーマンや学生達でごった返す。

 その中を、江上瑠璃は広場の方へと足を向ける。

 ろくに説明も無いままなので、俺は落ち着かない気分になってきた。


「瑠璃さん。あの、何で駅なんかに楽器を運ばなきゃいけないんでしょうか?」

「分かんないかなぁ? 周りを見てみてよ」


 そう言われて見回してみれば、ギターの弾き語りをする者や、大道芸人らしき者達が居た。

 皆、思い思いに芸を披露し、通行人から小銭を貰っているようだ。

 まさかあの中に混ざろうとか言わないよな?


「時々人前で弾きたくなるんだよねぇ」

「瑠璃さんがですか? そのケースに入っているのってヴァイオリンなんですよね? 弾けるんですか?」

「そうそう。割と得意なんだよ」

「結構意外です。……それで、えーと、俺に伴奏しろとか言いませんよね?」

「言うよ! 他に誰が弾いてくれんのさ」

「あとから誰かが来て弾いてくれるかもしれないし」

「ないない。変なの。アハハ」


 うわぁ。帰りてぇ……。

 立ち尽くす俺を置いて、瑠璃さんはベンチの前で止まり、準備を始めた。

 黒いケースから取り出したのは艶々とした飴色のヴァイオリンだ。

 その美しい造形に見惚れる俺に、彼女の、やけに純粋に見える眼差しが向けられた。


「……いきなりごめんよ。一年前、君が映ってる動画で演奏を聴いて、是非一度合奏してみたいって思ってたんだ」

「そんなに前から……?」

「まぁね。あたしって結構ミーハーだから」


 彼女の近くまで歩き、ベンチに腰を下ろすと、ウサギ型のクリップで留められた楽譜の束を渡される。

 曲名はベートーベンの『Violin Sonata No.8(ヴァイオリンソナタ 第八番)』。


「無理強いはしないよ。君があたしのヴァイオリンの演奏を聴いて、一緒に弾いてもいいと思ったら合奏しよう」

「……一応言っておきますが、この曲初見です」

「翔君ならこのくらい余裕でしょ~!」

「……」


 確かに楽譜の一枚目だけ見るに、ピアノパートはト長調なので結構譜読みしやすい。技法的にも優しめだ。

 だけど、出だしの部分が問題ありまくりなのだ。


 序盤のヴァイオリンとピアノのユニゾン部分はアレグロの速さで細かく音を合わせないといけない。そこを失敗してしまったら、曲全部が台無しになるだろう。

 俺はこの曲を初めて弾くし、他の楽器との合奏も初めてだ。ヘマする可能性が物凄く高い。


 流石に無理だと伝えようとしたが、ヴァイオリンから鳴った音に口をとざす。


 おそらくチューニングしているんだろう。

 時折ペグを回しつつ、一本ずつ弦を鳴らし、次に二本ずつ鳴らして調整していく。


 俺たちの周りにはポツポツと人が増えていく。

 ヴァイオリンの音とは凄いもので、たったそれだけの行為でも、通行人達の心を捕らえてしまうようだ。


 それに乗じて、居心地の悪さがいや増す。


「よし、こんなもんかな!」


 彼女はヴァイオリンのチューニングを終え、立ち上がった。

 モチベーションが高そうな彼女と反対に、俺は陰キャらしくドンヨリとしている。


「あのですね、やっぱり、この曲はちょっと……」

「君は暫く私の演奏を聴いてて」

「……何を弾くんです?」

「バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第一番を弾いちゃうよ」

「なるほど、無伴奏……」


 それはたしか、ジブリの映画「耳をすませば」で、ヴァイオリン職人の見習い君が主人公の為にちょろっと弾いてみせた曲のはず。

 陽キャな彼女が選ぶには少々意外な曲な気がして、俺は目を瞬かせる。


――実力を見せつけようってわけか。んなら、黙って聴いてよう。


 彼女は背筋をピンと伸ばし、ヴァイオリンを構えた。

 元々容姿が整っているからか、たったそれだけで芸術品のように美しい。


 張り詰めた空気の中で、弦の上にスッと弓が下される。


 夕暮れ時の平和な駅前にひと匙の不穏を注ぎ込むかのような、深い、深い音色が響き渡る。


――ヴァイオリンで分散和音をこんなにも美しく弾けるのか……。


 厳粛な曲調ながらも、華やかさもある。おそらくそれは、ヴァイオリンか、彼女の個性によるのだろう。


 通行人が次々に足を止め、囁き交わす。

 その中には音大附属の制服を着た学生達も居て、瑠璃さんの名が呟かれる。

 どうやら彼女は他校にも知れ渡る程の有名人だったようだ。


 情けなくもすっかり音に魅了されてしまった俺は、瑠璃さんが弾く第二楽章のフーガを聴きながら、ノロノロと電子ピアノを組み立てる。

 爆死して、音大附属の連中を笑いの渦に引き込む自信しかないけど、一緒に弾いてみたい。


 俺の動きに気がついたのか、彼女は演奏をやめ、振り返った。


「やる気になってくれたんだ?」

「あんな演奏聴かされてしまったら、俺みたいな奴でも弾きたくなりますよ」

「いいねぇ」

「ただし! 出だしの部分は絶対グダると思いますから!」

「そうかもね。でもまぁ、合わなかったら、一緒に笑い飛ばそう。今は君と私が楽しめたらいいんだからさ」

「瑠璃さんのそういう所、見習いたくなります」

「弟子はいつでも受け付けてるよん」


 彼女の悪戯めいた笑顔に、俺は完全に毒気を抜かれてしまった。

 というか、いつのまにか随分気が緩んでいる。

 今は一人の凄腕ヴァイオリニストの卵との合奏を楽しんでやろう。

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