第12話 「隠してる所なんて見たがっちゃ駄目よ」

 意味不明のコトバが機関銃のように飛び出す。それがコトバになっているのか、それすらはっきりしない。


 くらくらする。

 何だこれは。


 TEARはめまいがしそうになるのを感じていた。

 MAVOの口から出るコトバは意味こそ判らなかったが高低高低、大きくなり小さくなり、それ自体一つの強力のメロディのようにもとれた。

 うっとりして自分の動きが止まりそうになるのが判る。

 だけどそれではいけない。

 リヴィングのテーブルに置いてあった果物ナイフがいつの間にかMAVOの右の手にあった。


 これは、まずい。


 錯乱している相手はとにかく黙らせなくてはならない。ナイフを向ける相手が自分であろうが相手自身であろうが、とにかく。

 TEARは気を取り直すと、声の波の中をくぐりぬけてMAVOに近づくと、左手でMAVOの右手を掴んだ。

 手の平をぐっと押さえると手の力が抜けてナイフが落ちた。そしてもう片方の手で、正面からMAVOをぐっと抱きしめた。ちょうど彼女の大きくふくらんだ胸のあたりだった。

 不安だった。TEARの耳には時計の秒針の音すらひどく大きく聞こえる。

 遠くでHISAKAのピアノの音が聞こえる。気付かないのかよ馬鹿野郎!自分の心臓の音すら聞こえてきそうだった。

 それは抱え込んでる彼女の頭から力が抜けて、TEARの胸に重みが一気にかかってきた時にやっと終わった。

 MAVOはずるずると床へ崩れ落ち、TEARはその落ちる勢いをゆるめながら、ほっとため息をついた。

 落ちているナイフはキッチンの方へと持っていき、MAVOは壁に立てかけたぬいぐるみにもたれさせておく。

 マリコさんは外出している。

 TEARはドアを開けた。


「ひさか……」


 スタジオの、ドアを大きく開けて呼んだ。


「HISAKA!」


 ピアノが驚いて不協和音を上げる。


「―――TEAR?」

「MAVOが」

「え?」

「何なんだ?! あいつは! あの子は! どういう子なんだ?」


 HISAKAは自分の前に立ちはだかるTEARを見上げながら、二秒ほどその言葉の意味を考えていた。そして眉を寄せて、言う。


「あんたあの子の手首の、ひっぱがした?」

「ああ」

「あちゃーっ……」


 ぺし、とHISAKAは手のひらで自分の額を打つ。


「また、か」

「また!?」

「ここしばらくは良かったのに」

「だから何なんだ、ってんだよっ!」

「トラウマ」

「虎馬?」

「精神的外傷って奴。隠してる所なんて見たがっちゃ駄目よ」

「確かにそうだけど」

「それに、別にあれはあの子がつけたんじゃないから。念のために言っておくと。あれはつけられたんだから。それは覚えといて」

「つけられた?」

「それ以上は言いたくないし、言っても仕方がない。そのくらいのデリカシィはあるでしょう?」


 そう言われては。


 「つけられた」。

 「手首に傷」を「つけられた」なんてのは尋常な事態じゃない。それもあれだけ残るくらいのものを。それは明らかに敵意か悪意がある。


 悪意を、誰かから受けていた?


 そう考えれば、MAVOがそのことをフラッシュバックさせていきなり半狂乱になってもおかしくはない、とTEARも思う。

 ―――思うが。


 いや違う。


 TEARは自分を引き合いに出す。

 それこそ誰かとケンカすることなんか多々あったことだし、その間に傷の一つや二つ、つくことだってある訳だ。

 だがその一つ一つにいちいち残るような「精神的外傷」とやらをつけていたら、たまったものではない。

 もちろんTEARは自分とMAVOが別の人間だということはよく判っている。

 だがMAVOとここしばらく一緒にいる限りでは、かなり精神的にタフな所であると気付いていた。

 少なくとも、あのステージで平気で4オクターヴ半の声をかっとばしているくらいである。度胸がないとは言わせない。


 なのに。


 HISAKAはそれ以上聞くな、と言う。


「聞くなと言われても」

「じゃあもう一つ。あの子は家族とトラブルがあった子なの。どう? それでいい?」


 HISAKAは「家族」にアクセントを置いた。


「判った。ごめん。もう聞かない」


 それ以上は絶対に、HISAKAは言わないだろう。TEARにももちろんその程度のデリカシィはあった。

 家族の絡んだトラブルというのは、他人相手のトラブルより重い。

 なまじ、血がつながっている、育ててもらった、「愛さなくてはならない」といった思いこみが、他人相手なら縁を切ればすむ程度のトラブルをややこしくややこしくしてしまう。

 誰も悪くないのに、誰も自分と相手の幸せを願っているだけなのに、誰も幸せになれない状態を作り出してしまうのも、家族がらみのトラブルに多い。それをTEARは自分でもよく判っていた。

 HISAKAはため息をつく。ピアノの丸椅子に足を大きく広げてくるりと回し、手は足の間に置いた。そしてそのまま落ち着かず、丸椅子をふらふらと揺らせている。


「TEARさんあの子、どう思う?」

「そうだね」


 そう言ってTEARは正面からHISAKAの肩に手を置いた。HISAKAの動きが止まる。HISAKAは見上げる。


「何だろうな、と前から思ってたけどさ、やっと判った」

「何」

「あの子の声さあ、歌ってる時とか――― 何かに似てると思ってたんだけど」

「似てる?」

「似てるって言うか――― そういう感じってだけど…… 赤ん坊の泣き声みたいだ」

「へ」


 思わずHISAKAはそんな声を立ててしまった。


「どうゆう意味」

「声の質どーのじゃなくてさあ、何か、泣いてる赤ん坊の声って、『何がなんでもこっち向け!』みたいじゃん。命関わってるからさあ、あの泣き声には」

「ああ、そう言えば」


 全身の力を込めて、必死で一番自分を守ってくれる相手を呼ぶ、その声に。

 守ってくれる者がなくては無力なのだ。だから誰かを呼ぶ。だからその呼ぶ声は、どんな大人の叫びよりも強烈である。時には聞いていていたたまれない思いにかられてしまうくらいに。


「ああいう感じ」

「……」

「正直言って、さっき聞いた奴って、訳の判らんコトバだったんだけど…それでもくらくらしたもんな… このあたしがさあ」

「へえ」


 あ、こいつもか、とHISAKAは思った。

 MAVOの「声」がその名の通り「とんでもない」ものになるのはそういう瞬間だ。怒りがその引き金になる。


「だから」

「あたしまた何かしたの!」


 言いかけた時だった。MAVOが部屋に飛び込んできた。


「MAVOちゃん」

「したのねっ!」


 猪突猛進、という単語がTEARの中に浮かんだ。

 そのくらい勢いよくMAVOはTEARに突進してきたのだ。いや正確に言えば、「飛びついてきた」。

 その勢いが良すぎてTEARは後ろにひっくり返ってしまったが。

 ひっくり返ってもMAVOはしがみついたままだった。


「こら、離しなって」

「やだ」


 ぶるんぶるんと頭を横に振りながら言う。


「ごめんごめんごめんごめん…… どっかけがした? 大丈夫? ねえねえねえ」


 どちらかと言うと、今転んだ時のお尻の打ち身の方がひどいような気もするが。HISAKAは思う。

 TEARは上半身を起こすと、大丈夫大丈夫、とMAVOの頭を撫でた。赤ん坊の声を上げる奴ならこうしましょ。

 彼女は何となく、このトラウマ持ちのヴォーカリストが可愛くなってきつつある自分に気付いていた。

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