2-9 話しかけた理由

 結局、いつもの喫茶店に入ることにした。

 俺と貴理はもう慣れたものだが、木村はこの店に入るのは初めてだったらしく、物珍しそうにキョロキョロと店内を見回している。


「この店、高校時代から気になってはいたんだけど、チェーンじゃないからかなぁ、どうしても入りにくくてさ。まさか渡貫がここのマスターと知り合いだとは思わなかったぜ」

「御託は良いから、さっさと本題を話してくれ」


 さっきマスターが運んできたロイヤルミルクティーに口を付けながら、先を促す。

 相変わらずこの店のロイヤルミルクティーは美味い。

 貴理もマスターから本日のおすすめをもらって口を付けていた。

 流石に他の客がいるときは自重するのか、マスターから茶葉が何か聞かれることはなかった。

 今日の茶葉は分かっているのか多少気になるが、今はそれよりも片付けなければならない問題がある。


「お、おう。あー、実は相談っていうのはな……恋愛、相談なんだ……」

「帰る」

「詳! ちょっと待ちなさいよ!」


 刹那の間にやる気を失った俺が席を立とうとすると、貴理に呼び止められた。

 裾を掴んでいるのは状況によってはあざといかもしれないが、今は単に邪魔なだけだ。

 『HA☆NA☆SE!』と振り払おうとしたが、喫茶店内なので自重した。


「色恋沙汰はもうたくさんだ。2日前に八代さんの件を解決したばかりだぞ……」

「まぁまぁいいじゃない。同級生のよしみでしょ? 話くらい聞いてあげなさいよ」

「あぁ、俺からも頼む! 他の人に意見が聞いてみたかったんだが、サークル内の友達はちょっとまずくて……」

「要は、あの工作サークル内でのゴタゴタってことか?」

「まぁ、そうなるな……」

「詳しく話してください」


 多少緊張しているのか、注文したセイロンの紅茶を飲んで口を濡らした後、ぽつぽつと話し始めた。


「あー、実は俺、サークル内に気になってる女子がいるんだけど……今までは接点がなかったんだよ……」

「ほうほう。サークル内恋愛とかロマンですね! それで、どうなったんです?」


 立ち込めるラブコメ臭に吐き気がしてきた。帰りたい。

 しかし、貴理は普段見せないようなキラッキラした瞳で話を聞いている。帰らせてはくれないだろう……


「でも、3週間前くらいかな? あっちから俺に話しかけてきてさ! 驚いて多少キョドってしまったんだが、世間話が出来たんだよ!」

「ふむふむ。何か用事があったのでは?」

「俺も最初はそう思ったんだけどよ。別にそんなことはなくて、数分世間話をしただけで終わったんだよな」

「それだけですか?」

「いや、それからサークルの活動で会う度に話しかけられるようになったんだ! 内容は下らないもんだけどさ」

「ってことは、もしや木村先輩に興味を持ってくれたとか?」


 貴理がノリノリでそう聞くと、木村は微妙そうな表情になる。


「そうだったら嬉しいんだけどな……」

「どういうことです?」

「1週間くらい前に偶然繁華街で会ったんだよ。で、俺からあいさつしたんだけどさ、無視されちまった……」

「えぇ!? ……えっと、気づいていなかっただけでは?」

「その時は俺もそう思ったんだ! でもよ、別の日にキャンパス内で偶然会った時も挨拶一つしてくれなかったんだよな……その時は絶対気づいてたはずなんだ」

「……なにか怒らせるようなことをしてしまったとか、ないですか?」

「全く身に覚えがねぇ……それに、そういうことが他にも数回あったんだが、その後サークルで会った時なんかはまた普通に話しかけてきたぜ」

「それは……謎ですね」

「だろ!? だからどういうことか聞きたくてよ! 渡貫、お前はどう思う?」

「そうだな……連絡先の交換はしたのか?」

「あぁ! それはもちろん! これを見てくれよ!」


 木村が意気揚々とスマホの画面を見せてくる。

 そこには、確かに女子とメッセージを交わしている様子が映っていた。

 ただ……


「え、これって、かなりの塩対応じゃないですか?」

「お前が送った数行分の文章量に対して、相手が送ってきてるのが一言って……切ないな、木村」

「やめろぉ! 言わないでくれ!」


 しかも、木村は返信が来て数分で返しているのに、相手は数日空けて返している。これは酷い。


「なぁ、どういうことなんだと思う? 俺には全然分からなくてよ……」

「念のため聞いておくんだが、お前のその顔がサークル内では熱狂的な人気だったり、お前が実は超の付く金持ちだったりってことはないよな?」

「お前、俺の顔をちゃんと見て言ってくれよ……普通だ。ごく普通! 金持ちってこともないぜ」

「だよな。じゃあ、その女との世間話がいつも同じ話題だったとかはないか? こう共通の趣味ってやつで」

「いや、そんなことはなかったぜ。講義の話題だったり、サークルの活動についてだったり……色々だ」

「なら、最初に話しかけられるより以前に、お前が何か活躍したり目立ったり、そういう惚れられてもおかしくないようなことがあったりは?」

「……いや、ないな。何の前触れもなく、唐突に話しかけられたんだ」


 そのフレーズが、自身の体験を思い起こさせた。

 あの時は、俺も唐突に話しかけられた。

 今思えば、あれは俺がアガサ・クリスティーの本を読んでいたからに違いない。本人も同士が欲しかったと言っていたし。

 それでも、当時の俺には興味深い謎だった。木村も今そういう状況なのだろう。

 俺はやっと、真面目に話を聞いてやろうという気になった。


「詳、どう思う?」

「うーん……貴理、とりあえず今までの話をまとめてみてくれないか?」

「分かったわ」


 ・木村とその女性は同じサークル

 ・話しかけられたのは3週間前、それまでは接点なし

 ・サークルの集まりでは女性から話しかけてくるが、その他の場面では無視される

 ・連絡先の交換はしたが、塩対応である

 ・共通の趣味と思しきものは見当たらない

 ・木村はイケメンではない

 ・木村は金持ちでもない

 ・木村は特に活躍していない


 情報は良くまとまっているが、言葉が辛辣な気がする。

 特に後半の3つは切れ味が良すぎる。俺がこんなこと言われたら、ガラスのハートが真っ二つだ。

 さて、あまり気は乗らないが考えてみよう。

 ……

 数分間黙って思考の海を漂っていると、1つの可能性が浮かび上がってきた。

 まだ確定とは言えないが、確度は高い気がする。

 後は確認と、どう説明するかだ。


「あー……木村、お前その女と仲が良い奴の連絡先とか知ってるか?」

「え? まぁ知ってるけど、どうしてだ?」

「そいつに聞きたいことがある。まだそいつにはその女が好きだって言ってないんだよな?」

「まぁな。相談すらしてねぇよ。サークル内でのゴタゴタってあんまり言いたくないだろ?」

「なら、そいつに1つ聞いて欲しいことがある」

「え? 詳、どういうこと?」

「説明は今からする。とりあえずメッセージを入れといてくれ」

「あ、あぁ、分かった」


 木村は自身のスマホを操作して、俺が言った通りのメッセージを送ると、怪訝な顔をして俺に向き直る。


「で、どういうことだよ?」

「人が、今まで話したことがない他人に話しかける目的って何だと思う?」

「え? それはー……その、そいつと仲良くなりたかったとかじゃねぇの?」

「もちろんそれもある。だが、それだけではない。俺は大別して2つ、細かく分ければ少なくとも4つの理由があると思っている」


 そう言って、貴理から手帳を借りると、白紙のページにペンを走らせる。


 ・その人自身が目的

 ・その人の持っている所有物が目的

 ・その人でなくとも良かったが、話している内容が目的

 ・その人でなくとも良かったが、話しているという行為自体が目的


「前者2つが、友達や恋人、浮気相手や金づる等の関係性を築くために、手段として会話という手を取った場合。つまり、目的は話しかけた相手と関係性を築くことだ」

「なら、後者2つは、会話それ自体が目的ってことね」

「そういうことだ。で、問題は今回のケースはこの中のどれに該当するのかってことになる」

「そりゃお前、1番上の『俺自身が目的』に決まってるだろ?」

「そうか? 俺はそうは思わない」

「なんでだ!?」

「順に説明する。まず、1つ目が却下な理由だが、お前はイケメンでもなければ、惚れられるようなこともしていない。この時点で1つ目はないと思っていた」

「でも詳、それは憶測よね? そんなの、私納得できない」


 出た。毎回恒例だ。これから説明するのだから、少し待って欲しいものだ。


「別にイケメンじゃなくて目立ってもなくたって、魅力を感じて仲良くなりたいと思うことはあるでしょ?」

「そうかもしれない。でも、今回はあり得ない」

「なんで?」

「話しかけられている場面が限定的、かつ、ラインでの対応が明らかに塩対応だからだ」

「うっ……それは、俺も不思議に思ってたけどよ……」

「いいか? 本当にその相手と仲良くなろうと思ってるなら、こんな対応はしないだろ? 論理的に考えて不自然だ」

「そ、それは……あ! 木村さんには魅力を感じてるけど、話はつまらないと思ってるってのはどう?」

「貴理ちゃんって結構辛辣なこと言うよな……俺傷ついたよ……」

「あ、ごめんなさい……」


 俺には日ごろ虫けらのような扱いをしているくせに、木村には謝るのか。


「それもないな。木村の話がつまらないと思っているのはあり得るが、魅力は感じていない」

「どうしてそう言い切れるの!?」

「そうだとしたら、なぜ『無視』までするんだ? 話がつまらなくたって、仲良くなりたいなら挨拶くらいは普通に返すだろ」

「た、確かに……」

「このことから、相手の女は木村と仲良くなりたいとは考えていない。むしろ嫌われている可能性すらある。それは分からんが」

「そ、そんな……」


 木村ががっくりとうなだれる。気持ちは分かる。


「次に、『木村の所有物が目的』の線だが、これもない。木村は金持ちじゃないし、別に特殊なものを持っているわけでもない一般人だ。まずありえない」

「まぁそれはそうね」

「それに、もしこの線だとしたら、さっきも言った通り『無視』するのはおかしい。関係性を築きたいなら不合理だ」

「てことは、残るは『会話自体が目的』の線ね」

「そうだ。そして、3つ目の『木村でなくとも良かったが、話している内容が目的』についてだが、これもないと思っている」

「どうして?」

「さっき『共通の趣味はないか』と聞いたとき、話題はいつもバラバラだと言っていたし、そもそもこれが目的になるのは会話が楽しい時だ。それならラインが塩対応になり、偶然会った時話さないのは変じゃないか?」

「そうね……さっき木村さんの話は退屈だって話が出たし……」

「会話の内容が目的だったとしても、話していて楽しい人物には愛着が湧いてきてしまうのが普通だ。やはり『無視』はあり得ない」

「あの……もう俺、泣いて良いすか?」


 木村はもうさっきから涙目だ。

 可哀そうだが、相談してきたのはこいつである。慈悲はない。


「お前のためにやってるんだぞ。泣くのは結論が出てからにしてくれ」

「あ、はい……」

「ということは、残る線は『木村さんでなくとも良かったが、話しているという行為自体が目的』よね? さっき見たときも思ったんだけど、これってどういう意味?」

「会話している人物と内容はどうでも良いが、会話しているという状況が必要ってことだ」

「ごめん、ちょっとよく分からないんだけど……」

「例を挙げれば、『会話をしていることで周囲に溶け込みたい』、あるいは『会話しているところを他の誰かに見せつけたい』とかだな」


 そう言った瞬間、貴理の目に理解の色が浮かぶ。そして、悲しげに顔を伏せた。

 貴理にも事の顛末が分かったのだろう。そして、木村が体よく利用されていただけだということも。


「だからさっき、『3』ということがないかを聞いてくれって言っていたのね……」

「そういうことだ」

「え? おい、どういうことだよ! 俺にはまだ全然分かんねぇんだが!?」


 木村がそう声を荒げた時、丁度彼のスマホが音を立てる。

 どうやら先ほどの問いの答えが返ってきたらしい。


「なんてきた?」

「ん……えーと、どうやら3週間前にサークル内にいた彼氏に振られたらしいな。マジか、あいつ彼氏いたのか……」


 これで確定的だ。木村には悲しい現実ということになるが……


「そ、それで、結局どういうことだったんだ?」

「木村、正気を保てよ。お前には悲しい事実になる」

「そ、それは?」

「俺はさっき、4つ目の理由の例として『会話しているところを他の誰かに見せつけたい』というのを挙げたよな?」

「おう。え、まさか?」

「そうだ。その女の目的はこれだったんだ」

「え? じゃあ一体誰に……あ! そうか……」

「お前が考えている通りだ。その女は『3週間前に振られた彼氏』にお前と仲良く話している場面を見せつけたかったんだ。つまり、当てつけだな。『逃した魚は大きかった』とでも思わせたかったんだろ」

「……」


 非情な現実だ。だが、こう考えれば女の行動にすべて説明がつく。

 サークルの活動でだけ話しかけてきたのは、見せつけたかった男がそこにいたからだ。

 逆にその他の場面では、見せるべき相手がいなかったために会話の必要性がなかった。

 ラインを放置したのも、別に木村には興味がなかったからだろう。

 もしかしたら、興味を持たれていないのにしつこくラインをしたから嫌われて、無視までされてしまったのかもしれない。

 要は、その女は木村を単なる道具としか見ていなかったということ。

 別に木村でなくても良かったに違いない。選ばれたのは偶然か。神は残酷だ。


「お前は道具だったんだよ木村。その女は男なら誰でも良かったんだ」

「あ、あはは……なるほどなぁ。どうりで……」

「俺からアドバイスを送るなら、そんな女はやめておけ。もし万が一付き合えたとしても、ろくな未来が待ってない」

「そうかもな……すまん。俺もう帰るわ。ちょっとキツイ。約束のお茶代はここに置いとくからよ。今日は……ありがとな……」


 木村は雑に財布から紙幣を2枚抜き取ると、テーブルに放り出す。

 そして、フラフラとした足取りで店を出て行った。

 追いかけようとは思わない。こういう時は一人になりたいものだ。


「……最後の言い方はなかったんじゃない?」

「曖昧に濁して慰めるよりは、言い切ってやったほうが良いだろ。実現しない希望は、下手な絶望より質が悪い」

「そうかもしれないけど……」


 もう冷めてしまったミルクティーに口を付け、一息つく。

 ……熱くもなく冷たくもない微妙な温度は、あれほど美味しかった風味を貶めていた。

 やはり、紅茶は熱いうちに飲むに限る。


「今回の件、説明を聞いてしまえばそうとしか思えないけど、木村先輩から話を聞いた時点では謎だったわ。木村先輩も、多分良い結果を期待してたと思う」

「そうだろうな」

「それは、どうしてなのかしらね……?」

「あいつが言ってただろ、『俺自身が目的に決まってる』って。要は『向こうから話しかけてきてくれたのだから友好的に違いない』と、思い込んでしまっていたんだ」


 人は、その人に見えている側面とその人自身の価値観でしか他人を測れない。

 今回の木村の判断もそれだ。

 『向こうから話しかけてきてくれたのだから友好的に違いない』というあいつの価値観が、事実とは異なる見解を生んだ。


「要は、あいつは見たいものしか見てなかったってことだな。ある意味自業自得だ」

「そうかもね」


 貴理の前ではこう言ったが、俺は多分に木村へ同情していた。

 『見たいものしか見ていなかった』だなんて、随分都合の良い言葉だ。人にはそれしか出来ないというのに。

 人は本質的に孤独なのだから、他人と完全に分かり合うということは絶対に無理だ。

 相手が自分に見せてくれる面を必死にかき集め、白紙の紙に張り付けて実像に近くなるように虚像を作成していく。

 ただ、それは自分の意識を通した時点で何かしらの加工を受けている。

 それは美化やその反対、あるいは拡大や縮小かもしれない。

 加工されたパーツをどんなに集めて張り付けても、歪んだ像が出来るだけ。

 人の理解とはその程度だ。精度を上げたところで、決して本物になりはしない。


「詳はどうだったの?」

「何?」

「ほら、昔好きな人がいたんでしょ? 木村さんが連絡してくれるかもしれないっていう」

「あぁ……いや、連絡を取ってもらったりはしない」

「ふーん、そう」


 貴理は、どこか安心したようにため息をついた。


「でも、あんたがその人をどう思っていたのかは興味あるわね」


 ……俺は、俺と出会う前の朱莉のことを何一つ知らない。

 いや、正確には、『俺と遊んでいたときの朱莉』しか知らない。

 俺がいないときの朱莉のことは、何一つ知らない。

 そういえば朱莉の家族にも会ったことがないし、家の場所は教えられていても実際に行ったことはなかった。

 もしかしなくても、俺は朱莉について全然知らないのだ。


『ねぇ、何読んでるの?』


 ふと、木村の件に触発されて、出会った時の情景を鮮明に思い出してしまう。

 ……その時、1つの勘違いに気づいた。

 今まで、朱莉が俺に話しかけたのは俺がアガサ・クリスティーの本を読んでいたからに違いないと思っていた。

 だが違う。あの時、朱莉が本のタイトルに気づいたのは、俺が話しかけられた後だった。

 では、朱莉はなぜ俺に話しかけたんだろうか?


「……よそう。過去を掘り返しても、何にもならない」

「どうして?」

「っ……そもそも、論理的には過去と現在は繋がっていると断言はできないんだ」


 貴理に心情を吐露することは憚られる。逃げるために適当な論争へと持ち込む算段だ。


「私が聞きたいのはそういうことじゃないけど……まぁそっちも面白そうだし、乗ってあげる」


 ニマニマと嗤う貴理の顔はムカつくが、追及から逃れるために言葉を紡ぐ。


「世界が今、この瞬間に出来たと言ったら、お前はどう思う?」


 はっきり言って意味不明な問いのはずだ。

 まぁ、これに対する貴理の答えは予想出来ている。

 いや、普通の人は皆こう答えるだろう。


「そんなこと、信じられるはずないわ」


 そう貴理は答えた。普通はそうだと思う。

 今世界が出来たなんて、バカバカしいにも程がある仮定だ。

 しかし、これを考えることには意味がある。


「それはどうしてだ?」


 俺のこの問いに対する返答は、当たり前の事実だ。


「証拠があるじゃない。文系の私にだって、そのくらいは分かるわ。地球は、地層や化石なんかから、約46億年前に誕生したことが分かっているはずよ」


 そう、貴理の言う通り。地球ですら大体46億年前にはもう存在している。


「それに、宇宙だって、いろいろな証拠から、ずっと遥か昔に誕生したことが分かってる。だから、今誕生したわけないわ。それは、色々な証拠が保証してる」


 世界、つまり宇宙まで話を広げれば、もっと昔から存在していることは明らかだ。

 それは、世界中の科学者達が証拠と証明を積み重ねて突き詰めてきた真実。

 覆しようがないものだ。


「果たして、本当にそう言えるかな?」


 クスリ、と少し笑いを含んだような声で嘲笑う。

 先程まで主導権を握られていた反動か、少し気分が良い。

 貴理には当然だと思えることに、俺は疑問を投げかける。


「え? どういう意味?」


 思わずそう問いかけてしまったのだろう。貴理の顔に困惑の色が浮かぶ。


「もし、世界が今、『この形』で誕生したとしたら? お前の言う『証拠』とやらに価値はあるのか?」


 貴理の表情に衝撃が走った。

 それはそうだろう。俺もこの『世界五分前仮説』を最初に聞いたときは、今までの常識と認識が音を立てて崩れていくような気がした。

 そう。世界が今、『この完成された形』で誕生したとしたなら、記録にも記憶にも意味がない。

 なぜなら、最初からそう作られたと考えることができるから。

 地球は、約46億年前に誕生したという証拠を持って今作られた。

 俺という人間は、『昨日はあんなことをした』という記憶を持って今作られた。

 そう考えると、さっき貴理があげたものが証拠にはならないことがわかる。

 いや、だけど、と普通の人は思い直すだろう。

 それがなんだと言うのか、と。

 こんなものは悪魔の証明だ。誰にも証明が出来ないことが定まっている、意味のない問いかけ。

 つまり、考えるだけ無駄な案件だと。


「で、だから、なんだって言うの? 仮にそうだったとして、考えるだけ無駄な問いかけじゃない?」


 貴理はそう反論する。

 悪魔の証明は、議論を意味のない平行線に終わらせてしまうため、通常の討論ではそれを持ちかけた方が敗北だ。


「いや、この問いには意味がある。少し極端な例だがな」

「どんな……?」

「少しは考えてみたらどうだ?」


 貴理は少しの間思案を巡らせると、納得したようにうなずいた。


「なるほどね。こんな壮大な話まで持ち出して、あんたが言いたかったことが分かったわ。本当下らない。あんたってそういう理屈っぽいこと大好きよね」

「まぁな」


 人は、自分の主観という檻から出ることは出来ない。自分の認識から逃れることは出来ない。

 つまり、自分の認識に縛られている。

 人にとっての世界とは、認識、主観のことだ。

 さっきの例で言えば、記憶も記録も、その人が視る世界を構成するありとあらゆるモノはその人の認識を通している。

 そして、さっきの例から分かることは、その認識に誤りがあったとしても、決してその本人には気づけないということだ。

 世界がもし、今この瞬間に出来たとしても、その人には遥か昔に出来たものだと認識される。

 あまりに荒唐無稽な話だが、これは論理的に完璧な否定は不可能なのである。

 すなわち、自分がいま存在している『現在』と、さっきまで存在していた『過去』がつながっていない可能性を示唆している。

 実は、因果律とは、『人の日常の経験からそれを前提としているただの仮定』であり、因果律自体を論理的必然から導くことは出来ない。

 科学の根底にある重要な概念だが、論理的には『単なる経験則』という扱いなのだ。

 つまり、『起きた時刻の違う2つの現象の間には、何かしらの関係がなければならない』ということは論理的な必然性からは導けないのだ。

 そのため、推理小説の探偵よろしく『今発生した出来事』や『これから起きるであろう出来事』をどれだけ調べても、それによって『過去発生した出来事』を完全に証明または反証する、ということは不可能である。

 ……厳密に考えると、だが。

 自分が視て、感じて、思い出しているもの。それは本当に、『』なのか?

 その答えは永遠に分からないままだ。

 ――要は、過去なんて詮索しても無意味だと、そう言いたかったのだ。俺は。


「確かに、あんたの言ってることは正しい」


 貴理はそう言うと、俺にまっすぐに向き直り、責めるように目を細める。


「でもね、詳。『』なのよ。ハイデガーの言う通りね。論理的な証拠や根拠なんて、あってもなくてもどっちでも良い。人は何かあると、過去と結びつけずにはいられないの」


 確かに、その通りだ。

 例えば、朝に占いで赤がラッキーカラーと言われて身につけて行ったら、偶然宝くじに当たった場合。

 根拠なんて全くなくても、あの占いが当たったと思う人は多い。

 その過去が悲劇であったとしても、現在が良ければその幸福の原因の一つとみなされる。逆もまた然りだ。


「あんたはこんな話まで持ち出して、過去は振り返らないって言いたかったんでしょうけど、本当に?」


 少しの沈黙。俺に答える言葉はない。

 貴理もそれが分かったのか、残っている紅茶を全部飲み干すと、席を立つ。

 そして、振り返り際に言葉を残して行った。


「――?」


 否定することは出来なかった。その言葉が、酷く深く胸に突き刺さったから。

 貴理が店から出て行くのを見送って、長いため息をついた。

 数分待ってから自分も席を立ち、会計を済ませて、マスターからお釣りとレシートをもらう。

 その際マスターが何か言っていたような気がするが、よく聞いていなかった。

 店の外を見ると、曇りだった天気は雨へと変わり、道ゆく人は傘をさしている。

 自分が傘を持っていないという事実に憂鬱になりながら、温かい家を目指して雨の降る街へと繰り出した。

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