リマとマトー

東山ゆう

第1話月夜の出会い

この国に盗賊マトーの名を知らぬ者はいない。

霧の城に住まう、恐ろしい盗賊の王


あの村が地図から消えた、この街が焼け煤となった。新聞屋がこぞって煽り立て、刷りたての号外が青空に舞う。



泣いてる赤子はさらに爆泣き。村長さんの夜語りの日は、軒並みおねしょが増える。


若い娘はその名を舌に乗せるのもはばかられ、うっかり口を滑らせれば妊娠確実と囃し立てられる


マトーの名に震え上がらぬ者は居ない。



マトーに囚われたものはもって三月の命



大好物は処女の心臓。人妻。夫の断末魔。


マトー! 恐ろしい響き!


もちろん国境の隅っこ、小さな村娘リマだって例にもれない。ぱちぱち爆ぜる暖炉の温もりの元、うなじの産毛までぞくぞくさせて、お話し上手の村長さまの夜語りにかぶりついて育った。


けれども、こうしていともたやすく捕らえられ、恐ろしい城にその身があるとは、信じられなかった。


石カビ臭い石牢の錠がガチャンと落ちるまでは


不幸中の幸いとも言えるのは、村の誰一人命を落とさなかったということだ。抵抗する間も無く、瞬く間にまるっと捕らえられてしまったのだから。


村が一つ入るほどの巨大な牢


ああ、ここは確かにマトーの根城…! 伝説よりはるかに恐ろしい!


人々の絶望など御構い無しに太陽は落ち、空は夜に染まる


少女の星空の瞳に一点白い粒が灯った

満ちる寸前のこぼれ落ちそうな月


手繰り寄せれば真珠の様に手のひらで転がせそう


だけど、ああ、決して手が届くことはないのだわ


こんなことを考えている場合じゃないのに不思議だわ


どんな時でも月は美しい


小さな窓から差し込む月光が虜囚を照らす


人々が身を寄せ合う


春の初めとは言えまだ夜は底冷えする


「お姉ちゃん、寒い…。お腹減った…」



義弟のウィドーが泣きべそをかく


「ねえ、僕たち死んじゃうの? あの、こわーいマトーに捕まったのでしょう? こんなことになるなら、ぼく、ラズベリータルトを取っておかないで食べちゃったらよかった。僕たちきっと心臓を食べられちゃうよ。」


「私たち食べられなんてしないわ。心臓を食べるなんてきっと嘘だわ。村長さんが調子に乗って大ぼら吹いたのよ。大丈夫、きっと神様が守り導いてくださるわ」


リマは大変信心深い娘でどんな時も希望を捨てない。だが、今回はさすがになーんの根拠もなかった。ただの気休めだ。泣き虫な義弟がぐずっては、機嫌の悪い賊に切り捨てられかねない。


リマはショール分け合ってウィドーと二人でくるまった。二房に結った長い黒髪がさらりと流れる。指先まで冷えるが頬はまだ朱を失っていない。


私たちきっと「右の国」へ売り払われる…マトーは右の国の手先だって話だもの。敵国へ売られた人間がどんな扱いを受けるかなんて考えたくもない。よくて奴隷か、娼婦…貴族の余興


だが、それでも、生きることを諦めなければ…死なない限りは人は生きられる


冷えた空気が揺れた


カシャン


鉄格子の開く音


マトーだ!


どこからともなく悲鳴が上がる


たちまち人の波がさざめいてぱっかり割れる


大海を割る神のよう


真っ黒な影が割れた波間に現れる


怯えた人々の目など気にも止めずに


大股で、ゆっくりと歩を進める


コツコツ…


無機質で、冷たい足音が壁に響く。


さざめきひとつなく静まり返る。


誰もがすくみ上がり、けれども視線だけは、伝説の悪人に釘付けになって…。


リマにも年頃の乙女の好奇心というものはあって、マトーの姿を見ようと目線を上げてしまった。が、ちらとその姿を見ただけで即座に後悔した。


あれがマトー! 恐ろしい男!


他の族とは雰囲気からして違う。


黒くて恐ろしい塊


筋肉で盛り上がる大きな体躯は、漆黒の衣が覆っている


世界中の暗い情念がかたち取ったかのよう

ほの暗く燃ゆる黒い炎

一目でわかる残忍さ


真っ青な月の底で、真っ赤に燃えるマント


血で染めあげたという噂


そして、何より恐ろしい瞳!


ギラギラと獣の様に煌めいて、光の跡が見えるようだ


本能から畏怖を感じて屈服したくなる


男が止まった。


腰に当ててだるそうに群衆を一望する。それから面倒臭そうに女を指で示した


「こいつ」


「こいつとこいつ、あとあいつも……」


どれも美しい娘ばかり


手下がたちまち駆けつけて女を荒く追い立てる


きゃああ


悲鳴が咲く


腰が抜けて立てない女は引きずられていく


きっと今夜抱く女を選んでいるのだわ!


…大丈夫、私は選ばれないわ。


私はとりたてて美しくもない平凡な娘だもの…。こうして俯いて顔を隠していれば気にも止められないわ…。鏡の前でため息をついた日もあったけど、今日だけは心の底からありがたい。


コツコツ


足音が近づいてくる


真っ赤な炎のようなマントが、月に染まる石床を舐める


もう、すぐ頬をかすめそう


獰猛な獣の瞳が、ギラギラ獲物を探す


リマの鼻先で歩を止める

リマはぐうっと息を止めてさらに縮こまる


こっちを見ませんように!


カツ……


再び歩き出す


マトーのマントがふわりと舞って、リマの黒髪を掠っていった。

よかった。安堵に胸をなでおろす



「ねえちゃん、怖い」

「今は喋っちゃだめ、大丈夫! 大丈夫だから」


ウィドーはパニックに陥ると大声で泣きだしてしまう。もし今泣いたら…? それだけは絶対避けなければいけない。咄嗟にウィドーをかきいだく。


そして、気丈にも微笑んで見せた…。


そう、微笑んでしまったのだ…!

恐怖に歪む群衆の中で、それがどれほど際立つかも考えずに。


さわり、首筋に冷たいものが触れた気がした。


小動物が捕食される寸前に見る走馬灯


獣の牙が食い込む寸前…

反射的に顔を上げる。


月を仰ぎ見るはずの視界は、煌めく黄金の瞳で遮られた


月の炎に煌めく、冷酷な瞳


ざりっと、マトーの靴底が鳴った。向かう先を変えた音

信じがたい。この世の終わりを告げた音だった

ぞっと全身の産毛が逆立つ。


だが身体が竦んで身じろぎ一つできない


真っ黒な腕が闇から伸びて


まさか、ああそんなまさか、誰か嘘だと言って。夢なら醒めて


「ねえちゃん!」


ふわりと体が地から浮く。ショールが舞う。

長い黒髪が最後にウィドーを撫でて離れた


誰もが悪夢から覚めた時には、もう黒い影は跡形もなく


何事もなかったような月


ただ、幼子の残響だけが石壁にしばらく残った


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