理論はこうして始まる。

「腹、減ったー……」


 校内の廊下を目的も無く一人歩く。


 お昼休みだというのに、最大の楽しみである弁当を忘れてしまった。いや、はっきりと言うなら一つは持ってきた。だが、それは俺の弁当ではない。

 翼という食いしん坊から弁当を守るための、いわば身代わり弁当。


 忘れたことに気付きもせずに、ほらよ弁当、と言って、ワーイ頂きますと受け取られた時にはもう終わり。


 鞄の中身をひっくり返す勢いで探すも、無いものは無い。


 焦りを友人二人に知られたくない一心で、ちょっと購買行ってくると言って教室を飛び出すも、そこでも失敗。


 財布を鞄に入れたまま持ってくるのを忘れてしまったからだ。


 弁当は無く、パンを買う金さえない。そんな自分の不幸に涙が出てきそうだ。



 購買から戻ってきた生徒が俺を見るなり視線を合わせまいと知らんぷりを決め込む。


 特にどうの言いたいわけではないけど、あんた、流石にへこむからパンを差し出そうとしないでくれ。


 と、慈悲深くパンを差し出す聖人のような生徒の手をそっと拒み、再び、当てもなくふらつく。


「ハハッ、こんなことなら朝食ってけば良かった」


 育ち盛りには厳しい試練だ。残り二時間と半分を空腹で乗り越えろというのは。

 仕方ないから教室で寝るか、そう思った時だ。


「……トーストの香り」


 どこかからトーストの香りがした。気になって臭いを辿ると、とある部屋の前に立ち止まった。


「料理準備室……」


 扉の上にある室名札にはそう書いてある。


 料理部の誰かがパンでも焼いているのかな。と思ったが、それはあり得ない。

 料理部の部活動は放課後と決まっている。なので、お昼休みという少ない時間帯で料理をしてる可能性は低い……と、思う。


「どう考えてもこの部屋からだよな」


 なおも香ばしい香りがする。しかも、トーストの香りに混じって、何か甘い香りもする。


 香りの正体が気になって、扉に手を掛けて窓越しに確認しようとしてみた。


 もしかしたら部員が持参した食パンでも焼いているのかも知れない。もしそうなら、一切れ貰おうかな。


「いや、だめだ。さっき聖人みたいな奴の手を払ったばっかだ。ここは、見なかったことにしよう」


 人の情けを拒んだばかりなのに、それにつけ入ろうなんてプライドが許さない。


 だから、扉を離れた。


 離れたんだけど。


「うおっ!?」


 中が見たくて扉に手を掛けていた事を忘れていた。意を決めて、勢い良く振り返った拍子に扉が少し開いてしまった。


「誰ですか!?」


 女子生徒の声、酷く驚いてるようだ。


 って、驚かした張本人が呑気に解説してる場合じゃない!


「ごめん! 気になって覗いてただけなんだ! いや、覗いてたと言っても決してやましい意味じゃ……なくて」


 扉から半身を覗かせる女子生徒は、氷のように透き通った目と、白玉のような綺麗な肌をしていた。

 前髪がやや長く、俺より人周り小さい。驚いて身構えたからか、腕をそれなりに存在感のある胸の方にきつく寄せて、出方を伺っているようだった。


「あの……なにか」


 か細く揺れる声と、すだれと化した前髪越しに感じる視線。

 どう見ても、コミュ症という部類の人間だ。


「ごめん、用とかないんだ。ちょっと手を伸ばした拍子にさ、当たっちゃって」


「先程、覗いてた、と言ったように思いましたけど……」


「え? あぁ~、えっと……」


 上手い弁解が思い付いたのでとにかく言ったものの、逆に相手の不信感を買ってしまったようだ。


 今日の俺、踏んだり蹴ったりだな。


「ごめん! 今の嘘、本当は覗いてた。でも君を覗きに来たとかじゃなくて、良い香りがここからするもんで、それが気になって覗いたんだ」


 自分で言っててかなり苦しい。というか、扉越しに覗いてるだけで十分犯罪チックだ。


 だが、奇跡的に、女子生徒は「香り?」と首を傾げる。


 よし!


「そう! 香り、この部屋から良い香りがしてさ、それで気になって覗いたんだ。何か焼いてるのか?」


 女子生徒が掘り下げたのをみて、すかさず話題を展開した。


 これで、変質者という誤解から抜け出せたぜ。ふぅ~。



 ――ぐぅぅぅう。


「今の音は?」


「あ、その、気にしないで!」


 安心した拍子にお腹が鳴ってしまった。


 朝昼と食べてないのだから鳴ったって仕方ないか。

 俺は腹を擦りながら笑顔で応対する。


 けど、女子生徒はというと、準備室の中へと引き返してしまった。


 なぜだ?


 疑問と110番の危機を抱えながら戸惑っていた。トーストが目の前に現れるまでは。


「え?」


「あ、あの! 良ければ食べてください!」


 トーストの乗せられた平皿を両手で持って、俺に差し出した。


 何が何だか分からない、けれど限界が近かった俺は、焼き上がったばかりのトーストの魅力に堪えることができず、小麦の焼けた芳しい香りに手を伸ばした。


 サクッ。


「これは」


 耳は程よく固く、そのあとに続く白いパン生地の草原にはバターが塗られていた。けれど、バターの濃厚な味の中に、サクサクと歯で磨り潰すと音がなる甘いものが混じっている。

 これは……。


「これ、シュガーバタートースト?」


「えっ!? 分かるんですか」


 いや分かるもなにも、バターに砂糖を加えて混ぜ、それを塗って焼くだけだろ。


 でも、何か違う。


 そう思って噛った後を正面に、トーストを水平にして見た。やっぱり。


「このトースト、切れ込みが入ってないね。だからバターの風味が上面だけになっちゃって食パンとバターで分かれちゃってるな」


 うん、納得。じゃあ冷めない内に食べよう。


 そうしてバターと砂糖の甘味がもたらすハーモニーを堪能する。


「あー、美味かった。ご馳走さまでした……って、うおっ!?」


 砂糖のざらっとした触感が指先にあって、後で洗おうと思った時だ。

 何か圧力を感じて視線を前にすると、先程の女子生徒が俺の鼻先近くまで寄ってきていた。


「もしかしてあなたは! りょ……料理経験、あるんですか!」


「えっ、ま、まあ、そりゃ」


 毎朝自分と須藤の分作ってるしな。

 素直に頭を縦に振ると、どういう訳か、その場で小躍りする彼女。


「で、でしたら! その、明日も来て下さい。お願いします!」



「えっ、いや、なんで――」


 キーンコーン。校内に昼休みを終わらせるチャイムが無情にも響く、俺もその人もあっ、となって各々走り出した。


「じゃあ、明日、必ず来て下さい」


 そういって、その女子生徒と別れた。

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