第40話 御陵凪は (その4)


「ふっふぇふふふふふふふふふフガッ⁉」

「舌噛むわよ!」

「ふぁふぃふぃひっふえふふふぉふぉふぉ」


 当然ながら、山の上りは車の速度が落ちる。そしてまた当然ながら、下り坂だと速度が出る。久瀬由香は全力ダウンヒルをしていた。薄れゆく意識の表層に捉えた景色は目まぐるしく変わっていく。趣もクソもない。


「久瀬先輩、これ大丈夫なのか⁉」

「法定速度遵守よ!」

「ふふぁふぁふぇふぁ……」

「ならヨシ!」


 車体はせわしなく左右に揺れ、右手で握りしめた、ドアの上にある取っ手が千切れないことを祈る時間が続く。左右に振られ、常に臓腑をえぐるマイナスGの奔流。わずかな段差を超える度に確かな衝撃が骨に響く。


「ぐふっ……カスタム……ッ!」


 離れゆく意識を何とか繋ぎとめるも、抵抗虚しくコーナーを三つ曲がるとあら不思議、東山亮は意識を失っていましたとさ。めでたしめでたし。


・・・


 何がめでたしだ。

 俺は現在、学校のある丘のふもと、そこに停めた久瀬先輩の車でくたばっていた。


「大丈夫、東山くん。弱い男の子はモテないわよ?」

「最近の流行はもやし系男子なので大丈夫です……」


 ロールキャベツの時代は終焉を迎えた。最近の流行はもやしだ。安さこそ正義、日本経済ほんとに大丈夫なのだろうか。もやし美味しいけどさ。

 ちなみに、もやし系男子とは「弱そうで守ってあげたくなる」みたいな男子のことらしい。草食系男子の進化系的なものだ。肉食系の時代は終わった。


「なるほど、安上がりで中身が薄いのが良いと」

「あながち間違ってないのが悔しいですよ……」


 彼氏彼女というのは「別れる」という前提のもとで成立している感があるので、別れたくないと強く思うほどの高級品は避けられるのかもしれない。わからんけど。

 よっ、と立ち上がると、車外に出る。先ほどまでは空気が車内に吹き込むようにして流れていたから良かったが、車外だとむわりとした湿度が肌にまとわりついてくる。これもある種の夏の風物詩だ。

 実は、恋愛と夏は似ているのかもしれない。

 時にめんどくさいと思う行為に幻想を抱き。もう戻らぬ日々を追懐しては妄執に浸る。手に入れていないものと、手から零れ落ちたものは美しく見えて、在りし日の再演を願うのだ。

 そんなわけで、意外と「青春=恋愛=夏」の式は成立してしまうのだろう。


「なあ、本当にいいのか?」


 そう控えめな声で聞いてきたのはミササギ。


「ん?」

「その……私の、ことなのに」


 言われて、久瀬先輩と目が合うと同時、どうにもならない笑いが腹の底から込み上げてきた。爆笑する俺たちを見てミササギは目を丸くする。


「っははははは! いまさらどうした⁉」

「ふふっ、そうね。そんなの、とうの昔に結論を出したじゃない」

「な、なんだ急に笑って⁉ 笑うようなセリフだったか? というかそんな結論聞いたことないぞ⁉」

「いいや、違うんだ。……ですね、久瀬先輩?」

「そうね。でも、これは君が言うからこそ価値がある言葉よ。ふふ、あとは……ね?」


 久瀬先輩が優し気な笑みを浮かべて、それきり俺と久瀬先輩を往復していた視線は俺に向けられたまま動かない。ミササギの、どこか不安の混じった視線。

 それに、一つ息を吸い込んでから応える。


「――結論を出したのは、凪だ。あの日、俺の脳天を狙撃して、一緒に活動を始めた日。その日からずっと、生きづらさを抱えた人間の側に立ってきたじゃないか」

「……あ」

「凪は俺を助けてくれた、だから俺も凪を助ける。一緒に立ち向かうって、そういうことだろ?」


 渾身のセリフに、ミササギは少しだけ目を見開いて、すぐに穏やかな瞳に戻る。透明感のある白い肌に、微風が吹いた。長い黒髪は風にそよいで一定の秩序を保ちながら舞う。夏服は華奢な体のラインを流麗に描いていて、それがいつか失われるのだと思うと胸の端が鋭く痛んだ。


「……あぁ。……ああ! そうだな」


 どこか確信に満ちて、迷いのない瞳。

 それに、少しだけ見惚れている自分がいる。


「でも、『一緒に立ち向かうって、そういうことだろ?』にキメ顔を添えるのは次からやめた方が良いと思うぞ。私じゃなかったら引いてた」

「えー……」


 試しに久瀬先輩の方に視線を送ると、優し気な笑みはそのままにちょっと黒めのオーラを見せていた。あれですか、日本人は目で、アメリカ人は口でコミュニケーションするように久瀬先輩はオーラでコミュニケーションするんですか。オーラルコミュニケーションならぬオーラコミュニケーションってか。あははっ…………許してください。


「ま、そんな所も悪くはないさ。行こうか、亮」

「ちょ、え、不意打ちやめて」

「いってらっしゃ~い」

「い、行ってきます!」

「ああ、行ってくる」


 久瀬先輩は車で待機。今日は三年生は自由登校の日なので、学校にいる必要はないのだ。


「……ちゃんと、話し合えるだろうか」

「話し合えるさ、きっと」


 言って、そこそこの傾斜のある坂を上る。学校まではすぐだった。


・・・

   

 学校にはもう騒動の気配はない。腕時計を見ると時刻は午後二時、ミササギ誘拐事件からちょうど二時間が経過しようとしていた。

 夏休みも目前、なので基本的に授業はなく、生徒は文化祭の準備やら部活動やらに励んでいる。そのせいで普段より騒がしくて、誘拐事件が影を薄くしているのだろう。

 理事長室を目前にして、少し考える。

 策はある。それをミササギに言うべきか、言わないべきか。


「東山」

「お、どうした?」


 久しぶりの苗字呼びだ。俺の夏服の裾を緩く掴みながらミササギは言葉を継ぐ。


「……ありがとな」


 言われて、細められた目が俺を見上げる。夏服の襟からはすらりとした首筋が覗いて、その透明感にたじろぎそうになるのをぐっとこらえる。


「礼を言うにはまだ早くないか」

「そうだな……じゃあ、行くぞ」


 ミササギは、そう言ってドアをノックした。高級感のあるドアは二度心地よい音を響かせ、数拍の後にドアの向こうから声が投げられる。


「……どうぞ」


 低く、威圧的な声。きっと声の主は相手が俺たちだと理解している。迫力で一瞬だけミササギが硬直したが、小さく息を吸って俺に視線を向ける。頷くと彼女はドアを開けた。


「失礼します。御陵凪です」

「失礼します、東山です」


 落ち着いた色のカーペットと高級感のある木を用いた壁。部屋の中央にある黒い二人掛け用ソファ二つが、ローテーブルを挟んで向かい合っている。落ち着いたデザインながらも確かな格式の高さを思わせるその内装は、正面に鎮座する人物のオーラによって一層の格を見せていた。――理事長だ。


「…………自分たちのしたことは分かっているな?」


 臓腑さえ震えさせるその声音。背筋を何条もの汗が流れていく。


「はい」

「……はい」


 それでも、彼女は毅然とした態度で言い放った。


「そうか」


理事長の言葉と共に、しばらくの沈黙が流れる。それは「計算された沈黙」とも言うべきもので、彼はその威圧感で会話の主導権を握ろうとしていた。立場の違いを突き付けるそのオーラを、じっくりと感じさせてくる。

 眉間に刻まれた皺は人生の重みを感じさせ、組まれた無骨な手には胼胝がいくつも見えた。


 ふと、立ち上がったと思えば、堂々とした足取りでこちらに歩いてくる。その所作一つ一つの完成度が果てしなく高い。完璧と言っていい。


 だから、気づかなかった。

 パン、と破裂するような音が鳴るまで。


「…………な、何やってんですか」


 見れば、ミササギの白い頬が急速に赤くなっていく。振りぬかれた理事長の手は空中で静止した後にゆっくりと戻される。


「なんで、娘を殴るんですか!」


 殴るなら俺だろと言おうとして、されど向こうの方が早かった。


「黙りなさい」

「――ッ」


 その迫力に、言葉が出てこない。父親という存在が持つ、自分の決定に有無を言わさないための独特の迫力。まるで、彼が世界の全権力を握っているかのような錯覚をしてしまう。

 これじゃあ、ここまで来た意味がない。


「お父さん」


 空気を震わせる、透き通った声。

 ミササギは、なお毅然として言葉を継ぐ。


「私は、留学には行きません」

「この期に及んで、何を言う」

「……私は、まだ彼らと過ごしていたいです」

「その刹那的な関係より、自分の将来のための投資の方が良いだろう。関係なぞ一過性のものだ。それに縋りついて、機会を逃すことほど愚かなことはない」


 きっと、彼の言うことは全て正しい。

 人間の関りというのは一時的なものだ。脆弱で、醜悪で、愚劣なものだから、そんな不確実な物に縋るよりも確実なものである自分自身を磨くことを善とする。

 何一つ間違っていない。

 だけど、彼の正論は「正しい」ということに縋りついた正論だ。

――――久瀬先輩と、佐山と、ミササギと過ごして、分かったことがある。

 いや、ミササギたちだけじゃない。橋野も、東寺も、名も知らぬWLAのメンバーだってそうだ。大宮先生もそう。彼ら彼女らと関わって、ようやく気が付いたこと。

 正しさなんて、どうだっていいのだ。

 WLAとリア充撲滅同盟の正しさは相容れない。

 だが、それ故に違う誰かを救うことが出来る。


――全人類が、一人残らず幸福になるとき。

――それは、全人類が、一人残らず消えた時である。


 それでも。

 模索して、挫けて、それでもまだ模索して。曖昧模糊とした思考を言葉で輪郭を描いていく。これが誰かにとっての正しさであることを切に願いながら、静かに唇を噛んだ。


――それでも、人は、人がいる限り誰かを幸福にすることだって出来る。


 多種多様な正しさがぶつかって、ようやく出せる答えがある。

 自分たちはただ、自身の正しさを信じていればいい。

 ここですべきは、彼の「正しい」という考えを上回る「別の正しさ」を提示すればいいだけだ。そんな当たり前の、けれど最も難しい行為。


「…………それでも」


 彼女の瞳は、逸らされない。それは父親である理事長も同じだった。

 ここから先の領域は、当事者であるミササギしか踏み込めない。


「……一過性のものだからこそ、私はこの関係を大事にしていきたいです」

「反社会的な関係をか? 向こうでも新しい関係が築かれるだろう、固執する必要はない」

「でも……!」

「関係性というのは流動的なものだ。母さんの件でお前も痛いほど味わったんじゃないのか」


 一瞬、ミササギの視線が揺れるが、その真意までは汲み取れない。母親となにかあったのだろうという推測だけに留まる。


「だから……だからです。母さんが信じたものが、間違いじゃないって……」

「……学ばないな、同じ過ちを繰り返すとは」


 少しの間があって、ミササギは何かを言おうとしてやめた。毅然とした態度だったのが、いつの間にか目は伏せられていた。でも、それは理事長も同じ。


「将来、苦労することになるぞ」


 小さく息を吸い込んで、彼女は再び父を見あげる。


「構いません、自分の選択です」

「………………私には、似なかったか」


 理事長は踵を返すと、入り口正面に鎮座する理事長用の豪奢な机から、A4サイズの紙を取り出した。そこにペンで何やら書き込む。


「父さん?」


 少し遠くから、小さく息を吐きだす気配。理事長は革張りの椅子に深く腰掛けると、ミササギに向かって言葉を投げる。


「……留学は、大学に入ってからにするか」

「……っ!」


 ミササギの見開かれた眼が、俺の顔を映した。表情が華やぐ、まるで至上の幸福

でも味わっているかのようだった。彼女の前髪が端麗な目尻で揺れて、浮かぶ涙を隠す。


「はいっ!」


 その返答に理事長は表情一つ変えなかったが、少しだけ口の端に優しさの気配が滲んだ気がした。

 これで、ミササギの留学は延期になった。


「それはそうと、君」

「……俺ですね」

「君は、何をしに来たのかね」


 何を、と言われれば「有事の際にミササギを助けるため」なのだが、平手打ちを許してしまった時点でボディーガード失格である。第二の理由として、ミササギが交渉を失敗した時に口添えをすること。自分の意見を通す親というのは、基本的に子供を過小評価する傾向にある。よって凪の功績を褒めまくって評価を上げれば、何とかなるかもという安直な考え。



 そして何よりは、土下座だ。


「娘さんを攫って、申し訳ございませんでしたあッ!」


 日本人の骨身に浸透した文化。謝罪。 

 女子高校生を誘拐とかいうトンデモ行為に及んだわけで、当然対応に当たった先生方の労力も計り知れないものになっているだろう。殴られようと構わないし、なんなら退学だって構わないという覚悟で実施したので悔いはないが、申し訳なさはある。


「…………そうか」


 そうして、俺が額をカーペットにこすりつけて数十秒。


「君は、二週間の停学処分とする……期間は再来週からだな」

「はい。……ありがとう、ございます」


 言い終えて、ゆっくりと顔を上げる。

 再来週からは夏休み。それを見越しての恩情措置だろう、その優しさがありがたい。


「……君、名前は」

「東山亮です」

「……そうか。では二人とも、退出しなさい」


 失礼しました、と言ってからドアを閉める。その寸前に垣間見た理事長の顔にどことなく柔らかな印象を受けて、それが確信に至る前にドアは閉じてしまった。


「ありがとな、亮」

「いや、俺、何もしてないし……」


 本当に、俺はなにもしていない。

 理事長室に一緒に来て、それなのに何もできなかった。いや、なにもしないという選択が正しかったのだろうが、それでも虚しい気持ちに変わりはない。


「それでも、君がいなくちゃ切り出せなかった」

「………そっか」


 違うんだ、違うんだミササギ。

――――贖罪。

 ふと、そんなことを思ってしまう。 

 妹を殴って以来、生きているのが後ろめたかった。まだ、その呪縛の中にいる。

 彼女らを助けたいと思うのは、それ故だろう。妹を傷つけた罪を、誰かを助けることで償おうとしている。そんな自分に気が付いて、吐き気さえする。

 命の価値はみな平等だというが、人生の価値は平等じゃない。


 だからせめて、妹の人生が俺よりも価値のあるものであることを願う。

 今はそれしか、できない。

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