第29話 佐山あかねはギャルっぽい(その5)


 

 たとえば、俺が生まれてこなかったら。そう考えることがある。

 右手に残った沈み込むような感触。確かな弾力と共に、耳に突き刺さるような音が響く。

 妹は、何が起こったのか分からないようでしばらく呆然としていた。ただその右頬に差された赤と、俺の右手にまとわりつくようなしびれだけがその状況を物語る。

「…………あ、」

 妹を、智咲を殴ったのだと、そう気づくまでに時間がかかった。

 智咲は泣かない。けれどその瞳にはおぞましいものを見るような色が浮かんでいる。

 それきり、智咲は俺の部屋から出て行って、俺は謝罪の機会を逃してしまったのだと悟った。後にはただ右の手のひらに残るしびれと、今にも握りつぶしてしまいたくなる心臓の鼓動だけ。


 妹を初めて殴ったのは、小学校四年のとき。妹はまだ小学校二年だった。

 母親があまり自分の感情を制御するのがうまい人ではなくて、それ故に暴力を振るわれることもあった。だから、俺はそんな大人にならないと、決して暴力を振るわないと決めていたのに。

「……………………」

 謝罪の機会がないまま、月日は流れる。時間は次第に俺たちの間にあった空間を埋めていき、それにつれて関係も改善していった。

 けれど。いつまでも、妹を殴った感触が手のひらにこびりついて離れない。謝罪の機会はついぞなく、離婚の影響で妹とも疎遠になってしまった。


 自分は、暴力を振るっていた母親と変わらないのだと。

 自分は、いずれあんな大人になるのだと。

 自分は、無意識にこうしてしまう可能性があるのだと。


 そう気づいたとき、途方もない恐怖に足がすくむのを感じた。

 大人になるのが恐ろしくてたまらない、子供を作るのが恐ろしくてたまらない、俺は暴力を振るう人間なのだという事実が恐ろしくてたまらない。

 そして、何よりそういうのを忘れて、いつか肯定できてしまうかもしれない。

 大人になるのもいいかもな。子供でも作ろうか。

 そう思うのが、何より恐ろしい。

 

 走馬灯、という言葉が浮かんだ。

 過去に向けられていた意識が次第に現在に収束していく。瞼の向こう側にささやかな明かりを感じた、久瀬先輩を襲っていた男のスマホライトだろう。

 次第に、地面の固さが自分の姿を明確にしていく。ささやかな浮遊感はまだ消えず、ようやく後頭部に鈍痛を感じた。

「――――――ま」

 遠い、遠いところで声を感じる。どこか悲痛な、けれど愛おしささえ感じさせるような声音。このままこの声を聴いて微睡の中に溶けていきたい。

「――ろ、――――山!」

 瞬間。

 全身に血が巡るのを感じた。

 跳ねるように開かれる眼に、ほんのわずかな光が染みる。多くのものがあいまいな像となって視界の内に揺れている中で、ただ一つだけ明確に感じ取れたものがあった。

「――――み、ささ、ぎ……?」

 その言葉と共に、ぽつりと雫が地面を濡らす。

 言葉がうまく発せない、それでもその名前を呼びたくてたまらない。衝動は自分の行動さえ凌駕して、ただ嗚咽となってプレハブ小屋に響く。

「あぁ、東山。私だよ」

 鼻腔を優しげな香りが満たし、遅れて自分が柔らかいものに包まれていると気づく。

 耳元では甘美な吐息が漏れ聞こえ、鈍痛の残る後頭部を、細くしなやかな手で静かに撫でられる。衝動のまま出した両手は宙で静止し、それきり何を抱きしめるわけでもなく力なく地面に落ちた。

 これほど甘美で充足した感情を、人生であと何度味わうのだろう。

 互いの心臓が早鐘を打つのを感じる。お互いに居直ろうと、静かに彼女の肩から顔を離す。

 そして、視線が交錯。

 お互いに空白を感じて、されど満ち足りているそれに戸惑う。

端麗な顔に、割れた窓から吹き込む風に髪が踊る。彼女の吸い込まれそうな瞳に、僅かに笑みの気配を感じた。ひどく幸福で、故に不完全なその空白。 


――――恋。


 そんな大層な言葉が頭をよぎり、けれど振り払うことが出来ない。

「……そう、いえば……もう一人、は」

 だから代わりに、言葉を発した。

「……あ、あぁ……大丈夫、なんとかした」

 言って、傍らにあるスプレーボトルを見る。暗闇の中で黒いその物体は見えづらかったが、どうやら催涙スプレーらしい。

 視線を室内に巡らせると、部屋の隅に倒れている人影を見つけた。ガムテープで手足を拘束されている。

「あ、りがとう、ミササギ」

 感謝の言葉は、どこかぎこちなくなってしまった。ささやかな言葉の詰まりさえ、自省の念が止まらない。

 時折お互いの視線が交錯するも、すぐに居場所なく彷徨い、また視線が交錯する。

 今にも逃げ出したくなって、慌てて言葉を継ぐ。

「そういえば、警察は?」

「既に通報した、安心してくれ」

 それと、と彼女は言葉を続ける。

「君の後頭部からは少し血が流れている。救急車に乗ってくれ」

 見れば、俺の後頭部を撫でていたミササギの右手には赤い血糊が付いていた。そこまで多くはないものの、頭部から出血しているのは怖い。

「一応、簡易的な措置はしたがな」

 言われて、ようやく自分の後頭部に手を当てる。どうやら布が巻かれているらしい、現在まで気づかなかったのが不思議なくらいだ。

 再び、会話が途絶える。

 視線が交錯する。今度は、互いの瞳の中に居場所を見つけて再びの空白が訪れる。

「…………そろそろ、これ取ってくれると嬉しいのだけれど」

「はっ⁉」

「わっ⁉」

 短い悲鳴が重なる。声の方に視線を送ると、久瀬先輩が手足を拘束されたまま横たわっていた。そういえば手首のガムテープを解く途中で俺が殴られたので、その状態で放置されていたというわけだ。なんか申し訳ない。

「す、すまん。外傷がなくて放置したのを、すっかり忘れてた……」

「気にしないでイチャイチャしていてもいいのよ?」

「い、イチャイチャなんて私は! して、な……い……?」 

 なんで最後疑問形なんですか。

 しかしまぁ、こうした彼女らの応酬を見ていると少しだけ心が和らぐ。

 久瀬先輩も、全快とは言えないまでもからかうことが出来るレベルまで回復したらしい。もちろん心のケアは必要になると思うが、ひとまずは安心だ。

「その、ありがとう、二人とも」

 どこか、脆さを感じさせるような笑み。けれどそれにミササギは微笑んで応じる。

「無事で良かったよ」

「……あぁ、本当に、良かった」

 どこか、ほんの少しだけ許されたような感覚がした。その心地を抱く自分に軽く驚いて、頭を振って振り払う。後頭部に残る鈍痛が脳に直接響く。

「そういえば、ミササギはどうしてここに?」

 問えば、ミササギはブレザーのポケットを叩いて言う。

「学校帰りに、ここに赤い点があるのを確認してな」

 つまり、ミササギも俺と同じようにここに来たわけだ。微かにその肌に汗が浮かんでいるのが見て取れる。

 しばらくして、警察と同時に救急車もやって来た。そのランプの赤い光が、木々を縫ってここまで届く。

「じゃ、行きますか」

「場所を伝えてくるから二人はここにいてくれ」

 ミササギにそう制されて、大人しくここで待つことにする。

 五月も半ばを過ぎて、日中は気温が高いとはいえ夜は相応に涼しい。割れた窓から吹き込む風が肌を撫でるたびに心地よい微睡に沈みそうになる。

「ねぇ、東山君」

「なんです」

 いつもより数段甘く、艶麗とさえいえる声音が鼓膜を振るわせる。先ほどミササギに解いてもらった拘束の痕を見つめながら言葉を探るその姿を、視界の端で捉えながら静かに待つ。

「愛を貫こうとするお姫様が別の男のモノに貫かれるのとか悲しくなるわよね」

「何言ってんですか急に」

 なんの脈絡もなく突然切り出されたから驚いた。ほんと唐突だな。

 そもそも、彼女とは下ネタを封印する約束をしたはずである。

「下ネタ、使わない約束でしょう……」

「あら、そうかしら?」

「そうですよ」

 なにをとぼけて、とも思ったが、こんな状態だ。ショックで記憶が飛んでいるという可能性もなくはないだろう。そう思って、問おうとしたその時。

「使わないのは、相手が『勘違い』してしまうからでしょう?」

「そうっすけど……何言っ……!」

 真意を悟って、急激に心臓の鼓動が早くなるのを感じた。全身を電流じみたものが駆け抜け、反射的に久瀬先輩の方を向く。彼女の艶やかな茶色交じりの髪が月明りに照らされてより一層艶やかに見えた。

 いや、これこそ勘違いかもしれない。だがその思考は、先の電流を払拭するには至らない。

「恋愛が出来ない同士、仲良く下ネタ使っても問題ないんじゃないかしら」

「そ、そうっすね……そう、っすね?」

 マジの勘違いだった。というか仲良く下ネタ使うって何だろう、想像できない。

 ともかく、先ほどの発言が本当に勘違いで良かった。仲良く下ネタは意味不明だが、勘違いよりかは幾分マシである。

「それに、勘違いじゃないかもしれないものね」

――――――へ。

 不意打ちだった。見れば、久瀬先輩は相変わらずの余裕を湛えた笑み。いくらか押し倒されたショックから立ち直ったようで、それはとても喜ばしいのだが。

「そ、それって」

 言葉の真意をつかみ損ねる。つい先ほど否定したはずの思考が、そのまま答えとして突き付けられた。心音がサイレンに混ざってやけにうるさい。

「そこから先は、AV女優にクソリプ送りつけるオジサンがやることよ」

「…………………………そっすね」

 体に流れていた電流も、嘘のように終息した。やっぱ勘違いだ。

 そんなやり取りをしていると、小屋に救急隊員と警察が入ってくる。

 俺と久瀬先輩はそれぞれ救急車に乗せられると、ついぞ真意を確かめる機会を無くしてしまった。ミササギは、場合によっては手術の可能性のある俺の付き添いをしてくれたが。特に話すこともなく救急車の中の様子を見物しているようだった。まぁ、救急車ってなかなか乗らないからな。

 後の処理は警察がしてくれるらしい。

 何はともあれ、久瀬先輩が無事でよかった。

 次第に、抗いがたい睡魔が襲ってきて微睡へと引き込まれていく。暗転する意識の中でふと考えた。

 もしも、俺が生まれていなかったら。

 もしも、俺がこの場にいなかったら。

 その仮定はただの仮定で終わり、意味のない問いではあるけれど。

 きっと、いろいろなことが違っていたのだろうと思う。

 

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