第5話 障子

「えー、僭越ながら一番手を務めさせていただきます、井上亮介です……えっとですね、これは俺の従妹が住んでいる町に伝わる、妖怪みたいなものなんですが……」

 照れたように頭を掻きながら、井上は話を進めていく。

 素人の語る怪談なんて100話も聞いていられるだろうか……と思ったが、意外と彼の話もまずくない。初めこそぎこちなかったが、話が進むにつれて緊張がとれていくのか、どんどんスムーズになっていく。

「……えー、俺の話はこれでおしまいです。ポンッと」

 井上が手前にあったライトをひとつ叩いた。部屋全体の明るさは、まだほとんど変わらない。

 続いて国生が「はい、では次、僕がやらせていただきます。序盤なんで、短いやつをひとつ……」と話し始めた。井上が真面目な顔でノートを取り始めた。

 怪しい話をしては、明かりを少しだけ落とす。話者は怪談をそれなりに真剣に語り、皆は人形のように黙ってそれを聞く。部屋は少しずつ、だが確実に暗さを増していく。

(なるほど)と僕は思った。

 確かに今、非日常空間がここに作られている。皆がルールを守り、怪談を語ることで、この部屋に奇妙な磁場が発生し始めているような気がする。

「えー、これは僕の友人の話なんだけど……」

 隣に座っている父が話し始めた。いけない、次は自分の番だ。僕はゆっくりと息を吸い込み、これから話す予定の怪談を頭の中で確認した。一応手元にメモはあるが、いざとなると頭が真っ白になってしまいそうで怖い。

 父がライトを消した。僕はまたひとつ深呼吸をした。僕の番だ。

「えーと、この話はAさんという人が……」

 時々つかえながらも無事に話し終えると、僕は手元のライトをポンと叩いた。天井の隅に蟠っている闇が、ほんの少しだけ濃くなった。

 まだ夜は始まったばかりだ。


 三浦が知りあいの女性に聞いたという話を終えて、2周目が始まった。ふたたび井上が話し出す。もう1周目のようなぎこちなさはなくなっている。

 他のメンバーも少し慣れてきたようだ。順調に出番が回っていく。

「すいません、また短い話なんですけど……」

「『この話を聞くと、聞いた人のところにも霊が訪れる』みたいなのってあるよね? この話は……」

「……で、従姉はそのお店に、勝手に入っていったんですって……」

「……で、結局階段の方が早いっていうことになって……」

 話を終えた小泉さんが、すらりとした腕を伸ばしてライトを叩く。左隣に座っている加藤が、僕がさっきやったように深く息を吸い込んだ。女の子目当てっぽかった彼も、今は怪を語ることに集中しているように見える。

「僕が勤めてる会社に、クミコちゃんってバイトの女の子がいてね……」

 父が話し出す。父がお化けの話をしているところを、僕は今まで見たことがなかった。家族として、少なくとも18年間はずっと一緒に暮らしてきたはずなのに、その生活のどこにこんな怪談のストックを隠し持っていたのだろう。

 僕、我妻、三浦と続いて、2周目が終わった。井上が嬉々として話し出す。

 また闇が深くなる。気のせいだろうか、僕は半袖の腕に、チリチリするような気配を感じ始めた。鳥肌が立っている。

「ふふっ」

 遠藤さんの話が終わったとき、下からライトで照らされた赤池さんのほの白い顔が笑みを浮かべた。その場違いな笑いに、僕は思わずぎょっとした。

「すみません、実は遠藤さんとネタかぶっちゃって……遠藤さんが言ってたK君って子、実は私と共通の知り合いなんです。遠藤さんと私は、出身高校が同じなので……」

 なんだ、それで笑ったのか。僕はほっと胸を撫で下ろした。いつも明るくてかわいい赤池さんだが、さっき笑った瞬間だけは、何か別のものに取りつかれたように見えてしまったのだ。後から考えるとバカバカしいほど、この時の僕は怖がりになっていた。

「でも私、K君から別の話も聞いてきたので大丈夫です。遠藤さんのお話の、次の日のことなんですけど……」

 赤池さんが話し始める。僕の頭の中に、彼女の後輩が訪れたという古い民宿の様子が、勝手に描かれていく。日焼けした襖が並ぶ廊下。毛羽だった畳。天井の隅の暗闇。突然部屋に現れた見知らぬ女……。

「ふう」

 赤池さんが溜息をもらした。「私の話はこれでおしまいです」

 また明かりが少しだけ暗くなった。


 4週目に入ったとき、僕は自分の腕時計をちらりと見た。百物語が始まってから、いつの間にか2時間近くが経過している。

 なのに、まだ誰も席を立っていない。皆喉が渇いたり、トイレに行ったりしないのだろうか……そう考えてから初めて、僕自身がそれらの生理的欲求を忘れていたことに気付いた。

 赤池さんと小泉さんの代わりに、井上と三浦がピンチヒッターに入った。このふたりは、いったいどこで怪談を仕入れてくるのだろう。僕のように、ネットを漁ってきたわけではなさそうだ。ふたりとも日頃から怪談好きを公言しているから、自然とそういう話が集まってくるのだろうか。

 三浦が廃工場の話をしている途中で、僕の正面に座っている遠藤さんが突然立ち上がった。神経過敏になっていた僕はびくっとしてしまったが、彼が向かった先はトイレだった。僕はほっと溜息をついた。

 彼は加藤の話が終わる前にトイレから戻ってきたが、座布団に座ろうとして、ふと動きを止めた。目線が僕を、いや、僕の後ろを向いている。

 僕の背後には障子がある。さっき三浦が開けた、あまり使い勝手のよくない窓を隠している障子だ。

 僕は振り返った。何かが外から障子をこじ開け、その隙間から中を覗き込んでいる様子が脳裏をよぎった。

 しかし、そこにはただ、きちんと閉められた障子があるばかりだった。

 正面に向き直ると、もう遠藤さんは元の位置にきちんと座り、僕の後ろは見ていなかった。

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