理想は、現実に負けてしまうのか

不動瀬都那の心は揺らいでいた。


理由は間違いなく、南森一凛という存在だった。


彼女の一言が、胸に今でも突き刺さっている。


南森と別れてすぐ、マネージャーの佐藤に呼び出され事務所に入った彼女は、ブラックコーヒーを片手に佐藤のいるデスクに向かっていた。


佐藤は、デスクにおらず、同じフロアで近々撤去が決まっていた喫煙所のベンチに座り物思いに更けていた。


不動は、いら立ちながら佐藤に近付いた。


「……呼び出しておいて、いい気なもんじゃないか佐藤さん」


「……。あぁ、不動さん。どうも。今行きますよ」


「いい。ここで……一本くらい寄越せよ」


「よく言いますよ。喉に人一番気にかけてる人が。行きますって」


「いいから。……いいから」


佐藤もそこで、ようやく不動がいつもと違うような雰囲気をまとっていることに気が付いた。


「……はぁ。禁煙失敗おめでとうございます」


佐藤はそう言って胸ポケットとパンツから2つの箱を不動に差し出した。


「……? 3箱もいらないけど」


「3種類。『アークロイヤル』と『メビウス』、最後に台湾製の安タバコ」


「はぁ? なんでそんな」


「喫煙所がコミュニケーションツールの人向けの営業方法ですよ。人に合わせてお渡しすることもある。今はいない先輩に教わりました。……芸能界はヘビースモーカーの巣窟ですから」


「……気が晴れるやつくれ」


「この『メビウス』ブルーベリー風味で良いと思いますよ」


「……はぁ。ま、いいけどさ」


不動は立ちながら、久方ぶりに佐藤に火をつけてもらったタバコを吸った。


「……白銀くじらってVtuber。次のライブ出るんだな」


「……それですか。悩みの種。ま、僕もそうですよ」


佐藤は壁に全体重を乗せて、ベンチから少しだけずり下がる。


「見ましたか? あのMV。流石としか言いようがないでしょ。芸能事務所にいた人の発想とは思えない奇策も奇策。まさか、あんな手で動くなんて、ははっ、気分いいですよ、ホント」


「……。圧力、もうかけないでくれよ。もう見たくないし……、あの子がかわいそうだ」


「かけてるのは、僕じゃないんですけどね。またさっきドヤされましたよ。なんでMVが間に合ったんだって。これ以上は対外的にも迷惑ですからね、僕は何もしません。僕は。ですけど、まぁ……最悪の事態と言えば最悪ですよ。MVが失敗してくれれば、……不動さんが潰すことはなくなるのに」


「えっ……? ど、どういうことだよそれ」


不動は焦りながら佐藤の方をじっと見る。


「……分かるでしょ。繭崎先輩の秘蔵っ子も、ライブは未経験。間違いなく、経験がある貴方が歌うだけで、もうあの子は潰れるんですよ。あの子がいかに印象に残るパフォーマンスをしても、素人なんですから」


不動の指先が震える。ぽとりと、タバコの灰が床に落ちた。


「――歌って、素人を潰すために歌うんでしたっけ」


思わず、不動が呟いた。


佐藤は、目を瞑って、眉間に皺を寄せて答えた。


「歌は、利益だ。作品であり、販売物だ。楽しいだけなら素人でもできる。歌を売る、その難しさは君が良く知っているはずだ。今回のライブは、並み居るタレント未満と比較できるいいチャンスなんだ。売るために、歌はある。芸能界ってそうだろ」


「歌って……。Vtuberってなんでやるんですかね」


「人が集まるから。誰かの感情を揺さぶって、金にするため。君が一番よく知ってるはずだ。……ま、商業主義のロックみたいで君は嫌かもしれないけれど」


「だって、仕方なく……」


「車の事故だって、君のせいではないのは知ってるよ」


「うるせぇよ……。もう、黙れ……。ちょっと、トイレ」


不動が、ふらつきながらトイレに向かう。


彼女の姿が見えなくなった後、佐藤がまたずり下がる。


「はは。なんだよそれ。……何が利益だって。正論だ、正論正論。…………先輩、やっぱ僕、無理ですよ。現実しか見えません。理想は、現実に絶対勝てない」




不動は、洗面所を水を流して、何をするわけでもなく、突然考え込んでしまった。


佐藤の無遠慮の言葉よりも、正論や感情論よりも、一番不動を傷つけたのは、 白銀くじらのMVが、楽しそうだったからだった。


楽しく、彼女が歌っていたから。


「……なんで、こうなっちまったんだろうなぁ……」


その声は、目的なく闇の中で迷子になってしまった幼子のように震えていた。










「えー、これが例のライブチケットです。はい、すいません、放送部と吹奏楽の皆さんが買ってくれるなんて」


「いやー、何するか分からないけど頑張ってな」「大丈夫大丈夫。正体ばらすようなやついないし」「MVまだ見てないけど頑張ってることは伝わってるしな。応援すっから」


「うぅ、理解がすごい……」


南森は謹慎が解けた後、すぐに放送部と吹奏楽部に謝罪と感謝を述べた。


それから、彼女はライブチケットの販売をそれとなく興味のある人にほのめかそうとしていたのだが、想像以上に応援してくれていたようだ。


正直謹慎後に学校に行くのは怖かった。


しかし、教員たちから謝罪を受け、生徒たちからは受け入れられた。それが何より嬉しかったのだ。


「よーし、夜はライブハウスで打ち合わせに参加だぁ。頑張るぞぉ! ……あぁぁ……今になって実感が……・私人前で歌うなんて……ひぃ……」


普段からメンタルが弱い南森は突然「あ、そっかライブ本当にやるんだよね」と実感が湧いてきてしまい、3歩進んだらライブのことを思い出してしまうようになった。


間違いなく、昨日のことが原因なのだ。


繭崎と不動が顔を合わせた途端、ここまで繭崎が感情を噴火させると思わなかったのだ。


あの後、繭崎は年甲斐もなく南森にガチ説教を食らうのであった。


繭崎は自分の心の内を明かすことはなかったが、大人げなかったと南森に謝り、次に不動に遭ったら必ず頭を下げることを約束させた。


(でも、不動さん大丈夫かな……大丈夫、だよね? だって、『アイギス・レオ』のメンバーだし、私より有名な人。芸能人みたいな感じだし。周りからもフォロー、されてるはず、だよね)


そう、彼女は『アイギス・レオ』のメンバーなのだ。


現在のVtuberの中で一番乗りに乗ってる5人組グループ。


中でも、不動瀬都那が中の人であるキャラ『ギリー』の歌は、激しさと美しさを秘めた最高の歌と評されるほどだ。


いつしかネットでは、『アイギス・レオの歌担当』とまで呼ばれるほどの有名人。


その人とライブをするのだからしっかりしてほしいと繭崎に南森は伝えた。


伝えてしまったことで、自分にもプレッシャーが来てしまった。


けれど、と。


南森はぽんっと手を鳴らした。


「そっか。不動さんって元々何か歌う仕事してたんでしたっけ。ミュージシャン崩れって言ってましたし! あーじゃあ負けて当然ですよ。今から自分を追い込んでも意味ないし、今ある自分をぶつけるだけですもん! 楽しんでいけばモーマンタイ!」


そう思ってしまえば、気楽なもので。


むしろチケットを配った人には自分よりも『ギリー』のすごさを伝えたい、それくらいの気持ちで挑んでいいのではないかと肩の力を抜いた。


「あ、いたいた。一凛chang!」


「? あ、隈子ちゃーん!」


チケットを配り、肩の力も抜けたので帰ろうと靴を取り出したその時。


魚里隈子が肩で風を切るようにズカズカとこちらに向かってきた。


「どうしたの? 何かいいことあった?」


「いいも何も! いやー見せたかったネ! 軽音楽のやつらが教頭に怒鳴られながら頭下げるあの姿! もう最高ったりゃ!」


「あはは……軽音部、頑張ってほしいね」


「はっ。あいつらが頑張れるタマかっての! ……そうそう、一凛ちゃんに伝えたいことあったんだわ私」


「なんですなんです?」


南森が、気楽に尋ねると、魚里が口が裂けるのではないかと言わんばかりに横に広げ、歯をむき出しにして笑った。


「白銀くじら、ライブで食おうと思うんだよネ」


「へー! いいですね気合十分って感じ……へ? ん? え? ほげぇえええ!?!?」


ライブで食う。


嫌な予感がした。


南森の脳裏に浮かんだのは、あの軽音部のメンバー。


初めて不動と出会った時の、あのライブ。


バンドの音楽そのものを乗っ取ってしまうほどの存在感を発揮した、魚里隈子のDJプレイだ。


「私、あなたのこと絶対食うから。私は私で最高の音楽をする。あなたが舐めた歌うたってたら、堂々と本気で潰すから。だって、音楽って全力でやることが正しいでしょ~? ネ? ネ?」


「な、なんで急に……!?」


急に、と言って思い出した。


急ではなかったのかもしれない。


そもそも、彼女はこの機会を待っていたのではないか。


魚里は、親指を立ててグッドをする。


「アンタがMVで私の認識を塗り替えた。アンタはその辺のバンドオタよりも全力を出してる。根性だけかと思ってた。だけどそれも違った! 常識はずれなことも平然とやって、結果を残す、間違いなくアンタは私の友達の中でもトップクラスのヤバいやつっしょ!」


「え、えぇ……?」


「思ったの。あのMVが完成した時、もしかしたら私南森ちゃんに今負けてるんじゃないかって。そんなの、許せないよねー! だって、私は私が天才だって信じてるくらい。一番は私だもん! だから……一緒に頑張っていこうネェ~一凛ちゃぁ~ん」


わっはっはと大声で笑いながら、魚里は去っていった。


「え、えぇ~? 昨日の味方はなんとやらってことですかー!?」


南森は再びプルプルと震え始めた。


プレッシャーがすさまじく襲い掛かってきて、「もう駄目だーっ!」と心の中で叫ぶほどだった。


正直、南森がライブで期待していることは不動と同じ舞台に立てる喜びだけであって、具体的な目標も緊張せずに歌いきる、とかその程度のものだったから、ここまで自分を追い詰める味方がいると思わなかった。


「あ、南森! その、今日空いてないか? 後はライブだけだろ? その、俺、すげー居心地のいいお店見つけてさ! ……南森?」


「ぅぐぅー、やばいです、やばいです……」


「南森? あ、あれ? 聞こえてない? 南森? 南森―っ!」


とぼとぼと自分の世界に入って帰っていく南森を、大野は止められなかった。


大野は魚里が帰ったのを見て、南森だけが残っている状況を見てチャンスを感じていた。


南森さえ良ければ二人で楽しく過ごす時間を作りたいと思っていたのだ。


しかし、大野は振られた。


それも、南森に声をかけられても全くの無視という形になってしまって。


「……ったく、どうせ何か考えてたんだろうけどさ。ちょっと寂しいよ。ちぇっ」


大野は放課後の夕日に照らされながら、キラキラと輝きを失わず、笑顔で南森の背中を見つめていた。


それをたまたま見ていたのは、南森の友達の里穂と加奈子だった。


「うそ、難聴系ヒロイン……! しょ、しょうっ、しょうじょまんがじゃん……少女漫画じゃん!!! きゃああああああ!!!」


「加奈子落ち着いて! 加奈子っ、加奈子ぉ!!!」


その日の夜、加奈子は布団に入ってもトキメキ続け、次の日の学校を寝坊した。

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