第15話 憂鬱なる宴

 早々に切り上げた凱旋式を終え、宮殿に帰途した皇太子カハディーンと第三皇子エウリアスが病床の父帝メトディオスの元に伺候したのは、翌日の朝一番のことだった。

 皇帝は一年程前から足の激痛と手足の麻痺に悩まされ続けている。遠征を開始する前は病状も比較的落ち着いていたのだが、帰還してみれば執政はおろか立ち上がることすらままならず、日の大半を寝台で過ごさねばならない状態にまで陥っていたことに、皇子二人は驚きを隠せなかった。


 三か月にも及んだサハルシア遠征の顛末は凱旋式での一幕も含め、寝台の皇帝と皇后、カハディーンの不在の間国政を担っていた宰相に余すことなく伝えられた。皇太子を狙った暴漢の存在に、メトディオス帝は病床に就いているとは思えない激しい怒りを見せた。それでも無事帰還した第一の息子であるカハディーンの戦功を手放しで称賛し、惜しみない労いの言葉を浴びせ掛けた。一方で、エウリアスに与えられたのは、感情の籠らない一瞥と「その方もご苦労であった」という冷淡な一言だけだった。彼は落胆と失望のあまり表情を取り繕うことすらできなかった。


 温かな言葉など元より期待してはいなかった。だが兄同様に活躍してみせた己に対して、もっと言うことはなかったのか。この期に及んでまで父は自分と兄を差別するというのか。


 やるせない気持ちで満たされた。いっそこのまま自室に引き籠って早々に眠ってしまいたいとすら思った。だが、まがりなりにも第三皇子の身分である自分が、夜から行われる祝宴に顔を出さないわけにはいかない。そんなことをすれば、重臣たちに裏で何を言われるか分かったものではなかった。気は進まないが仕方がない。彼は傷ついた心に蓋をして必死で平常心を保ちながら、皇帝の寝室を辞した。宴のことを考えると気が重くて仕方がなかった。



 ***

 


 誘うような楽の音に合わせて、色とりどりの薄衣が翻る。踊り子たちの手足につけられた鈴が軽やかに鳴り響き、身を飾る金の装身具が松明に照らされて煌めいている。柱の間を通り抜けて吹いてくる風は、香辛料と焼けた肉の香りを部屋中に運び、葡萄酒の盃を片手にぼんやりと余興の出し物を見ていたエウリアスの鼻腔を刺激する。

 彼は、盃の中で至高の香りを漂わせる美酒を勢いよく呷った。喉に流し込まれる一級品の葡萄酒に思わず感嘆の声が漏れた。

 宴で出されているものは全てサハルシア産の葡萄酒だ。かの地をイェダルから取り戻したついでに、当地の名産品である葡萄酒もしこたま仕入れてきたのだ。サハルシアの葡萄酒と言えば、かつてこの地に住まう酒の神によって伝えられた特殊な製造法があるのだとか、それらを欲した神々が熾烈な諍いを繰り広げたのだとか、様々な伝説に彩られ古代から語り継がれている由緒正しい逸品。その美酒を思う存分堪能できただけでもこの宴に出た価値はあるのだと、エウリアスは自分自身を納得させる。


 祝宴は、皇帝への謁見と報告を終えたその日の夕方から、宮殿でも最も眺めのよい上階の大広間で賑やかに行われていた。だが、エウリアスにしてみれば気鬱もいいところだった。

 十九にもなれば祝宴とは言えども呑気に楽しんでばかりはいられない。生まれの卑しい第三皇子の粗を突くべく目を光らせる家臣たちに侮られないよう上手く立ち回らなければならないのだから、気が重くなるというのも当然のことだ。それに、正装である裾の長い白絹の衣は足に絡みつくし、金銀で飾られた豪奢な外套はこの時期には暑すぎる。宝石と真珠が連なる冠は重くて肩が凝り、耳や首元で揺れる装飾品もうっとおしいことこの上ない。皇族の威光を示すためとはいえ、着飾る趣味などないエウリアスにとって、重厚で動作を妨げる正装は苦痛以外の何物でもなかった。


 女でもあるまいし、何が楽しくて着飾らないといけないのだ。


 エウリアスはこういった宴が昔から大の苦手だった。



 ***



 もう何杯目か分からない酒を呷りながら、エウリアスは踊り子たちを眺めていた。彼女たちの多くは奴隷階級の娘たちだ。近隣の国々や属州から連れて来られた娘たちの中には、エウリアスの母のように浅黒い肌を持つ者も少なくない。その娘たちを見ていると否応なしに母の姿が思い出され、忌々しい気分にさせられる。母もまた、こうした宴席での舞で父帝に見初められ、側室に召し上げられたのだから。


 艶めく胡桃色の肌を惜しげもなく晒しながらくるくると回転し、優美に手足を滑らせる女たち。その中の一人が、ふいにエウリアスを見定めた。翻る長い髪は自分と同じ赤銅色。浅黒い肌が炎に照り返り、黒い瞳が自分の心を見透かす。そして、唇を吊り上げ妖艶に微笑みながら、彼にしか聞こえない声で、母の顔をして語り掛けるのだ。「お前は私の子。所詮卑しい奴隷の子なのだ」と。


 エウリアスははっとして目を瞬かせた。当然ながら母の姿などどこにもない。彼は踊り子たちから憎々しげに視線を逸らし、母の亡霊を振り払うように盃を呷った。

 嫌なものを見てしまった。今は母のことなど思い出したくもなかった。


 行き場を失った視線は、一段高い壇上に設えられた長椅子に腰掛ける兄に向けられた。カハディーンは大ぶりの盃を片手に美しい女奴隷の腰を抱いて、上機嫌な様子だ。エウリアスは僅かに眉をひそめた。かねてから弟の出自に対する蔑みを隠そうともしないくせに、自分は奴隷に手を出すなど身勝手もいいところだ。

 いささか不機嫌な面持ちで兄から目を逸らすと、その傍らのイズメイルへと視線を向ける。皇太子の近衛魔術師となった彼はカハディーンの側に侍っていた。正装である黒い長衣と黄金の冠を身につけた姿が美しい。まるで、神々がこの世の美を集結させて創り上げた至高の芸術作品のようだ。長年彼と共に過ごしてきたエウリアスですら思わず見惚れてしまうのだから、初めて彼を目にした者の驚愕は計り知れない。


 誰とも会話もせず、一人所在なさげに踊り子の舞を見ているイズメイルの側では、まだ幼いと言ってもいい可愛らしい顔つきの奴隷娘が頬を染め、たどたどしく酒を注ぎながら時折魔術師の顔を窺っていた。手元がおざなりになる彼女の様子が覚束なく、つい目が離せないでいると、案の定娘は酒をイズメイルの服の上にぶちまけた。黒衣に広がる染みに、娘の薔薇色の頬が瞬く間に色を失う。平伏し震える少女に、ため息をついたイズメイルが声を掛けている。その表情は呆れこそ滲ませているものの常の傲慢な様子は見受けられない。どちらかと言えば、世話の焼ける妹を見る兄のような眼差しだ。イズメイルがぱちんと指を弾くと黒い染みはたちまち消え失せた。簡単な魔術だったが目を丸くして驚く娘に彼が悪戯っぽく微笑む。イズメイルが彼女に何かを囁くと、娘は泣き笑いの表情で深々と頭を下げ、目元を拭いながら足早に立ち去った。


 エウリアスの顔に苦笑交じりの笑みが広がった。奴のことだから、哀れな娘が気に病まないよう自分は平気だとでも言い聞かせて、ついでに励ましの一言でも掛けてやったのだろう。本来の彼はそういう男なのだ。普段は憎たらしい発言もするし生意気な面もあるが、心根が優しく人のために何かをすることを厭わない。だからこそエウリアスは、友人として彼と共にありたいと思ったのだ。

 だが、その友が忠誠を捧げることを誓ったのは自分ではなく兄だった。彼は兄を選んだ。その思いがエウリアスの心の奥底に濁った澱となって滞っていた。

 エウリアスには、イズメイルを責めるつもりは毛頭なかった。あの場で一介の魔術師が皇太子の命令を拒むなどできるはずがない。彼は正しい選択をした。

 だが、期待してしまったのだ。もしかしたらイズメイルは、兄に逆らってでも自分と共にあることを選んでくれるのではないかと。そんなことをすればただでは済まなかったにも関わらず。そして、そうしなかった彼に失望すらしている。


 身勝手だ。自分は自分勝手で醜い。友の昇進を喜ぶどころか、裏切られたとさえ思っているのだから。卑しいのは生まれだけではない。この性根こそ真に忌むべきものだ。我ながらほとほと嫌気が差す。


 エウリアスはもやもやと渦巻く感情を振り払うように葡萄酒を呷った。喉に無理やり流し込まれたそれは、たちまち彼の気道を塞ぎ、盛大にむせさせる。盃を放り出して咳き込む彼に容赦なく白い目が向けられるが、そのようなことを気にしている場合ではなかった。


 戦勝祝いの宴は、台無しになった凱旋式を補うかのごとく、華やかに煌びやかな様相を醸し出しながら進んでいった。踊り子の舞や楽士による叙事詩の語り、幻影の魔術による余興が終われば、後は無礼講だった。料理に舌鼓を打つも踊り子や給仕の奴隷娘を傍らに侍らせるも自由だ。

 皇后や皇女といった位の高い女性たちは明日以降の宴から参加するため今夜は同席していない。そのためか、男衆のみの宴席は非常に猥雑な空気を醸し出していた。


 エウリアスはといえば会場の熱気と酒気に酔い、すっかり逆上せてしまっていた。踊り子たちの纏う香と料理の匂い、そしてねっとりと淀んだ空気が混ざり合い、エウリアスに強烈な不快感をもたらす。それでも半刻ほどは何とか耐えていたが、さすがにもう我慢の限界だった。彼は布で口元を抑え、ニクスールを伴うと足早に会場を抜け出した。



 ***



 祝宴の広間に隣接する露台に出た瞬間、エウリアスはその場に膝をついて崩れ落ちた。ニクスールに介抱されながらひとしきり吐いて、重苦しい外套を脱ぎ捨て、冠を放り出し、装飾品や襟飾りも取り払ってしまうと少しだけ気分が楽になり、ようやく一息つく。


「落ち着いたようですね。全く、無茶な飲み方をしていると思ったのです」


 ニクスールが心配と呆れの入り混じった表情で差し出した盃を力なく受け取ると、何も考えずに中身を喉に流し込んだ。冷水が身体の隅々まで染み渡る。頭のもやまですっきりと払われるようで心地がよい。水を全て飲み干したところで爽快な後味の正体が気になって盃の中を見てみれば、ミントの葉が一枚、空になった底にへばりついている。ニクスールが気を利かせて入れてくれたのだろう。彼の心遣いがありがたく、エウリアスの頬は自然と緩む。だが素直に礼を言ったりなどしない。そのようなことをすれば、ひねくれ者のニクスールのことだから大仰に顔をしかめながら「殿下はまたもや頭が可笑しくなってしまわれた」などと言い出すに決まっている。


 露台に出て夜風に当たると、だいぶ気分は落ち着いた。夏とはいえ夜半の乾いた風は冷気を孕んで心地よく、エウリアスの火照った身体を冷やしてゆく。露台は宴が行われている大広間に隣接していたが、壁ひとつ隔てて喧騒から離れるとそこは驚くほど静かで、一人で気分を落ち着けるにはうってつけの場所だった。

 彼は手すりにもたれ掛かり、空を見上げた。黒い幕を張ったような空には、あと数日で満月になるであろう月が明るく輝き、玻璃の欠片のような星々が煌めいている。長く見ていると吸い込まれそうだ。藍色の夜空は天空の女神ハヴィが広げた外套、そこに煌めく星々は、外套に縫いつけられた数多の宝石なのだという言い伝えを思い出し、エウリアスはほうと息を吐き出す。

 この話を自分に教えたのは誰だっただろうか。母か、それとも母と同時期にこの世を去った乳母か。

 もはや思い出すこともできないが、誰から聞いたにせよ美しく幻想的な伝説だ。月のない夜はそれこそ満天の星空が見られるに違いない。叶うことなら心穏やかな状態で、包み込まれるような星空を仰ぎ見てみたいものだとエウリアスは思う。


「ニクスール、俺は星でも見ているからお前はどっか行け」


 しばらく一人になりたかった。エウリアスがニクスールには目もくれずに言い捨てると、背後に控える彼が片方の眉を上げながら心外そうに目を見開くのが、見なくても分かった。


「ほう、貴方様にも星空を鑑賞する趣味があるのですか? それは驚きですなぁ」


 投げやりな物言いにも物怖じするどころか嫌味で返してくるあたり、彼もいい性格をしている。だがこの程度ならいつものことだ。慣れた様子で「ほら、さっさと行け」と手をひらひらさせながらニクスールを追い払う。彼がぶつくさ言いながら戻ってゆき、これでようやく本当に一人になれると思った矢先。露台の出入り口で彼とすれ違うように、思わぬ人物が姿を現した。黒衣を纏った長い白金の巻き毛の持ち主。彼は片手に盃を携え、エメラルド色の瞳が何かを探すように忙しなく動き回っている。


 ――イズメイルだ。


 エウリアスが声を上げる間もなく、ニクスールが彼に馴れ馴れしく話し掛けた。


「おやおや、これはイズメイル殿。エウリアス殿下をお探しで? それならあいにくだが、今殿下は一人で夜空を見上げ詩をそらんじながら感傷に浸りたいそうだ」

「……は? 詩? 感傷に浸る? いったい何を言って……」

「驚いただろう? きっと殿下は頭が可笑しくなったに違いない。ああ、神よ、哀れな殿下にお慈悲を! ま、そういうことだ。君もこんなところで油を売ってないで早く戻りたまえ」


 たじろぐイズメイルにも構わず彼の肩を叩きながら、聞こえよがしにあることないこと宣うニクスールが憎らしい。そもそも奴はいつの間にあんなにイズメイルに親しく接するようになったのだ。ついこの間まで生意気な餓鬼だと悪態をついていたくせに。

 エウリアスは衝動のままに振り上げた拳を翳しながら、怒声を上げた。


「黙れニクスール! イズは別に決まってんだろうが! 余計なことせずにお前はさっさと失せろ!」

「はいはい、そうしますよ。ではごゆっくり。存分に星空鑑賞とやらをご堪能なさいませ」


 飄々と大げさな礼を取りながらニクスールが姿を消す。後には憤懣やるかたないといった顔で従者が消えた先を睨みつけるエウリアスと、当惑したように立ち尽くすイズメイルだけが残された。

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