第9話 師の願い

 月日が経つのは早かった。季節が巡り、中庭の草木の様相が次々と変わるように、若い二人の少年も三年の間に伸びやかに成長していった。


 エウリアスは十四で初陣を飾り、皇太子に次ぐ皇子として一目置かれる存在になりつつある。彼の地位向上には、さほど仲の良くなかった次兄ユルクスが、長らく患っていた病によって夭逝したのも関係しているため、手放しで喜べる類いのものではなかった。だが、それでも彼のたゆまぬ努力の成果が実を結んだことには間違いなく、自分の目標に一歩近づいたのだと思うと、エウリアスは複雑な心情の中にも誇らしさを感じずにはいられなかった。


 イズメイルにとっても、この三年の月日は大きな成長と変化の機会だった。小柄だった彼はいつの間にかエウリアスの身長を追い越し、長身の見目麗しい若者に成長した。年を重ねるにつれ激しい感情の起伏は鳴りを潜め、振る舞いや言葉遣いにも落ち着きと品格が備わってきたようだ。それでも、彼特有の豊かな内面と揺るぎない自信、そして煌めくような野心が決して失われることなく静かにその内で燃えていることに、エウリアスは安心感を覚えるのだった。


 イズメイルの魔術の腕の方は言わずもがなだった。彼は、乾いた大地が水を吸い上げるように師や兄弟子の技を吸収し、瞬く間に高度な文化魔術の技法を習得していった。その飲み込みの早さと勘の良さは、魔術に関しては素人同然のエウリアスにも一目瞭然だった。元々フォティアで魔術師としての修行を積んでおり、一度は宮廷の目に留まったくらいなのだから基礎は出来上がっていたのだろうが、知識と技術を蓄え、日々その能力に磨きをかける彼は、まさに才気煥発と言ってよい。これは本当に大物になるかもしれない、とエウリアスは期待せずにはいられなかった。


 変わるものもあれば、いくら年月が経ち季節が巡ろうとも変わらないものも確かに存在するが、エウリアスとイズメイルの場合、友情がまさにそれだった。


 イズメイルと共に学び、イズメイルの口から魔術について教えてもらうのは、エウリアスにとって何よりも楽しい時間だった。彼は人にものを教えるのが上手い。普段は決して口数が多いわけではなかったが、一度口を開けば、それこそ魔法に掛けられたかのように、次から次へと言葉が流れ出すのだ。


 イズメイルは、エウリアスが訪れるたびに様々な魔術で彼を楽しませた。習得した文化魔術の技法を駆使して彼を驚かせたり感心させたりと暇がなく、エウリアス自身も、今日はどんな魔術を見せてくれるのか楽しみに通っている。イズメイルは、彼の反応次第で、さまざまな表情を見せた。怒ったり笑ったり、ときには困惑したり悲しみに沈んだりと、くるくるとその色を変えるエメラルドの瞳が、エウリアスは大好きだった。


 幸せだ。


 エウリアスは心の底からそう思っていた。おそらく、イズメイルにとっても、この三年間が最も幸せな時期だったに違いない。



 ***



「……エウリアス殿下。貴方は、随分とお変わりになられましたね」


 そうエゼルキウス老魔術師に言われたのは、連日の雨がようやく上がり、中庭にもまだ乾ききらない水溜まりが残る春先の昼下がりのことだった。その日は珍しく、エゼルキウスがエウリアスを中庭に誘い出したのだ。イズメイルが数日前から寒暖差による体調不良で臥せっているため、無理やり押し掛けるわけにもゆかず、手持ち無沙汰になっていたエウリアスに、断る理由はなかった。だから素直について行ったのだが、長椅子に腰掛け庭を眺めながら他愛もない話をした後、エゼルキウスは穏やかに「貴方はお変わりになられた」と、言葉を口にしたのだ。


 エウリアスは一瞬きょとんとエゼルキウスを見上げた。確かに自分は変わった。三年もあれば身長も伸びるし声も低くなる。性格だって子供のままではないだろう。何を当たり前のことを、と憮然と言えば、エゼルキウスは「そうではありません」と、穏やかに笑った。


「ここに初めて来られた頃、貴方は随分と気を張り詰めておられた。周囲を警戒し、決して心を許そうとしない、荒野の狼のような眼差しをしておられました。だが、今の貴方はとても良い目をしていらっしゃる。貴方は良い方向にお変わりになられた」

「……確かに俺は、ここに来るようになって心が楽になったと思っている。ここにいると、楽しくて仕方がない」


 イズメイルと一緒にいるのが楽しいのはもちろんだったが、ナシードやパルミアと他愛もないお喋りをするのも気晴らしになったし、彼らが当たり前のように魔術を使いながら生活しているのを眺めるのも、宮殿ではまず見られない光景で興味深かった。ここで過ごす時間は、エウリアスに今まで味わうことのなかった素朴な感動をもたらし、心の安らぎを与えたのだ。


「ええ。ここにいるときの貴方は、心から楽しんでおられるのがよく分かります」

 エゼルキウスは皺の刻まれた目尻を下げ、その厳めしい顔に微かな笑みを浮かべた。

「エウリアス殿下。貴方がここに来てくださってよかったと、心から思っております。貴方だけでなく、イズメイルもまた貴方のお陰で救われたのですから」

「俺があいつを救った? まさか……」


 エウリアスは面食らった。自分は彼のためになるようなことなど何もしていない。むしろ、大した取り柄もない自分といても、イズメイルには何の得にもならないのではないかと考え、悩んだこともあった。救われたのは自分だ。それに対して、自分は彼に何も返せていないのだと、思っていたのに。


「イズメイルは、ここに来た当初、貴方と同じ目をしていました。当たり障りなく振る舞ってはいましたが、周りを信頼せず、我々との間に距離を置こうとしていた」


 エゼルキウスの目線の先で、庭の草木に光る水滴が水晶のような音を立てて水溜まりに落ちる。エウリアスは、少し肌寒いなと思いながらもそれをぼんやり眺め、彼の話を聞いていた。


「ですが、貴方がここに来るようになって、あの子は明るい表情を見せるようになりました。パルミアやナシードとも打ち解けるようになりましたし、今では学校の子供たちとも仲良くやっています。私は初めの頃、随分と彼にきつく当たりましたから未だに少し警戒されているようですが、それでも、彼もまた良い方向に変わってくれたと思うのです」

「それは、別に俺のお陰じゃない。あいつが変わろうとしたから変わったんだろう」

「そのきっかけとなったのは貴方ですよ」


  エゼルキウスの柔和だが断固とした口調は、エウリアスを戸惑わせた。落ち着かなさげに髪や頬を掻く彼を、老いた魔術師の穏やかな眼差しが見守っている。


「彼は過去を語りたがりませんから、あの子がどんな経験をしてきたのか、私にも分かりません。ですが、彼は孤独な子です。心に大きな闇と傷を抱えて生きているように、私には見えるのです。ですが、貴方はそれを癒してやれる。あの子は、貴方を誰よりも信頼しています。どうか、あの子が宮廷に戻っても、変わらず支えてやってください。老い先の短い爺の願いです。どうか聞き届けてはもらえませんか」


 あとひと月もすれば、イズメイルがここへ預けられてちょうど三年目を迎える。イズメイルに与えられた猶予の期限が迫ろうとしていた。一か月後に行われる試験で宮廷魔術師にふさわしい礼儀と能力を身につけたことが認められれば、イズメイルは再び宮廷に戻ることができるのだ。彼がここで過ごせるのも、残り僅かだった。


「……俺はあいつを、イズを、大事な親友だと思っている。だから、お前に言われずともそのつもりだ。だけど、なぜお前は……」


 このような、まるでもうじき死ぬのが分かっているかのような言い方をするのだろう。


 確かにエゼルキウスは半年ほど前から咳き込むようになったとは思っていたが、まさか、不治の病だとでも言うのだろうか。そんなエウリアスの心中を読み取ったように、老いた魔術師は静かな眼差しを真っ直ぐ彼に向けた。


「私はもう長くはありません。持って二年というところでしょう。自分の身体のことですからよく分かるのです」

「……お前は魔術師だろう? 魔術で治せないのか?」

「魔術は万能ではありません。それに、いかに強大な魔術師だろうと、一人の非力な人間です。死は避けられるものではないのですよ」

「だが、まだ死ぬと決まったわけではない」


 エゼルキウスは何も言わなかった。ただ、静かに庭の低木の枝に止まる三羽の小鳥を眺めていた。エウリアスもつられるようにその三羽に目を向ける。軽やかな小鳥の鳴き声は、これから盛期を迎えるであろう春の息吹を感じさせ、そういえばイズメイルと出会ったのも春のことだったとエウリアスに思い出させた。


 思えば、随分と時間が経ったようだった。あの頃はまだ二人とも十三になったばかりの子供に過ぎなかったが、今ではもう十六になろうとしている。長いようで短かかった。だが、二人を少年から青年に成長させるほどには長かったのだ。そしてエゼルキウスもまた、この三年という月日の間に、冥府への旅路の一歩を踏み出してしまった。

 心がやり場のない悲しみに満たされる。


「エウリアス殿下、貴方はとても真っ直ぐな心根をしていらっしゃる。裏表がなく、よくも悪くもご自分に正直で、何があろうとも前を向いて進んでゆけるだけの強さを備えたお方とお見受けいたします。だからこそ、あの子には貴方が必要なのです。どうか……」

「やめろ!」


 エウリアスは思わずエゼルキウスの言葉をさえぎって俯いた。面と向かって褒められた照れ臭さ、自分はそのような賞賛に値する人間ではないのだという後ろめたさがせめぎ合い、彼の心を乱す。どうしたらよいのか分からなかった。


「俺は愚か者だし、人の心の機微にも疎い。誰かを救ってやれるほど優れた人格者でもなければ知恵者でもないんだ。もちろん、俺にできることはなんだってする。あいつを助けてやれる時は助けてやるし、支えてやれる時は支えてやるつもりだ。だけど、俺にだってできないことはあるし、むしろ、あいつに助けてもらうことの方が多いかもしれない。あいつは俺より頭もいいし才能だってあるんだから」


 むしろ、自分の方が彼を必要とするだろう。今でもそうだ。自分はイズメイルに頼り、彼を拠り所にし、彼に救いを求めている。

 拳を固く握りしめながら俯くエウリアスの様子を、エゼルキウスは愛情の籠った笑みを浮かべて見つめ、口を開いた。


「……やはり貴方は強いお方です」

「エウル! お前、来ていたのか?」


 頭上から降ってきた声に、エウリアスが弾かれたように顔を上げる。中庭を見下ろす二階の窓からイズメイルが顔を覗かせていた。目の下に隈が出来ており、顔色は悪い。風邪がなかなか治らないというのは本当だったようだ。


「先生も一緒に、そんなところでいったい何を……? いや、それより、来ているなら少しくらい顔を出せよ。病気の友を見舞う気もないのか、この薄情者」

「お前、風邪引いてるんだろう? 魔術師のくせに間抜けな野郎だな。移されたら困るから今日は俺に近づくな。大人しく寝てろ」


 エウリアスがそう憎まれ口を叩くとイズメイルは舌打ちし、悪態をつきながら顔を引っ込めた。奴にしては妙に素直だなどと訝し気に思っていると、にやにやと嫌な笑みを貼りつけたイズメイルが再び窓から顔を出す。


「俺を差し置いて先生とお前で逢引か? 楽しそうで何よりだ。気を付けてくださいよ、先生。そいつ、最近欲求不満ですからね。見境なく襲い掛かるかもしれませんよ」


 あまりにも下劣な煽りに思わずカッとなったエウリアスが小石を投げつけると、イズメイルは余裕の面構えで指先を振り、風の力で小石を押し返した。小石はエウリアスとエゼルキウスの間をすり抜け、庭の通路に落ちて転がる。イズメイルの魔術で集められた風は小石を跳ね返した勢いのまま宙で霧散し、二人の髪と衣服を揺らした。


「イズメイル! お前はまた品性のないことを!」


 エゼルキウスが大声を上げると、イズメイルは大袈裟に驚いて逃げるように窓を閉め、帳を引いて今度こそ寝台に戻ったようだ。静けさを取り戻した中庭では、エゼルキウスがため息をつきながらエウリアスに頭を下げていた。


「あれが無礼なことを申しまして、申し訳ございません。ようやっと宮廷人にふさわしい振る舞いを覚えたと思った矢先にあの発言……。まったく先が思いやられます」


 憤りと羞恥心がようやく収まったエウリアスは、苦笑しながら「あいつらしくていいだろう」と小さく呟く。あのように心置きなく憎まれ口を叩き合う機会も、宮廷に戻れば今と比べて格段に少なくなる。せめて、今ここにいる間くらいは、彼らしくいて欲しいと思うのだ。


「俺は、賢いくせに阿呆で、傲慢なくせに妙に臆病なあいつが好きなんだ。俺はあいつと共に上を目指すって決めたし、二人でこの国を支える英傑になるって約束した。だから、イズのことは任せろ。悪いようにはしないから」


 自分は決して優れた人間ではない。未熟で愚か者でろくな後ろ楯もない。今のままでは足元を救われた途端に脆い土壁のように崩れてしまう。だが、地盤を固めて力をつけ、いずれは国にもイズメイルにも自分にも恥じない立派な人間になるのだ。

 エウリアスは強い意志を感じさせる眼差しで、エゼルキウスを見据えた。雲の晴れ間から差し込む日光がエウリアスの赤い髪を照らし出した。


「……貴方様は、必ずや我が国の要となられることでしょう。誠に得難いお方にございます」


 エゼルキウスは若くしなやかな強さを秘めた皇子を、敬意と畏怖を以て眺める。そして、満足そうに微笑むと、深々と頭を下げたのだった。

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