第4話 二人の少年

 しばらく逡巡したのち、エウリアスは頬を掻きながら地面に視線を落として呟いた。


「……女のようだと言ったことは撤回する。その、悪かったよ」


 しっかりと相手の目を見て謝れるほど、素直にはなれなかった。だが、イズメイルにはそれで充分だったようだ。勝ち誇ったように鼻を鳴らして笑うその姿が憎らしくもあり、どこか好ましくもあった。


「お前が謝ったから僕も謝る。僕は口より先に手が出てしまうから、あの時もカッとなってやってしまったんだ。皇子だと知らずに、いやそうじゃなくてもよくないことなんだけど、その、悪かった……」


 エウリアスに謝らせて満足したらしいイズメイルも、口ごもりながら気恥ずかしげに謝罪の言葉を口にする。素直になれないのは相手も同じようだった。もしかしたら自分たちは似た者同士なのかもしれない。エウリアスの胸に親近感が沸き上がった。


「お互い謝ったから、もうこの件は終わりにしよう。それにしてもお前、強いんだなぁ。俺と互角にやりあった子供はお前が初めてだぞ」


 感心したように言うと、イズメイルは目を見開き、そして呆れたようにため息をつく。


「皇子様相手にやり返す奴なんているわけないだろう」

「でもお前は容赦なかったな」

「だって、お前が皇子だなんて知らなかったし」


 ばつが悪そうに目を逸らしたイズメイルは、居心地悪そうに身動ぎした。


「お前、故郷でもよく喧嘩とかしてたのか? お前、想像以上に強かったから、俺、お前のこと見直したぞ」


  エウリアスが言うと、イズメイルは途端に得意気な表情を見せて胸を張った。


「そうだろう? 故郷では、喧嘩においてはイズメイルの右に出るものはいないって言われていたんだから」

「へえ、それは凄いな!」


 エウリアスが素直に感心すると、彼は自尊心が満たされたように満足げに微笑んだ。年相応のあどけなさが垣間見えるその表情に、エウリアスは魅入られる。謁見の間で見た大人びた表情でも、燃えるような怒りの表情でもない、彼の持つ素顔が眩しかった。


「あんたこそずいぶんと喧嘩慣れしているようだったけど、しょっちゅうあんなことやってるの?」

「たまに下働きのガキどもとやりあうときはある。でも、あいつら腰抜けしかいないから張り合いがないんだよな。それより俺が強いのは武術の訓練で毎日鍛えているからだ。ほら見ろ。筋肉ついてるだろう?」


 エウリアスは袖を捲り上げて最近ようやく目に見えてつき始めた二の腕の筋肉を指し示した。イズメイルは興味深そうにしげしげとそれを眺め、自分の二の腕と何度か見比べると目に見えて肩を落とす。ほっそりと華奢な二の腕には、少なくとも今は筋肉の盛り上がりは見られない。


「凄いね。僕もそこそこ腕力はあったつもりなのに。あのままお前と喧嘩を続けていてもきっと僕が負けていただろうな」


 残念そうに呟く彼は、気落ちした様子でため息をつき項垂れた。長い髪が肩から滑り落ち、顔の横にふわふわと垂れ下がる。細かく波打つ銀に近い白金のそれを興味深げに見つめながら、エウリアスは口を開いた。


「その髪と目の色、この辺じゃあまり見かけないけど、プリュクサには多いのか?」


 顔を上げたイズメイルは、怪訝そうにエウリアスを見つめた。なぜ自分の出身地を知っているのだろうとでも言いたげなその眼差しに、エウリアスが噂で聞いたのだと弁明すると、彼は納得したようだった。


「キスギル人や〈湖岸の民〉の血を引いている人間には僕みたいな薄い色の髪や目の人も多いよ。プリュクサは旧キスギル王国領の隣だし、金髪に青い目のキスギル人もたくさん見かけたな」

「お前も混血なのか?」

「うん。母がキスギル人と〈湖岸の民〉の血を引いている。父はプリュクサ出身だから住んでいたのはプリュクサの田舎だったけど」


 エウリアスは予想外の答えに目を見開いた。


 エスタティス大陸中央を東西に横切るキスギル大山脈の麓、ジムニ湖の畔に定住していたシャンダル人、アヴァン人、ラムル人の〈湖岸の民〉三部族が、兄であるカハディーン率いる帝国軍の遠征によって滅亡したのは三年前の夏のことだった。

 それまで彼らはそれぞれ古来より続く魔術師一族によって守られ、数百年に渡る安寧を維持してきたのだが、シャンダル人の集落が宮廷魔術師を従えた帝国軍に呆気なく敗北すると、崩れ落ちるようにアヴァン、ラムルも灰塵に帰した。そして帝国軍は〈湖岸の民〉を制圧した勢いのまま山岳の王国キスギルを攻め滅ぼし、自国の領土に組み込んだのだ。

  当時のことはエウリアス自身もよく覚えていた。豊かな鉱山資源に恵まれたキスギル王国とジムニ湖周辺地帯を手に入れ華々しく凱旋した兄カハディーンの勇姿は、エウリアスの心を沸き立たせた。年の離れた兄への憧憬の念をさらに深め、必ずあのような勇壮な戦士になってみせると誓ったのだ。


「〈湖岸の民〉って、もう今は生き残りはいないんだろう。お前の身内も、もしかして死んだのか……?」


  恐る恐る尋ねてみると、イズメイルはするりと感情の抜けた眼差しでエウリアスを射抜いた。その冷たい視線に、彼は思わず息を呑む。


「……母方の遠い親戚に〈湖岸の民〉の血を引く者がいたというだけで、身内というほどの身内はいない。他国の血を引いていても母も父も僕も、ヴルグラル生まれのヴルグラル人だよ」


 イズメイルはそう言って目を伏せた。あまり触れられたくないことだったのだろうか。エウリアスが何も言えずにイズメイルを見つめていると、彼は顔の横に垂れた髪を一房指先で弄りながら寂しげにぽつりと呟いた。


「この髪と目は母親譲りだよ。父も母も小さいころに死んでしまったから何も覚えていないんだけど」


 エウリアスは自身の母親を思い出した。イズメイルの母が彼に白金の髪とエメラルド色の瞳をもたらしたように、自身の母親も自分にこの赤銅の髪と浅黒い肌をもたらした。だが、記憶にある母の姿は決して甘やかな愛情に満ちたものではなく、忘れがたい忌まわしいものでもある。エウリアスは甦る苦い思い出を振り払うように、無理矢理笑顔を張り付けた。


「お前みたいな白っぽい色の奴はこの辺にはあまりいないから珍しがられると思うぞ。俺は綺麗だと思うけどな」

「……綺麗だなんて言われても別に嬉しくない」


 あっけらかんと言ってのければイズメイルは不本意だとでも言うように顔をしかめた。不貞腐れた様子の彼が、もう先程のように激昂していないことにエウリアスは不思議と安堵する。


「お前さ、俺と同い年なんだってな。俺は暁の七の日生まれだけど、お前は?」

「えっ……実は、僕も暁の七の日なんだ……」


 イズメイルは、信じられないと言うように目を見張った。エウリアスも驚愕のあまりぽかんと口を開ける。まさか、同じ年の同じ日に生まれた者同士がこのように出会い、言葉を交わしていたとは。

 二人は呆然とお互いの顔を見つめ合った。生まれも境遇も全く異なる二人の少年たちの意外な共通点だった。やがて、どちらともなく忍び笑いを漏らす。理由は分からないが、おかしくて仕方がなかった。


「ああ、驚いたぜ。まさか俺とお前、同じ日に生まれてたなんてな!」

「なんだか不思議な縁だね」

「クルバール神のお導きのお陰ってやつだな」

「プリュクサではこういう時"エルモナ女神の糸が結ばれた"って言うんだよ」

「そうなのか? この辺では聞いたことないぞ」

「向こうでは、古来からのイトゥス十二神信仰が主流だから、十二神にちなんだ伝説や諺が多いんだ。この辺じゃ馴染みのないものも多いかもしれないね」

「へぇ! 面白いな! もっと聞かせろよ!」


 エウリアスは時間が経つのも忘れてイズメイルと話し込んだ。魔術に関することから彼自身のこと、そして自分のまだ訪れたことのない土地のこと。イズメイルの話は魅力的だった。自分の知らないことを彼はよく知っている。それは宮殿の中にいると分からない、広い世界で生きてきた彼だからこそ語ることのできる物語だった。思えば、同世代の少年とここまで腹を割って話したのは初めてだ。それはとても楽しく、心が浮き立つような経験だと、この時エウリアスは初めて知ったのだ。


「旧キスギル領や〈湖岸の民〉には魔力を持つ人間が多いって聞くけど、それは本当なのか?」

「そうみたいだね。僕の師匠もそうだったし、フォティアにも魔術師とまではいかなくても占い師程度の魔力を持つ人ならけっこういたよ」

「やっぱりそれって、アクルーダスの水瓶のお陰なのか?」

「どうだろう? あれはもう何千年も昔の言い伝えだからどこまで本当か分からないけど、今でもプリュクサにはアクルーダスを魔術師の祖として崇める宗派が残っている。だから、あの辺りにはそう考える人は多いと思う。僕は信じないけど」

「へえ」


 エウリアスは感心したように声を上げた。

 太古の昔、神々の叡知と魔力を求めて大鷲とともに天に昇り、天空の神殿からそれらの源である水を湛えた水瓶をまんまと盗み出した英雄アクルーダスを思い浮かべる。彼の冒険と死の物語は、幼い頃乳母にせがんで何百回と聞かせてもらったイトゥス神話の中でも一番のお気に入りだった。


「じゃあ、やっぱりアクルーダスが盗んだ叡知の水瓶の破片とかも残ってたりするのか?」

「そうだと言われている石ころみたいなのなら神殿にあったけどね、あんなのそこら辺の石となんら変わりない。ちょっと模様つけてそれっぽく形を整えればなんだって叡知の水瓶の破片になるし、ヴェイナルの黒玉にだってなるさ」


 イズメイルは、そう呆れたように言って肩を竦める。


 神々の怒りに触れて大鷲から振り落とされたアクルーダスは、地上に真っ逆さまに墜落して死んでしまった。だがその手から離れた水瓶はキスギル最高峰のパッシア山山頂で砕け散り、エスタティス大陸全土に数百もの欠片となって散らばった。粉々になった水瓶から流れ出た叡知の水もまた、キスギルの麓のジムニ湖をはじめ大小様々な川や池となったのだ。叡知と魔力の水は大地に染み渡り、人々に魔力とそれを操る術をもたらした。強い魔力を持つとされる水瓶の破片は、今でも見つかれば崇拝の対象となっている。

 エウリアスもかつては憧れたものだった。いまだ全ては見つかっていない水瓶の破片を手に入れることができれば、自分も万物を操る大魔術師になれるかもしれない、と。そうすればきっと、父も母も、兄弟たちも自分を見直し、尊敬するに違いないと、そう思っていた。今思えば、あまりにも幼く無邪気な夢に過ぎなかったのだと理解できる。


「大丈夫? 眠いならもう帰れば?」

「……いや。お前、眠いか?」


 イズメイルは「別に」と言ったその直後に大きな欠伸をする。エウリアスはその様子を見て、躊躇いがちに口を開いた。


「……俺の母上、元は奴隷だったんだ」

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