第1話 少年魔術師

 イトゥス暦一一七九年


 長い冬が終われば、春がやってくる。

 白い帆を輝かせた船がひしめくトゥリエル湾の水面は穏やかに波打ち、湾を取り囲むカルコリスの街に潮の香を含んだ海風が吹き渡る。日差しに照らされた石の家々が白く輝く帝国の都は活気に満ち溢れ、子供たちは通りを駆け回り、市場に売り子の賑やかな呼び声がこだまする。


 街を見下ろす丘の上のコラリア宮殿にも、春の息吹は爽やかに届いていた。重苦しい冬の衣装を脱ぎ捨て、軽やかな春の装いに身を包んだ侍女たちが姦しく回廊や広間を行き交い、その回廊には柔らかな日差しが数多の柱の影を描き出す。薄桃色や紫、黄色といった色鮮やかな花が咲き始めた中庭の中央には優雅に水が流れる噴水がひとつ。その横で孔雀が一羽、華麗な羽根を引きずりながら暖かい太陽の光を浴びて微睡んでいる。


 回廊の中程からその様子を眺めながら、十三になったばかりのエウリアスは満面の笑みを浮かべた。

 彼は春が一番好きだった。重く垂れ込めていた雲の合間から太陽が顔を覗かせ世界を照らし出すように、冬の間に抑圧されていた彼の活力もまた、暖かな春の日差しの元でしなやかに解放される。そうでなくとも暖かい日差しは心地がいいし、街や宮殿の開放的な空気は気分を高揚させる。

 春は歓喜と希望の象徴だ。そして、太陽神の妻ハヴィ女神がその恵みを地上にもたらす始まりの季節でもあるのだ。


 エウリアスはヴルグラル帝国の末の皇子として十三年前に生を受けた。朝の礼拝と朝食を終え、本来ならば勉学に励んでいるべきこの時間に、教師や侍従の目を盗んで下男の子供のような身なりで回廊をひた走っているのは、心浮き立つ春だからというだけではない。彼にとって授業を抜け出すのも教師を出し抜くのも、日常茶飯事だ。そして、常時であればそのような行為に特別な理由などなかったが、今日は違う。自分と同じ年の魔術師が宮廷に招かれたと聞いては、その顔を一目拝みに行かずにはおれない。

 沸き上がった好奇心は、エウリアスの若い瑞々しい心を瞬く間に満たし、衝動となって彼を突き動かした。



***



 彼の噂を聞いたのは二月ほど前だった。帝国北部の属州で見出だされたという少年は、幼いながらも大人に引けを取らない、優れた魔術の腕を持つという。地方の一都市で一生を終わらせるにはあまりにも勿体ないその才を見込まれて、晴れて彼は宮廷魔術師候補として帝都に招かれたのだ。そして、その彼がカルコリスにやって来たのが二日前。今日はその能力を試験するため宮殿に参内しているはずだった。

 エウリアスはその少年がどのような人物か詳しくは知らなかった。宮廷の人間は、彼にそこまでの詳しい情報を教えてくれない。聞いたところではぐらかされるか宥めすかされるのは彼自身がよく分かっている。だからこそ、彼はその目で新参の少年魔術師の姿を見てやるつもりだった。



***



 エウリアスは回廊を駆け抜け、中庭をいくつか通りすぎ、謁見の間に辿り着く。

 謁見の間は、宮殿を入り第二の門を潜るとすぐに正面に現れる、宮殿内でも最も豪奢な部屋のひとつだ。来賓に帝国の威信を知らしめるべく金と宝石と大理石で飾り立てられたその場所は、帝国の皇子といえどそう易々と入れるものではない。それを嫌というほどよく分かっているエウリアスは、もちろん正面から入るような真似はしなかった。そのようなことをすれば、門番に呆気なく摘まみ出されるのは目に見えている。


 彼は、謁見の間の真裏に位置する〈金糸雀の庭園〉に足早に回り込んだ。そして、周囲に誰もいないことを確かめると、建物の突起に手をかけ、上部に設えられた窓まで驚くほどの身軽さでするすると登ってゆく。身長の三倍以上の高さの窓まで登ると、窓の窪みに身を落ち着け、ほっと息を吐いた。だが、ゆっくりはしていられなかった。いつ誰に見つかるか分からない。万が一見つかったとして、説教程度ならこの際いくらでも聞いてやるのだが、新米の少年魔術師を一目見てやる前に連れ戻されては叶わない。


 エウリアスは、はやる気持ちを抑えながら窓に顔を押し付け、中を覗き込む。飾り格子の間から僅かに中の様子が窺えたが、見えるのは魔術師の頭ばかりで、肝心の少年の姿は見えなかった。

 場所が悪かったのだろうか。

 エウリアスは落胆しながら、慎重に地上に降り立ち、離れた位置の窓を目指して再び壁を登り始める。その場所は、ちょうど庭園の樹木が窓とその周辺を覆い隠し、周囲から自身の悪行が見え辛い場所でもあった。初めからこちらにしておけばよかったと、少し後悔しながらも、たどり着いた窓から中を覗いてみれば、こちらも大人たちの頭ばかりで何も見えない。さっきと違う点があるとすれば、父であるメトディオス帝の玉座の天蓋が一部見えることだろうか。だが、見たいのは、嫌というほど見慣れた魔術師の黒い貫頭衣でも、父帝の玉座でもない。新たにやって来た自身と同い年の魔術師の少年の姿なのだ。

 エウリアスが苛立ちを覚え、いっそのこと窓の玻璃を打ち破って謁見の間に飛び込んでやろうかなどと考え始めた頃。ふいに、大人たちの群が割れた。開けた視界は、メトディオス帝の玉座と、その前に立つ小柄な少年の後ろ姿を露にする。


 ついに見えた!


 エウリアスは目を輝かせた。待ち望んだ姿を目の当たりにして、彼の心は弾んだ。彼は玻璃に頬を押し当て、よく見ようと目を凝らす。


 その少年は白っぽい髪をしていた。銀か、もしかしたらごく薄い金かもしれないが、ここからではよく分からない。髪に魔力を宿す魔術師の慣習に従って、彼も髪を背中の中程まで伸ばしてひとつに編んでいた。北部の生まれだと聞いてはいたが、今は膝丈の深緑の貫頭衣に群青の帯を腰で結んだカルコリス風の衣装を身につけ、濃い色の長靴を履いている。顔立ちは分からない。エウリアスからは少年の後ろ姿しか見えなかった。


 どうにかしてこちらを向いてはくれないだろうか。


 エウリアスは、窓の玻璃を力いっぱい叩いてやろうと拳を振り上げた。だが、思い直してその手を下ろす。窓を覆う玻璃は非常に貴重なものだ。帝都でもここコラリア宮殿の謁見の間にしか設えられていない。そんな高価な玻璃を身勝手な理由で割りでもしたら、少年は振り向いてくれても、自分は説教だけではすまないだろう。さすがに父帝の怒りを買うようなことはしたくなかった。

 玻璃の向こうで、少年がエウリアスに背を向けたまま、両手を掲げ大きく広げた。そこで彼は思い出す。これは、この幼い宮廷魔術師候補のための登用試験だったのだと。今から彼はメトディオス帝と古参の宮廷魔術師たちの前で、魔術を披露するのだ。

 エウリアスの胸は期待に高鳴った。いったいどのような魔術を見せてくれるのだろう。食い入るように窓にかじりついていると、謁見の間に灯された蝋燭の火が、瞬く間に巨大な炎となって室内に膨れ上がった。エウリアスは思わず仰け反る。そして、自分が今、地上からここまで自身の身長の倍もある高い位置にいることを思い出し、死に物狂いで窓枠にしがみついた。

 室内でも、突然のことに驚いたであろう大臣や魔術師が一斉に後退りしている様子が窺えた。当代の宮廷魔術師長が少年を止めようと身を乗り出すが、それを皇帝が手で制する。少年は微動だにせず両手を上げたままだった。

 少年が右手を振ると、膨れ上がった炎はあっという間に千々に散らばり、その欠片は、ひとつ残らず炎の羽根を羽ばたかせる蝶となって室内を舞い踊った。赤い炎の麟粉を振り撒きながら、それらは優雅に飛び交い、エウリアスのかじりつく窓にも次々とやって来ては彼を誘うようにくるくると回りながら去ってゆく。彼は、ごくりと息を呑んだ。やがて、炎の蝶たちは次第に青く変色し、尾羽を長く靡かせた美しい鳥に姿を変えた。青い鳥たちは滑るように室内を飛び回り、謁見の間の中央、少年の頭上に集まると、一塊となって青白く輝く巨大な孔雀の姿となる。孔雀は、鮮やかな羽根を広げ、威厳と気品に満ちた立ち姿を見せると、七色の光の粒となって部屋中に飛び散り、エウリアスのいる窓のすぐ側を揺蕩いながら皇帝や大臣たちの頭上に降り注いだ。


「幻影の魔術だ……」


 エウリアスは惚けたように呟いた。

 古の神々や幻想の生き物を、まるで、実際に目の前にいるかように具現化させる幻影の魔術。使い方次第で美を追求することも、人々を恐慌に陥れることも可能なそれは、宮廷魔術師たちが必ず習得しなければならないもの。常時であれば高貴な人々を楽しませ、戦時ともなればその術で敵軍を惑わせ翻弄する。だが、このように優美で幻想的で、繊細な幻影を生み出す者がかつていただろうか。

 謁見の間では、魔術師たちが顔を見合わせながら話し合いをしている。メトディオス帝は、顎に手を当て、何かを考え込んでいるようだった。少年は両手を下ろし、その場に静かに立っている。エウリアスが彼をじっと見つめていると、ふいに少年が振り返った。

 大きな切れ長の目に筋の通った鼻。あどけない丸みを帯びた頬。滑らかそうな小麦色の肌。

 エウリアスは少年の顔立ちに思わず息を呑んだ。少年と聞いていたし、たった今まで自分もそう思っていたが、あれが男だというのか。たった今見せられた幻影を思わせる、可憐で清らかな、あれは──少女ではないか。


「……男しか宮廷魔術師になれないはずなのに、なんで女が招かれたんだ?」


 不思議そうに呟いた時だった。


「何をなさっておられるのですか! エウリアス殿下!」


 空気を裂くような悲鳴と怒鳴り声が、下から突き上げるように響いた。


 とうとう見つかってしまったか。


 半ばうんざりした気持ちで庭園を見下ろすと、側付きのニクスールがこちらを見上げていた。若者というにはやや年を重ねた印象のある彼は、うっすらと皺が刻まれたまなじりを吊り上げて憤怒の色も露だ。そして、その傍らで、すっぽかした授業の担当教師が、青ざめた顔に両手を当てながら樽のような身体を行ったり来たりさせて右往左往している。その様子があまりにも可笑しくて、つい声を上げて笑ったのだが、それがニクスールの怒りに火を注ぐ結果となった。


「笑っておられる場合か! 早く降りてこられよ!」


 従者の怒鳴り声に仕方なく降りようとしたが、思い直してもう一度窓の中を覗き込んだ。少年は、別の試験を受けているようだった。先ほどのように派手ではないが、魔術を使っている様子が窺える。彼は掌大の道具を左手に持ち、右手を振っている。次は何をするのだろう。好奇心が再び鎌首をもたげた。しかし。


「エウリアス殿下!」


  ニクスールが再三声を上げる。これ以上彼を怒らせるのは得策ではない。彼の説教は粘着質極まりないので、できれば最小限に抑えたいものだ。


「ああ、もう分かったよ。降りればいいんだろう? すぐ戻るから待ってろって」


 ため息をひとつつくと、登ってきた時と同じように、手慣れた様子であっという間に地面に降り立つ。地面に足を付けた瞬間、駆け寄ってきた教師に両腕をがっしりと掴まれた。


「エウリアス様、授業を抜け出してどこへ行かれたのかと思ったら、こんな危ないところで……。いったい何をしておられたのです!?」


 泣きそうに顔を歪める髭面の彼に、エウリアスは苛立ちを覚える。乱暴に腕を振り払うと「そんなの俺の勝手だろう」と言い捨てる。なぜ教師ごときに行動を詮索されなければならないのか。大した授業もできないくせに。

 不機嫌だと言わんばかりに唇を尖らせ立ち去ろうとしたが、ニクスールがその前に立ちはだかった。大柄な彼を見上げると、その顔には抑えようのない怒りが漲っていた。


「貴方様の勝手ではありませんよ。今、エウリアス殿下はこちらのアレクトール師の授業を受けていなければならないはず。それを勝手に抜け出してこんな危険な真似をして、挙げ句に先生には八つ当たり。いったい何を考えておられるのですか!」

「だって、そのアレクなんとかって奴の授業はつまらないし、今日はほら、例の魔術師が来る日だっただろう? だから気になって仕方がなかったんだ。授業なんかよりそっちの方が面白そうだし」

「面白い面白くないの問題ではありません。貴方が今やるべきなのは授業を受けることです。あの子供に会うのは今でなくともよいはず。違いますか?」

「違わない。俺は今すぐあいつを見たかったんだ。悪いかよ?」

「……貴方の役目は今やるべきことに集中することでしょう?」

「知らないね、そんなもん」

「ならば知ってください。今すぐ部屋にお戻りになられ、さぼっただけきっちり勉学に励んでくださいませ」


 なおも不満を述べようとニクスールの顔を見上げてみれば、彼の眼差しに凍てつくような怒りが宿っているのが見て取れた。高揚感は跡形もなくしぼみ、自身の立場と従者の内心を嫌というほど思い知らされる。


「……分かったよ。戻ればいいんだろう。戻れば」


 投げやりに呟いて歩き出す。どうしてよいか分からず、おろおろ彼とニクスールを交互に見やるアレクトールを横目に睨みつけ、「ハゲの雄鶏野郎」と悪態をついた。それが理不尽な行為だということは百も承知であったが、この苛立ちを誰かにぶつけずにはいられなかった。

 背後でこれ見よがしにため息をつくニクスールが恨めしい。彼の縮れた黒髪を、全てむしり取ってやりたい衝動に駆られるが、庭の小石を思い切り蹴り飛ばすことで辛うじてそれを抑え、自室に戻るべく駆けて行く。輝くような春の日差しと麗らかな庭園の光景が、ふいに憎らしく思えた。

 

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