04 家族写真と火の手

白羽しらはさん、逃げますよ!」


 顔は青ざめ足をガクガクと震わせている白羽とそばに置かれていた手持ちかばんを抱え上げ、晴寄はれよりは玄関へと一直線に走り出した。頭は今もがんがんとうるさいこと極まりないが、死ぬよりはマシだ。これがもし出血して、後の人生を全て半身不随で過ごすことを考えても、命だけは惜しい。

 それに今は、なによりも守りたい少女が腕の中に居るのだから、なおさらであった。


「ま、待って……! 私を置いていって下さ……ぃ……!」


 白羽が今までにないくらいの声量で悲鳴に似た叫びをあげた。足をばたつかせ、両手を地面に向けて伸ばすその姿は、天敵に捕まった雛鳥のようで、晴寄は焦りながらも白羽を離してやった。


「君は死にたいのですか!」

「違い……ます! おばあちゃんの、遺骨が、まだ……!」


 薄く忍び寄ってくる白煙のなか、駆けだそうとする白羽を晴寄は腕で抑えつけ、目の前に立たせる。


「仏壇にあるのですね」

「あなたは関係ないでしょう!」

「しかし君はハンカチを持っていない。僕のを使ってくださいと言えば拒否するでしょう。遺骨と心中するつもりですか!」


 心中する、つまり死ぬと聞いて白羽は青い顔を思いきり横に振った。


「なら、先に逃げてくれますね? 君だけでも無事なら、僕は心配するものが減りますから」


 晴寄は白羽にそう言い聞かせ、でもと口を開いた白羽にカバンを押し付け、その背中を玄関へと押した晴寄は、真逆の方向へと走り出した。

 濛々と家のなかを侵食し始める煙のなか、ずんずんと前に進んでいくのは正直恐怖でしかなかった。

 しかし、後ろを振り向いて一目散に逃げようなどと弱音を吐きそうになるたび、白羽がすれ違うように横をすり抜け、二度と帰らぬという想像が脳裏を掠める。

 それだけは絶対に避けなければならない。晴寄は自分の心に鞭を打ってその足を前に向けた。


 ――――僕は白羽さんより体が大きい大人です。一酸化炭素が回る時間も長いはず……。


 そう自分に言い聞かせ、奥の和室へと続く廊下を走る。死ぬ気などない、死ぬことなど考えるな、そう自分を叱咤しながら足を先へと踏み出した。

 ガタガタと何か大きなものが倒れる音。

 近くはないが、恐ろしいことに変わりはない。幸いだったのは、出火元の台所がここから少し遠いことだろうか。

 晴寄はやっとのことで和室に辿り着き、仏壇の前に立った。遺骨が入った骨壺は棚の上に置かれていたためすぐに見つかり、晴寄はそれを小脇に抱える。

 しかし、晴寄の視線はふと、その先――骨壺に隠れていた一枚の写真に移った。

 とても幸せそうな笑顔を浮かべて写っている老婆と幼女、そしてその父と母だった。一言で表すならば、桃の木をバックに写った一つの幸せな家族、である。

 川相いわく、黒住くろずみ桃花とうかの娘も息子も、事故や病気で早死にした者が多いという。それだけ息子娘が多かったのは、次々に恋を成就させて結婚した結果だろうが、恨まれるほどに悪名高い女ならば幾度も結婚していただろうか。悪女や妖女と恐れられていた女を、男が避けていなかったはずがない。

 それに、この家族の笑顔。桃花が恨みを持たれ、今はその恨みが白羽に向いているこの状況から察するに、桃花の生きていた頃から村八分は始まっていたはずだ。つまり、息子娘も同じ境遇だったと推測する。自分を生んだ親とはいえ、自分たちまで絶望の淵に引っ張りこんだ女を、嫌に思うことはないのだろうか。

 晴寄は身に迫る危険を忘れて写真に手を伸ばす。

 そのときだった。

 轟音が鳴り響き、家全体が揺れる。晴寄は目の前にあった仏壇で躓き、つんのめった。

 爆風が追い打ちをかけるように晴寄の背中を押す。

 え、という悲鳴とともに晴寄は仏壇を巻き込み、畳の上に投げ出された。


「がっはぁっ」


 上から降ってくる重量のある木製の棚と跳ねあがった仏具たち。それらは晴寄の背骨や足を打ち、痛みを残して棚を引き連れてくる。

 当たった衝撃で肺から空気が吐き出され、逃げようと身を捻ることも叶わず棚と畳に押しつぶされた。

 傷を負った頭が追撃するかのようにがんがんと痛み、思考がぐちゃぐちゃになる。

 視界の端にはころころと転がっていく骨壺が見えた。あの方向は台所とは真逆の玄関の方だ。

 一瞬だが、安心が心を満たす。それが悪かったのか、緊張が身体から離れていった。まだ駄目だと追いかけても、一度ほどけたものはすぐには戻らず、思考が揺蕩う……。


「誰か、誰か、あの子にお骨を、届けてくれませんか……」


 思考が途切れ、途切れ、だ。血がつうと流れる感覚が頬を犯す。

 必死に意識を繋ぎとめようとするが、まるでプラスチックでできた糸のようにツルリツルリと上手く結べない。

 ここで倒れるわけにはいかない。必死で必死で……。


 ――――いつからあの子のためにこうも必死になるようになってしまったのだろう。


 だのに、晴寄の思考は、それを最後にして、こと切れるようにして霧散していった。


**********


「せんせぇ! せんせーー!!」


 幾重にも重なって聞こえるくぐもったか細くも必死な悲鳴。音楽教師の川相幸奈ゆきながそれを聞きつけたのは、偶然以外の何物でもなかった。

 今日、不登校児の黒住白羽に会いに行った晴寄が、珍しく忘れ物をしたため持ってきただけであったのだ。

 黒住家の入り口は狭いため、車を外に置いて少し登らなければならない。

 家に向かうため、彼女がえっちらおっちら坂道を登っていた途中、焦げ臭い匂いとともに異変に気付いた。

 黒住家が燃えているという事実に、川相は目をひん剥き、ヒールの高い靴で転げそうになりながら走った。ようやく玄関の近くまでやってきたとき、中から響く白羽の悲鳴に気づく。

 川相は白羽が引きこもりを続けている事実を忘れ、思いっきり家の扉を開いた。


「白羽さんっ!」「ヒッ」


 ぎょっとした目でこちらを見つめて、別の意味で怯えを見せる白羽に、川相は少しだけ我を取り戻して、できるだけ軟らかい声で晴寄の安否を尋ねた。

 震えながら、しかし涙ながらに白羽はぽつりと事の顛末てんまつを川相に伝える。

 その話を聞いて川相の顔から血の気が引いた。

 目の前は煙が濃い廊下。後ろは安全な外。

 視線が前後に揺れる。

 唇を噛んだ。ぎゅっと拳を握りしめる。

 外に出て、携帯に指を走らせて消防に連絡を入れた。正確な位置情報を知っていたのは奇跡と言えるだろう。頭が妙に冴えてスラスラと言葉が出てきた。そのまま足は井戸の方へ。

 なぜか折られて小さくなった桃の木が川相を見下ろす。


「私の雄姿、ちゃんと見下ろしときなさいよ」


 無理矢理に口の端を歪め、桃の花にしか見えぬ虚勢を張る。

 驚いて跳ね上がるだろう心臓に一声かけてから水を被る。春の風が身体を撫でて寒気が走った。

 家のなかに跳ね戻った白羽の顔は見ものだった。あなたも行くの? と言いたげなその瞳は、人の死に心底怯えていた。


「晴寄先生は私が引っ張ってでも連れてきてあげるから、外に出れないんならちゃんとそこで息してなさいよ!」


 それだけ言い残して、川相はハンカチで口を覆って煙幕のなかを走り出した。

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