#1 バレンタイン作戦

 いろいろなことがあった。今年一年。

 いや、正確には今年度一年、か。

 四月の頃、クラスメイトの長谷川が自作自演で作り上げたボヤ騒動の犯人にされかけたことが、今では遠い昔のことのように思えてくる。

 六月には季節外れのインフルエンザに苦しんだっけな。どうしてか数年に一度、季節外れのインフルエンザに罹患するんだよなあ。その間、帳の元に暗号めいた恋文が何通も届いたっけ。

 七月の中頃には中藤先生の手帳に書かれた文字が消失するという事件もあった。あの時は先生、勝手に大騒動をしていたな。

 これだけを聞けば、何の変哲もない。いわゆる日常の謎に直面した素人探偵みたいだ。これだけなら。あるいは、これくらいの事件がずっと続けば、それは平和と同じことだっただろう。

 七月下旬から八月上旬に、愛知県沖の孤島にある別荘タロット館で開かれた探偵小説家サロンに招かれた。そこで名探偵から死ぬ連続密室殺人事件に巻き込まれ、解決役を演じることを余儀なくされた。

 それが、を回したのかもしれない。

 タロット館での事件と同時に、上等高校では学校行事を取り仕切る実行委員会のメンバーが、同じメンバーを殺害するという事件が起きた。

 その事件を受けて横浜へ移住した生徒の経過観察に行って、そこでもまた変な事件に巻き込まれた。

 夏休みは穏やかに行くと思いきや、大型リゾート施設で後輩と変なやつに絡まれたりもした。

 小学生女児の誘拐事件と、それに連なる毒殺事件の面倒を見たこともあった。

 すべてがギャンブルで決まるという驚異の高校で、妹がギャンブル対決をするのを見届ける羽目になったこともある。

 そして、夏休みが終わったら、九年前に解決したはずの事件が再び蘇って来て。

 文化祭。

 あまり思い出したくはない、あの事件。

 本当に、いろいろあったな、一年。文化祭以降は落ち着いたけど、それは単に、この学校の誰もが何かを起こすほどの余裕がなかったという、ただそれだけのことだったのかもしれない。

 でも、それならそれでいい。

 余裕がないから何も起こせなくても、それでいい。

 外面上は穏やかなのだから。水底で何が渦巻こうと、僕の知ったことではない。

 そして、二月十四日。

 一般的にはバレンタインと呼ばれる、愛し合う男女がチョコレートを贈り合ったり、親愛の情を抱く両者がチョコレートをやはり送り合ったりする日に、僕はいつものようにごく普通に上等高校へ登校していた。

 バレンタイン、と言ってみたところで、誰からもらうあてがあるわけじゃなし。それに一般的な話をすれば、二月は受験のシーズンだ。センター試験は終わり、二次試験の本番に向けて最後の追い込み、どころか本番真っ最中ということすらある。受験生たる高校三年生にはあまり浮かれている暇もない時期だ。

 そんな時期だというのに、教室に辿り着くと、部屋には人の気配がまるでない。

 僕しかいない。

 冷え切った教室の明かりをつけ、暖房を入れる。閉まっていたカーテンを開いて、朝日の恩恵を教室一杯に取り込む。ここしばらくの、僕のルーティンである。

 新年を迎えてあけましておめでとうをしてから、僕の所属する三年十五組の生徒は僕以外誰も登校してきていない。

 もともと、センター試験が終わってからは自由登校というのがこの学校の基本的な受験シーズンの日常なのだ。塾に行くもよし、家で自習するもよし、もちろん学校に来るもよし。ただ、どういうわけか、僕以外の生徒は学校という選択肢を真っ先に消去したらしい。

 いや、どういうわけというか、明白なわけはある。

 文化祭の事件だ。

 あの事件で、十五組は大打撃を負った。事件の被害者も加害者もクラスメイトとくれば、その衝撃は大きい、らしい。僕にはイマイチ分からない感覚だが、その感覚に従えば学校など忌々しくて通っていられないのだという。出席率の高さだけが取り柄だった連中も、足が遠のくらしい。

 まあ、足が遠のいているのは十五組の連中だけじゃないのだが。結果的に、十三組から十五組、上等高校のいわゆる特進科の教室が並んだこの一角は異様に静かであった。

 そんな静かな空間で、僕は今日も今日とて読書に励むのだ。受験勉強ではなく。

「猫目石、先輩」

 僕が自分の席に着き荷物を探っていると、がらりと教室前方の扉が開かれた。冬の朝のこと、まだ日が登り切らずに薄暗さが目立つ廊下から、ふらりと誰かが入ってきた。

 誰かと言っても、声で分かっているのだが。

「扇さん」

 入ってきたのは、二年生の扇しゃこさんである。ショートボブの髪が特徴的で、彼女の先輩に言わせれば「国民の妹」みたいに顔が整っているらしい。僕としては他人の容姿に興味はないので、その評価をそのまま援用させてもらっているが……センスないなあとは思う。

 扇さんは僕に一言呼び掛けた後は無言で、かつかつとこっちに迫ってくる。正直なところ少し怖い。目が。

 彼女はなるほど整っているらしい外見をしていたが、そこにいくぶんかやつれたところがあった。ただ、目だけは活力を取り戻したように爛々と輝いていて、じっとこっちを見ている。外見では憔悴している人間が目だけ活気的なのはこんなにも恐ろしいのか。十八歳の冬、まだまだ初めて知ることもあるものだ。

 とか言っている場合ではなく。

 僕は対応を決めかねた。僕自身からすればいわれのないことなのだが、一般的には僕と彼女は険悪である。敵対的と言い換えてもいい。僕にとって彼女は庇護すべき大切な後輩なのだけど、彼女の方では僕を嫌っている。どころか、文化祭の事件以降、恨まれている可能性すら大いにある。僕としては彼女に最大限配慮したつもりだったが、そのつもりが必ずしも彼女の届くとは限らないから、これは仕方のないことだ。

 ともかく、現在の僕と彼女の関係性は悪い。なんならこのまま直進してきた彼女に一発ぶん殴られるまである。むしろ今日まで一発も殴られていないのが奇跡とは、僕の妹である哀歌の言である。うつろいやすい女心の解説者として僕は妹ほど信頼している人はいないので、ああ今日こそは殴られるかもなと思いながら彼女が近づくのを待った。

 今すぐ立ち上がって逃げるということも考慮の内だったけれど、やはり考え直して、そのまま座って扇さんを待つことにした。殴られるならまあそれでいいや。それで扇さんの気が晴れるなら先輩として頬を差し出すのもやぶさかではない。

 一方、覚悟を決めた僕のことなど知るよしもないと言わんばかりに、扇さんは近づくと僕の右隣の席に腰掛けた。そこはくしくも彼女が最も敬愛する――恋愛するかもしれない――先輩の席である。彼女はもちろん、知らずに腰掛けたのだろうけど。文化祭以降、そういえば席替えをしていなかった。

 そして腰掛けた扇さんは、そのままじっと僕を見た。見続けた。

 しばらく、僕たちは見つめ合った。睨み合ったとする方がより正確かもしれないけど、ともかく視線を交わし合ったのである。僕は読もうと思った文庫本を取り出して開きかけた姿勢のままだし、どういうわけか扇さんは両手を後ろに回して何かを隠すような恰好をしていたけれど。

 どれだけ時間が経っただろうか。案外、数分もしなかったかもしれない。僕にとっては永遠に思われる程長く感じたその時間は終わって、凍りついた世界は解凍される。別に暖房が効き始めて部屋が温かくなったから、動き出したわけじゃないと思うが。

「猫目石先輩」

「はい」

「猫目石瓦礫」

「なんでフルネーム?」

「今日が何の日か知ってますか?」

「バレンタインだろう? 昨日、妹から聞いた」

「ああ、哀歌ちゃんから。あの子なら、友チョコくらい作りそうですもんね」

 そういえば九月、文化祭の直前にあった事件で、扇さんと哀歌は顔を合わせていたか。

「じゃあ今日は、哀歌ちゃんからチョコを貰う予定ですか?」

「いや、哀歌は僕にチョコをくれたことはないよ。あげる甲斐がないんだと」

「確かに先輩だとないですね、甲斐。感謝の心が存在しなさそうですから」

 さすがにそこまでは言われてないんだけど。

「じゃあ悲哀さんは?」

 悲哀とは哀歌の実母であり、僕の保護者だ。決して僕の母ではないのがポイントだ。

「悲哀はバレンタインに誰かに上げるってタイプじゃないな。独身時代はそうでもなかったらしいけど」

「そうですか。じゃあ――――」

 夜島先輩はどうなんですか、と聞こうとしたのかもしれない。ただ、帳のことはちょっと今は繊細だと思ったのだろう。扇さんは途中で口を閉ざして、話題を切り替える。

「そうでなくとも猫目石先輩は今や押しも押されぬ高校生探偵ですから、バレンタインのチョコくらい貰うでしょう」

「……………………」

 高校生探偵だとモテるのか?

 それは初耳だ。

「だから私があげても多数の中のひとつですよね」

「まるで唯一だと困るみたいな言い草だねえ」

 というかその言い草だと、くれるみたいじゃないか。

「一応困ります。勘違いされると嫌なので」

「別に多数の中のひとつでも、純然たる確率としては勘違いする場合はあるんじゃないかな」

「じゃあ勘違いしないでください。するな、絶対」

「そもそもチョコ、まだ貰ってないんだけど」

 え、くれるの?

 この流れ。

 それこそ勘違いする流れだぞ。

「はい、まあ、一応?」

「なんで疑問形」

「…………………………はあー」

 扇さんは溜息を吐いた。

 吐かれてしまった。

「今になって思うんですけど、なんで私、猫目石先輩にチョコあげようとしてるんですかね。しかも朝一に先輩の教室にまで来て」

「え、くれるの!?」

「そういう流れでしょう、今」

「………………マジで?」

「マジで」

 言って、扇さんは額の汗をぬぐった。

 汗掻くほどの苦境なの、今!?

「これですよこれ! ああもうっ!」

 ようやく、彼女の後ろに回された手が正面に出てくる。

 彼女が持っていたのは、なるほどチョコレートである。個包装された、紫色のラッピングがいかにも可愛らしいものだ。

「友チョコとかいうやつか」

「なんでですかっ!」

 心底いやそうに扇さんが叫ぶ。

「義理です義理! 先輩とわたしの間に友情なんて一ミリグラムも存在しないでしょ! ましてや本命じゃないですから絶対に勘違いしないでくださいね!」

「いやさすがにしないけど」

 しかし、チョコかあ。

「なるほどなあ、これが噂に聞くバレンタインの…………」

「なんですか、初めてテレビを見た昭和の人みたいな態度は」

「いや実際初めて貰ったからな、バレンタインのチョコ」

「えっ!」

 驚かれてしまった。

 そんなに驚くことだろうか。

「バレンタインにチョコを送り合う習慣があるのは知っていたけど、都市伝説か奇祭の類だと言われても信じてたよ今までは。なるほどこういう習慣なんだな。あ、じゃあホワイトデーに三倍返しってのも本当?」

「いいですよお返しは! というか、本当に初めてなんですか!」

「え、うん」

 なんならバレンタインのチョコより他殺死体の方が目撃回数多いぞ僕は。

「夜島先輩から貰ってたりしないんですか?」

「だって帳と恋仲になったのって去年の八月だから、それまではチョコ貰うような関係じゃなかったんだよなあ」

 友達以上恋人未満。その関係を九年近く続けていたわけで、自分で言うのもなんだけどひどく我慢強いよな僕たち。

「義理チョコの類でも初めてだよ。いやあ、こういうものかあ。ありがとう、大切にするよ」

「思いのほか喜ばれている現状にムカつきますし、喜ばれたのを悪くないと思っている自分にはさらに腹が立ちますねこれは」

 それは言わぬが花だったんじゃないかな。

「ていうか猫目石先輩にチョコを初めて渡したのが自分だというの、すごい嫌なんですけど」

「でもなんでまた急に? 君自身が言う通り、僕に義理とはいえチョコを渡すようなガラじゃないよね?」

「それはそうなんですけどね、理由が二つありまして」

「二つ」

「ひとつだったら渡さなかったんですけど」

 じゃあ二つあってよかったな、理由。

「ひとつは、よく考えたら去年はいろいろ、お世話になってますからね。そのお礼です」

 お世話、したことあったかな。

 ああ、何度かはあったかもしれない。

 例えば上等高校で夏休みに起きた殺人事件。タロット館での事件と並行して起きた、彼女の命名でいうところの『殺人恋文』事件の時だ。あの事件の解決に僕は直接かかわっていないけれど、事件関係者がマスコミから逃げて横浜へ行くのを僕、というより僕の保護者である悲哀が代表を務めるNPOがフォローしたのだった。

 あとは、これも夏休み中。蒲郡市に位置する大型レジャー施設『ミステリアスラグーン』での事件。これに扇さんと一緒に巻き込まれたのだった。

 僕が今身に着けている、オーバースペックな黒いダイバーズウォッチはその時手に入れたものだ。

「これで貸し借りは無しです。正直、先輩に借りがある状況はかなりストレスでしたから、先輩の人生初のバレンタインチョコということならおあいこでしょう」

「そうだね。で、二つ目の理由っていうのは?」

「それは…………」

 そこで扇さんは言いよどんだ。なんだろう。考えてみると、僕に感謝の念があるということ以上に彼女が言いよどむことってないと思うのだが。

「実は今日の放課後、実行委員会でバレンタインのイベントを企画しているんです」

「イベント?」

 何のことか、話が見えてこないが聞きに徹するか。

「ほら、『堕ちる帳』事件以降、みんなどうにも暗く落ち込んでいたじゃないですか」

 『堕ちる帳』事件。

 僕が既に数回触れている、例の文化祭の事件のことである。事件の命名をせずにはいられない扇さんは、そんな名前をつけたらしかった。

 まあ落ちたもんな、帳。

 体育館の屋上から。

 落ちて、死にかけた。実際のところ、一度は心停止しているから死にかけたというより死んでいた。

 医者が「どうして生きているんだ?」と首を捻ったくらいだ。

 恋人の帳がいの一番に巻き込まれ、僕が守れなかった。だからあの事件は、あまり思い出したくない。

 実際、僕は多くの事件に巻き込まれたことがある。中には大勢が死んだ事件も、一回や二回じゃない。でも、事件を思い出したくないと思ったのは、今回が初めてだった。そういう意味では、僕も落ち込んでいる部類の人間なのだ。

「それを、少しでも明るくしたいって、先生も、実行委員会のみんなも思っていて、それで私にしてきて……」

 顔を伏して、手を組んで扇さんは話を進める。僕にチョコを渡す言い訳を話しているというより、ただ言葉があふれているという様子だった。

「相談……」

「そう、相談なんです」

 相談。それは、キーワードだ。

 彼女が動くための。

 あるいは、やつか。

「それにしては時期が変だね。クリスマスとかお正月とか、イベントなら他にもあったのに」

「それは、そういうこともありますよ」

 扇さんは頬を膨らませる。

「クリスマスやお正月は冬休み中じゃないですか。だから巡り巡って、バレンタインがちょうどよかったんです」

「ふうん。で、相談されたわけだ」

「はい。本当は、紫崎先輩が請け負うことなんですけど……」

「まあ、雪垣のやつは無理だろうな」

 紫崎雪垣。

 その名前が出たとき、扇さんは殊更に顔を伏せた。

 生徒会の相談役。やつはそう呼ばれていた。僕が高校生探偵なんて大仰な名前で呼ばれるのと同じくらい大仰な名前で、何か事件が起きると首を突っ込んだり、困りごとがあると解決して回ったりした。

 雪垣は僕と同じクラスで、今扇さんが座っている椅子が本来は雪垣のものだ。あいつは今、学校に来ていない。

 つまり、そういうことだ。

 僕は彼女から渡されたチョコを見る。紫色のラッピング。これは、本来なら雪垣のやつに渡すやつの、習作と言ったところだろう。

 いつの間にか逸れてしまった話の、二つ目の理由。それはまあ、習作が余って自分一人で処理できないとか、たぶんそういう理由だ。

「先輩、あの事件以来一度も学校に来てなくて」

 話は更に逸れた。僕にチョコを渡す言い訳をしていたつもりが、バレンタインに企画したというイベントの話を経由して、雪垣の話に移る。

「私、毎日家に行っているんですけど、一度も顔を見せてくれないんです。本当に、どうして…………」

「……………………」

 どうして?

 そりゃあ、まあ。

 あれだろうな。

 あの事件は、僕よりもひょっとするとあいつの方が思い出したくないからだろうな。

 自分の無能さがよく分かるから。

 生徒会の相談役なんてちゃんちゃら笑えるほど、自分が無能だと分かってしまったから。

 気づくのが遅すぎる。

「今日も、行くつもりなんです。でも、会ってくれるかどうか」

「それで、相談されたって話だったね」

 これ以上落ち込まれても、僕は帳以外の女子を励ます言葉を持ち合わせていないので、困る。だからわざと話を元へ戻した。

「相談に乗るのはやつの、雪垣の領分だ。それを君がするっていうのはどういう風の吹き回しだい?」

「別に、普通のことです」

 少しむくれて、扇さんが答える。

「私は上等高校のワトソンですよ!」

 そういえばそんな自称もあったな。僕が彼女から嫌われている理由の八割は、実のところ雪垣を押しやって僕が高校生探偵と呼ばれているからなのだった。彼女の中では雪垣こそが名探偵で、自分はそのサイドキックのつもりでいる。そういう子どもっぽいところがあるが、どうしてか彼女がそうするのを、僕はあまり笑えないし馬鹿にできないところがある。

 真剣に誰かを尊敬する人間は、馬鹿にできない。自分ができないことをしているから。

「紫崎先輩が落ち込んでいる今こそ、生徒会の相談役の名を維持するために私は動くんです! 別に風が吹こうが桶屋が儲かろうが関係ありません!」

「分かった分かった。じゃあ、雪垣の代わりに相談に答えて、バレンタインのイベント……? をするんだったね」

「そうです。そういう話でした」

「君が相談に答えたという形だったけど、主催は実行委員会なんだ」

「ええ。その方が動きやすいので」

 実行委員会は、上等高校における学校行事一般を取り仕切る委員会である。雪垣のやつも、扇さんも普段は実行委員会として活動をしている。

 あの文化祭の日も。

「具体的には何をするの?」

「みんなでチョコを作るんです。ああ、先輩にあげたチョコ、それが習作です」

「なるほど」

「チョコと言っても、オレンジピールの固めたのに溶かしたチョコをかけるような簡単なやつですけど。それでもみんなで作って食べたりしたら、ちょっとは気が晴れるかなあって」

 ふむ。それで気が晴れるかどうかは僕の知るところではない。でも少し気になるのは、僕にその話をしたことだ。

「なんでその話を僕に?」

「ああそうです。それが本題でした。正直先輩に義理チョコ渡すのはついででしたよ」

 僕の人生初をついでにしないでほしい。

「そのイベント、当然ですけど調理するんで調理実習室を使うんです」

「調理実習室ね」

 帳は三年生なので引退し後輩に席を譲っているけれど、元はグルメサイエンス部の部長だ。上等高校は私立なので異様に奇妙な名前の部活が多いが、グルメサイエンス部は要するに料理部である。恋人がいる関係で、僕もたまにグルメサイエンス部の活動領域である調理実習室には出入りしたりしていた。

「まさか使用許可取ってなかったとかじゃないだろうな」

「そんなわけないでしょう! ちゃんと部活グルサイの部長と顧問に許可貰ってますから!」

「じゃあ僕にする話って?」

「先輩は近づかないでください」

 そんな汚物みたいな。

「ちょっと待ってくれ。確かに僕は料理が苦手だ。調理実習のあった家庭科の成績は一だったし……。最近はカップ麺ひとつ作れないことが判明してちょっと落ち込んだりもしたけど、僕が近づいたらみんなの料理がまずくなるとかいう迷信でも信じてるのかい?」

「先輩だと実際にありそうですけどね、それ」

 いつかクッキーの型抜き手伝っただけでみんなが悶絶する味になったことはあったな。帳からは「レシピ通り作っているのにミミズの餌にもならない」と言われたっけ。

「そうじゃなくてですね。先輩に近づかれるとみんな委縮しちゃうんですよ」

「委縮? なんで?」

「文化祭の事件で落ち込んでいるみんなを勇気づけようって時に、その事件で一番暴れた当事者がいたら気が散るでしょうが!」

「一番暴れたの、僕でも犯人でもなく雪垣だったと思うんだけど」

「自分の体に灯油まいて火をつけた人が言いますか!!」

 そう言って、彼女は僕の頬、というよりそこをぐるぐる巻いている包帯を引っ張った。

 包帯。

 文化祭の事件の時、帳ほどじゃないけど、僕も怪我を負った。本当に、死にかけた帳に比べれば軽傷もいいところなのだけど。諸般の事情があり注意をひかないといけなくなった僕は、灯油を体に撒いて火をつけた。結果全身やけどである。

 包帯は外すタイミングを逃しているだけで、火傷はもう治ったんだけど。

「いてててっ」

「とにかく、そんなミイラごっこしてる人が近くで睨みをきかせてたらみんながリラックスできないんで、近づかないでください。万が一にも近づかれると困るので、忠告に来たんです」

「そういうことね」

 事情は理解した。

「それなら大丈夫だよ。帳が入院してから、あまり顔は出してないし。今日も別に行く用事はないから」

「ならいいんですけどね。先輩って神出鬼没なところがありますから釘は指しておくべきかと」

「さいで」

 バレンタインイベント、成功させるために必死だなあ。

「それじゃあ、伝えましたからね」

 言うだけ言って、扇さんは教室を後にした。残されたのは全身包帯男こと僕一人。

「………………なんか」

 実は扇さんに、言おうかと思って結局言わなかったことがある。

「なんか、嫌な予感がするんだよなあ」

 高校生探偵の嫌な予感ほど、気色の悪いものはない。

 だがこうもどうも、背筋に嫌なものがさわさわしている。

 こういうの、勘が告げるというやつだろうか。

「…………仕方ない」

 あの馬鹿のしりぬぐいはいつも僕の仕事だ。

 近づくなと言われた以上近づけないが、多少気にかけるくらいのことはしてもいいだろう。

 お返しはいらないと言われたが、チョコ、貰っちゃったし。

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