17 『綾里大好き一生愛してる綾里は私だけのもの私は綾里だけのもの』


 ゴキブリ騒ぎ(主に西原部長の一人騒ぎ)が収束してから、私と綾里は逃げるように中庭へと戻ってきた。

 最初こそ寂れていたここもだいぶ整備が進んで、見違えるほどにすっきりとした印象になった。


 私たちはその端っこに身をひそめるようにして屈みこんだ。


「あああれは一体、どどどどう思われますか姉さん!」

「落ち着きなさい。あと姉さんって何。せめてマイハニーとかにして」

「せめてのハードルたっかいですご主人様!」


 私はこんなにも取り乱しているというのに、綾里はすごく冷静だ。

 

「ことりが考えてることも分からなくはないけどさ、まずは別の可能性を考えようよ」

「何、例えば」


 私の問いかけに、綾里は人差し指をあごに添えて、「うーん」と考えるそぶりを見せた。


「古水先輩もゴキブリが怖かったとか」

「ないない。ゴキブリが怖くてあんな顔、あんな……なんて言えばいいのかな……とにかく、あれは紛れもなく部長さんに抱きつかれてキュンキュンドキドキしてた顔です」

「ちょっと、ここでそれを決めつけないでよ」

「はっ、つい! ごめん」


 先ほど見た光景を思い返す。

 古水先輩は、何か抱えきれない感情を抑え込むように自らの身体を抱きしめていた。入り口の私たちに気付いた古水先輩は、表に出たそれを目に見えて取り繕おうとしていた。

 でも、それもほんの少しの間のことだった。先輩はすぐにいつも通りの先輩に戻ったし、それ以降はおかしなことはなかった。


 しかし、綾里も確かに異変を感じ取っていたらしい。だからこうして緊急会議を開いているのだ。


「だいたいさ、部長って古水先輩に軽いスキンシップくらいはいつもとってない? それは涼しい顔して受け流したりあしらったりしてるじゃん」

「そういうのと正面から抱きつかれるのは全然違うよ、なんかこう、その人の全部を腕の中で感じるもん。胸がキューって締め付けられるのよ」

「ことりの“その人”って私のことでしょ?」

「ええ、まあ……」


 綾里が私の顔を下から覗き込んでくる。


「いつもそんなこと思いながら抱きしめててくれてたんだ?」

「ええっと……あの……」


 私が口ごもって、綾里がニヤニヤと嬉しそうに口元を緩める。

 

「ことりって、なんだかんだ言って私にほだされてるよね」


 「だって……」と口ごもると、すかさず綾里が距離を詰めてすり寄ってきて、ちょんちょんと私の膝を突っついた。


「ちょろいのはいいけど、私に対してだけにしてよね」

「そんなこと言われたって、綾里という恐ろしいバリアがついてるから」

「ことりの気持ちの問題です」


 そう言われて、私は何気なく天を仰いだ。青空と、遠くに入道雲。ステレオタイプな夏空が広がっていた。


「気持ちだって、綾里の手のひらの上だもんなあ」


 私がこぼした呟きに、綾里が口を真一文字に結んで頬を上気させる。

 横目で綾里を見て、


「綾里もさあ、ちょろいのはいいけど、私に対してだけにしてよね」


 と、まったく同じセリフを返してやった。

 綾里は不服そうに唇を尖らせて、ペシペシと膝を叩いてきた。


「もう、バカわんこ、もっと、ちゃんと、はっきりと言って」

「えー、何をさ」

「『綾里大好き一生愛してる綾里は私だけのもの私は綾里だけのもの』って」

「うわ、こわい」


 わざとらしく身を引いてみせると、綾里は叩く力を強めて「ばかばかばかばか」と何度も繰り返した。

 あはは、何この子、かわいいわあ。


「ひとつずつ整理しよう」


 人差し指を立て、私は半ば強引に話柄を戻した。


「まず、先輩たちが抱き合ってたのは間違いないよね?」

「うん、私もちゃんと見たもん」

「よしっ、それだけで妄想がはかどる」


 握りこぶしを作って言うと、綾里がさも『きもちわるい』とでも言いたげな視線をくれた。

 そんな蔑むような目で見ないでくださいよ。こんなの今更じゃないですか。


「よしっ、じゃないでしょ、バカじゃないの?」

「つ、次! それってやっぱりゴキブリのせいなのかな」

「そうだと思ったけど、違うの?」

「だってさ、部長さんが部室から飛び出してきたときの声聞いたでしょ? 仮に最初に抱きつく原因になったゴキブリを見た時も同じように叫んだとして、あんな大声あげてたら結構遠くまで聞こえそうなものだけど」

「確かに、実際に聞こえたのがあの一回だけってちょっと変かも」


 綾里が宙の一点を見つめ、こくりと頷く。私は何気なく、膝に乗った綾里の手に、自分の手を重ねた。


「でしょ? だから、私は考えたのです。ヤツが出たタイミングって、実は先輩たちが抱き合っていた時なのでは、と」

「なに、だったらどうして抱き合ってたわけ」

「そうしたかったからに決まってるでしょうが!」


 語気を強めて言うと、綾里はこれ見よがしにため息をついた。

 どうしてそんなに呆れ気味なんですか。


「私たちじゃあるまいし、部室なんかでそんなことしないでしょ」


 『私たちじゃあるまいし』って言っちゃったよこの人。


「そりゃ私はさ、毎秒ことりとそういうことしたいって思いながら生きてるから隙を見てしてるけど……普通しないでしょ」

「先輩たちも実はそうかもしれないよ」

「ないない。やっぱりその線はないって」


 ぐぬぬ、明確な根拠もなしに否定されてしまった。

 しかし確かに、あの古水先輩が一時の衝動に駆られて部室なんかでそんなことをするとは思えない。仮に部長さんの意思だったとしても、先輩ならいつものように軽くあしらいそうなものだ。

 そうなるとやはり、突発的な出来事だったと考えたほうが良いのか。


「まあヤツが出現したタイミングは置いといて、古水先輩のあの顔だよ、綾里も気づいたんでしょ?」

「うん、あんなの初めて見た。雰囲気がいつもと違ってちょっと可愛かったよね」


 綾里の言葉に、私はつい声を喉に詰まらせた。ムッとした感情が喉の奥から湧き上がってくる。

 澄ました顔をする綾里の横顔を、無言でじっと見つめる。私の視線に気づいた綾里が、きょとんとした顔を向けてきた。


「どうしたの?」

「わかんない」


 意識せずとげのある口調になった。それを誤魔化すように、綾里から目を逸らした。

 うううう、なんかモヤモヤする! 別に嫉妬とかじゃないけど! 断じて!


 綾里が「ああ」と何か気づいたような声を漏らし、ニヤリとする。そして、顔を限界まで寄せてくる。


「さっきの古水先輩、すっごく可愛かったなあ」


 わざとらしく媚びた声音が、私の体内を這いまわって負の感情を掻き立てるようだった。

 

「私、古水先輩にちょっとドキッとしちゃったかも」

「それだけはダメ!」


 咄嗟に声をあげて、綾里の手を引っ張る。なんだかよく分からないまま泣きそうになって、私は綾里の手を掴んだまま、うずくまるように背中を丸めた。


「いじわる! 冗談でもひどいよ!」


 くそー、やり方が汚いぞ! どうして私がこんな気持ちを味わわなきゃいけないんだ!


「ふふふっ、ことりちゃんは反応が正直ですねー」

「うるせえ」

「もー、可愛い顔してお口が悪いんだから」


 綾里が反対の手で頭を撫でてくる。


「私がそういう意味で可愛いって思うのは絶対ことりに対してだけなんだから、安心していいよ」

「別にそういうんじゃないし」

「ああ、ことり可愛すぎ。もっといじめたくなっちゃう」


 こいつはほんと……。

 はあもう、認めますよ! 綾里が私以外の女の子のことを可愛いと言ったのが気に食わなかったんですよ!

 ああああ、私の脳みそに一体何が起こっているんだああああ!


「よし、話を戻そう」

「あ、いきなり復活した」


 顔をあげた私を見て、綾里は口を覆ってクスクスと笑った。


「何にせよ、先輩があんなことになってたってことは、そういうことでしょ」

「他の可能性も思い浮かばないしねえ」

「あれは間違いなく恋する乙女の顔でした!」

「だとしたら、部長の方はどうなんだろうね」


 そう言われて、私は以前、ちょうどこの場所で部長さんとふたりきりになった時のことを思い出した。

 『元気の源は楓ちゃんだ』と言った部長さんは、先輩のことを本当に大事に思っているという感じだったけど、それは恋とか、そういう類のものではなかった気がする。


「せ、先輩はそれがわかっていて、感情を隠してるんだ。言い出せないんだ……」


 私は両手で顔を覆って、演技っぽく泣き真似をした。しかしすぐに首をもたげ、言葉を続ける。


「でも部長だって、その気持ちが恋になる可能性だってあるし! むしろ既にそうで気づいてないだけかもしれないし!」

「ちょっと一人で話を進めないでよ。まあ大体は読み取れるからいいけど」


 苦笑する綾里に、私は握りこぶしを作ってみせた。


「私、先輩を全力で応援します!」


 すると、綾里は顔をしかめて心底めんどくさそうな表情をした。


「えー、放っておこうよ、余計なお世話だよ。それに私はことりに構うので忙しいの」

「私一人で応援するので結構です」

「ヤダ、万が一のことがあったらいけないからそばで監視します」

「万が一にもそんなことないってば」


 私が言いきると、綾里はポカンとして「ふーん」とこぼした。


「ことり、本当に古水先輩のこと、好きでも何でもなくなったんだね」

「前にもそう言ったじゃん」

「そっか。ヤキモチもやいてくれるし、あとはことりに告白してもらうだけだね」

「なに確信したみたいに言ってるの。絶対しないから! あとそもそも綾里のことなんて好きじゃないし! さっきのもヤキモチとかじゃないし!」


 ブンブンと首を振って否定すると、綾里は頬をピクリとさせて、私の顔に手を伸ばしてきた。そして、頬をつねられた。


「なあに? 私のことなんて、何? 何て言ったの? おかしいなあ、私の可愛いわんこがそんなこと言うわけないのになあ。おかしな言葉が聞こえたなあ。ねえ、何て言ったの? もう一回言ってみて」


 目が怖い目が怖い目が怖い! あとほっぺためっちゃ痛い!


「あや、綾里大好き!」

「やっぱり主体的な発言じゃないと心に響かない」


 綾里が不満そうに頬を膨らませる。

 どうしろと!


「まあ、無理やり言わされてることりもこれはこれで可愛いからいいや」


 ははは、素敵なご趣味をお持ちで。

 すぐに私の頬を無事に解放してくれた。そして、ひりひりする頬を手のひらで優しくさすってくれた。

 あああ、ご主人しゃまああ……。


 こうして、第n回部長×先輩会議は幕を閉じたのだった。

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