4 ご主人様は私だもん


「ことりー。ことりのおかげで数学も結構できたかも!」


 最後の試験が終了して、綾里が私の席までトコトコと駆けてきた。

 おやまあ、こんなところに無邪気な天使がいらっしゃる、ははは。きっと裏表のない清純な心をしているんだろうなあ、ははは。


「ほんと? それは良かった、頑張ってたもんね」

「えへへ、点数が良かったらたくさん褒めてね」


 わあー、それでもし悪かったらどうなるんだろう、こわいなー。八つ当たりに命令連発してこないだろうな。考えただけで恐ろしい。

 綾里がニコニコしたまま、椅子に座る私のすぐ横にしゃがんだ。太ももに両腕を乗っけて、首をかしげるようにして見上げてきた。


「午後から一緒に部活だね。ずーっと夢見てたから、楽しみ」

「そんな大げさな」

「大げさじゃないよ。そうじゃないと、あんなに何回も誘わないもん」


 ふむ、それもそうか。本当に、何度も何度も熱心に誘ってくれていたものだ。

 まあ、色々あってからは一瞬で入部することになったけど。いや、入部させられる、と言った方が正しいか。

 あくまで不本意なのだと、声を大にして主張しようじゃないか!

 このご主人様には口がさけても言えませんがね。


 それに、綾里の心底嬉しそうな顔を見ていると、全然悪い気も起こらないというものだ。

 

 でも不安だよお……胃が痛いよお……。

 実は古水先輩と面と向かって会うのも初めてなもので、テンパってボロが出ないか心配だ。綾里は「私がついてるから大丈夫」だなんて言うが、本当に大丈夫だろうか。


「ねえ綾里、先輩ってどんな人?」

「んー? なに、ことり不安そうだね」

 

 綾里が私の太ももの上で、腕をゴロゴロと転がしながら言う。


「そうだなあ、少なくとも、ことりが妄想してるようなことをしたり言ったりする人じゃないと思う」

「う、うるさいな……」


 そんなこと、私が一番わかってます……。 

 何度も言うようだが、ノートの中の先輩は、私の脳内で作られたフィクションなのだから。


 綾里が今度は太ももに両肘をたて、頬杖をついた。上目遣いに私をじっと見つめて口を開く。


「どうしてそんなこと訊くの?」

「心構えが必要かなって。普段の先輩がどんな人か、ほどんど知らないし」

「もしイメージと違ったら……ことりは先輩のこと、好きじゃなくなったりする?」

「うーん、はっきりとしたことは言えないけど……でも、好きなままなんじゃないかな。今の私には、どんな先輩でも輝いて見えると思うよ」


 すると、綾里は「ふーん」と言って唇をとがらせた。

 おや、何か気に障ることでもあったかな? 綾里のこの仕草は、何かしらの不満を感じている時のクセだ。

 綾里の表情をうかがいつつ、


「あのー、どうしてご機嫌が優れないのでしょうか……」


 恐る恐る問いかける。綾里は子どもっぽく、ぷいとそっぽを向いてしまった。

 あらあら、どうしましょう。ご主人様がご機嫌ななめでございます。


 まあ、おそらくヤキモチだろうけど。普通の友人同士だったときから、綾里はかなりヤキモチ焼きだった。

 以前ならば、子供だなあ可愛いなあ、なんて思っていたけど、今となってはただただ恐ろしい。

 というか、私を部活に誘ったのは他でもない綾里で、先輩のことも知っているのに……なんてわがままなご主人様なんだ。


 不意に、綾里が私の太ももに顔をうずめたかと思うと、顔をすりすりと動かしてきた。


「『琴莉の太もも、柔らかくて落ち着くなあ』なんて言う人じゃないと思う!」

「ちょ、大声でやめてよ、ここ教室だから!」


 慌てて制止して、綾里のほっぺたを軽く引っ張る。

 なんてことをしやがりますかこの小悪魔は! 肝が冷えるよまったくもう。


「むー、近くに人いないもん」

「いなくても聞かれるかもしれないでしょ」

「ふんだ、いいもん。ご主人様は私だもん。ことりは私のわん……所有物だもん」


 どうしてそこを言い換えたんだ。

 しかも、わんこから所有物って、なんとなくさらに格下げされているのは気のせいかな……?

 それは私の自由意志が無に等しくなったということかな?

 こうなったらささやかな反抗だ!


「もんもんもんもんやかましい」


 綾里のぷにぷにほっぺをビヨンビヨン引っ張って言うと、その手をはたかれた。

 あっ、ヤバい、綾里のまとうオーラに冷気を感じる。


 とりあえず、なだめるために綾里の頭に手を置いてみた。しずまれー邪気よ鎮まれー。


「心配しなくても、綾里のこともちゃんと見てるから」

「当たり前でしょ、ご主人様を見なくてどうするの」


 ぐっ、こいつ……まさかただ単純に、自分のペットが他の人を気にしてるのが気に食わないだけなんじゃないだろうな。十分にあり得るし、そうだとしたらヤキモチとはちょっと違うな、うん。

 でも少し、綾里の声に安堵のようなものが滲んでいて、それを聞くと私も安心した。

 ふっ、ちょろいなこの小悪魔。


「ね、頭なでなでして」


 綾里が甘えた声で言う。

 私は「うん」と返事をしてから、頭に乗せていた手をゆっくりと動かした。

 




 綾里と共に、園芸部の部室にやってきた。

 部室は小さなプレハブ小屋で、その六倍くらい広そうな温室がすぐそばに建っていた。校舎裏の敷地の端に位置していて、すごく静かだ。


 部室の目の前で、綾里が私に顔を向けてニヤリとした。


「緊張してるなら、手、繋いで入ろっか? 落ち着くよ」

「なっ、めっ、命令……?」


 何を考えているんだ……。

 ただでさえ古水先輩のことで緊張しているのに、手を繋いで入るとか……このご主人様ほんと怖い!

 この子、私が恋愛として先輩を好きなことを把握している上で言ってるんだもん!


「なあに、そんなに動揺して。仲良しは手を繋ぐんだよ。私とことりはすーっごく仲良しだもん。もう何度も手繋いでるし、何も変じゃないよね?」


 あっ、この目はすでに綾里の中で決定事項になっている目だ。にこやかなのに威圧感がすごい! どうやるのそれ、今度やり方教えてください。

 まあ、普通に手を繋ぐくらいなら、変な勘違いをされることもないだろう。


 私は心の中で決心をして、若干気後れしつつも頷いた。


「うん……変じゃない」

「よろしい。じゃあ、はい。私の手あげる」


 綾里が私に手を差し出した。その手をそっと包み込む。

 すると、綾里は一瞬だけ嬉しそうに顔を緩ませて、すぐに目を細めて挑発的に見つめてきた。


「今日は恋人繋ぎしてくれないの?」

「し、しません」


 即答して、どうか命令してきませんように!、と心の中で何度も祈った。

 綾里は悪戯いたずらっぽい視線を向けてくるだけで、それ以上は何も言ってこなかった。


 綾里が先に部室のドアを開けて中に入った。私も綾里に続いて、オドオドしながら入室した。

 正直、手を繋いでいてよかったと思った。綾里の手のぬくもりを感じていると、不思議な安心感があった。


 部屋の中を見回してみるが……誰もいない。

 拍子抜けして、全身の力が抜けた。

 綾里が私の手をきゅっと握り締めて可笑しそうに笑う。


「えへへ、誰もいなかったね」

「もう、緊張して損したよ。まだ誰も来てないんだ」

「カギはかかってなかったし、ほら、椅子にカバンが置いてあるよ。どこかに行ってるだけみたい」

 

 綾里の視線を追うと、壁際に寄せられた椅子の上に、誰かの通学用カバンが置かれていた。

 もしかして古水先輩の……?



 部屋の中央のテーブルについて、私と綾里はお昼ご飯を食べ始めた。

 うーん……綾里が一緒とはいえ、なんだか気が引けるなあ。


 慣れない部室にどことない居心地の悪さを感じていると、すぐ隣に座る綾里が、箸でつまんだ唐揚げを私に差し向けてきた。

 その、明らかに半分噛み切られた唐揚げを見て、思わずポカンとしてしまった。


 あはは、やだご主人様ったら、明らかに食べかけじゃないですかー、意味わかんなーい。


「わーんこ、お食べ。あーん」


 言われるままに口を開けてそれを食べる。意味が分からなくても素早い行動を心掛ける、私ってえらい。


 そして、努めて、食べかけがどうこう、だとか! 綾里が口につけた箸がどうこう、だとか! そういう思考は頭から排除するのですよ。余計なことは考えたらいけません。

 落ち着け私、静謐せいひつな心でいるのです。


「ん、唐揚げだ」


 そんな思考の末に出た私のしょうもない感想に、綾里がずいと詰め寄ってきた。


「私が作ったんだけど。唐揚げが、何、どうしたの?」


 はあああ、私としたことが! そういえば綾里はいつも自分でお弁当を作っているんだった! 

 圧がすごい! とにかく綾里からの圧がすごい!


「おいしいね! 毎日食べたい!」

「ありがとう。……他には?」


 ほ、他だと……。他になにか……。はっ、まさか排除したはずの思考について触れろと? 

 何と言うのが正解なんだ、何と……綾里の……綾里の味が……。


「綾里のだえっ――」


 発言の途中で、綾里の手のひらが、小気味いい音とともに私の側頭部を叩いた。

 綾里は目を丸くして、顔を真っ赤に染め上げていた。


「今何を言おうとしたの、このヘンタイ! バカわんこ!」

「……き、の味が……あんまりわからなかった」

「当たり前でしょ、ばか!」


 うう、ほんとにバカバカ私の思考回路! こんなところでこじらせを発揮しなくていいのに!

 

 その時、部室のドアが開いて誰かが入ってきた。


「あははっ、なんだ喧嘩かあ? 仲良くしろよー……って誰だ君は!」


 私の目は、そう言って驚きの視線を向けてくるその人よりも、その人の後ろに続いて静かに入ってきた人にくぎ付けになった。


 こんなに近くに、あの人がいる。頭の中でずっと恋をしていたあの人がいる。


 息詰まる意識の中で、古水先輩の姿はこれまでにないほど輝いて見えた。

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