幕間 初版未公開手記より

赤い名前の子供たち(前)

 一二七七年にこの原稿を見つけた時、正直処分するか迷った。これは、タミーラクから数回に分けて聞いた、彼の体験を自分用にまとめたものだ。

 彼が恵まれた生まれ育ちであること、贄として幸運な身の上であろうことは以前にも述べた。けれど、それは一面的な事実に過ぎない。


 彼の幸福は常に〝食材として飼育される〟ことを前提としていたからだ。

 また、これを公開することは、おそらく当時のトルバシド家の人々に不名誉を負わせることになるだろうし、それを彼らが許すとも思えない。

 だがまあ、せめて保管はしておこう。いつか何かの資料になるかもしれないから。



 編者はこの原稿とイオの但し書きを見つけた時、迷いながらも初回出版時には掲載しない措置を取った。考えが変わったのは、本書の出版後、さまざまな反響を受けてからである。イオはここに書かれた人々の名誉を気にしてはいたが、一三五〇年代の今となっては、名前が挙がっている人物は全員死没している。


 彼が資料的価値をかんがみて保管していた通り、この記録は「ザデュイラルにおける贄候補がどのように遇されるか」という一つの貴重なサンプルだ。

 これはトルバシド侯爵家コガトラーサの場合である。他の貴族や平民、有力市民であれば、また事情も異なるだろうが、その多くは家庭内で秘されて、表に出ることがない。イオがこの話をまとめていたのは学術的な僥倖ぎょうこうであった。


 近年の研究などから、貴族の贄候補は基本的に兄弟たちと変わらない扱いを受けることが分かっている。むろん、様々な生け贄スタンザの印をつけられながらだが。

 贄を獣のように檻に入れて育てる例もあるが、それは主に下層階級の場合だ。のびのびと大切に育てられてこそ、殺して食らう価値があると考えられている。



――「最初の茶話会で、俺がニマーハーガンの祝いに自分のウェロウを食べた話したろ? 友達を食べたから自分も食べられるんだって思ったから、俺は贄になることを納得した。だけど、おかしいなって気持ちはあったんだ。それが言い出せなくて、でも我慢できなくなったのは、三番目の兄上が死んだ時だった」


 タンタサリッサ=・コガトラーサ。同じ赤い名前を持つ兄は、タミーラクの五つ年上。そして、コガトラーサ家の元・贄候補だ。

 タミーラクが生まれる前、兄は高熱で死にかけ、一命はとりとめたが半身不随になってしまった。そのため、贄となる資格を失ったのである。


 以後、彼は車椅子で生活し、部屋から出てこなくなった。引きこもっていたと言うよりは、閉じこめられていたと表現した方が適切だろう。

 ハジッシピユイはタンタサリッサを見るたび、「この食べ残しブロシテムのクズめ! 私の前に出てくるな、恥知らずが!」と罵り、物を投げつけていたのだから。


 いつも父に怯え、隠れるようにして生きてきた兄とは、食卓を共にすることすらなかった。それでも、突然の死はショックだったものだ。

 タミーラクがニマーハーガンの祝いを迎えて数ヶ月後、タンタサリッサは自室で転倒し、頭を打って十四年の短い生涯を終えた。


 それは本当に事故だったのか? ハジッシピユイに問いただす勇気を、関係者は誰も持ち合わせていない。あるいは、ないのは関心かもしれないが。

 タミーラクが初めて中つ宮ユインデルキャルスに入り、【肉】の解体と調理を手伝ったのは兄の葬儀だ。泣きながら、吐きながら、父に手を添えられて刃物を握り、腹を開いた。


「タミラよ、この【肉】はお前自身だと思って行いなさい。いい加減なやり方で、汚く体を切られてはたまらないだろう?」


 ハジッシピユイは優しく、愛おしげに言いながら教えたものだ。


「我が家の贄候補はお前なのだから。タンタサリッサの分まで、立派にやり遂げるのだ。その日まで、私が最高の状態に育ててやろう……愛しているぞ、タミラ」


 ハジッシピユイとザミアラガンらの調理した兄が並ぶ葬儀の席。よりにもよって、親戚たちが集ったその場でタミーラクは泣き出した。贄になるのは嫌だ、と。


――「あの時は、なんて言ったんだったかな。父上も母上も兄上たちも姉上も、みんな自分の友達を食って大きくなった、なのにこの家で食われなきゃいけないのは俺だけだ。みんなは食う方、俺は食われる方。不公平だー、ってさ、正餐語も使わずに」


 最初、ハジッシピユイは正餐語でやわらかく息子を諭そうとした。


『タミラ、それがお前の役目だからだよ。お前は陛下の贄になるために生まれてきたのだ。コガトラーサは三十四年に一度……』

「やだ! どうして!?」


 がんぜない息子に、父はため息をついた。手で話すのをやめ、口を開く。


「こっちへ来なさい」


 ハジッシピユイが途中で食卓を立つことは滅多にない。その上で、彼は乱暴に息子の腕をつかんだ。これまでタミーラクは、そんな風に扱われた試しがない。

 ウェロウの一件を別にすれば、ハジッシピユイは末の息子をいつも優しく甘やかしていたのだ。兄たちと違って、一度だって殴られたこともなかったのに。

 そのままなすすべなく、食堂から連れ出された。


「私の言うことが分かるまで、地下で反省するがよい」

「地下? どこに行くんですか、父上」


 説明はなかった。これがただの脅しなら、ハジッシピユイは事細かにそれが何かを説明しただろう。それも食堂にいる内に、親戚たちの前で。

 だがそうしなかったのならば、もうタミーラクを地下へ連れていくことは、父の中で決定済みということだった。助けを求めて振り返った先、食堂の大扉が開く。


「待ってください、あなた!」


 母が止めに入った。いつになく青ざめた表情が、より事の深刻さを物語る。


「本当にあんな場所へお連れになる気ですか? 仮にもあなたや私、トルバシド侯爵家の血を引く子ですよ!」

「食事中だぞターマ、戻りなさい。この子がタンタのようににならないなら、お前にはもう一人産んでもらわねばならんのだ」


 母が青ざめて訴える〝あんな場所〟という言葉に、みるみる恐怖が募った。


「健やかであるために、食事は不可欠だ。私は少し用事があるから、気にせず食べていなさい。タンタとは、これが最後なのだからな」


 ハジッシピユイの意思は断固として変わらない。母はあきらめたように眼を伏せて、タミーラクに背を向けた。母上と呼ぶ声も、食堂へ消える彼女には届かない。

 だが、幼いタミーラクにも分かっていた。父から助けてくれる人は誰もいないと。


 トルバシド侯爵家当主にして宮廷料理長にして父であり夫であり、社会的にも、精神的にも、腕力においてさえ、彼はこの家を支配する頂点なのだから。

 その威は海や山のように、太陽のように、コガトラーサの全員にとって絶対だ。

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