サイドストーリー その2

「中田先生!」


 俺は職員室に駆け込んで、彼女の名前を呼んだ。


「どうしたの? 細野君?」


 彼女が俺に振り向く。


「ちょっと、話があるんですけど……来てもらえませんか?」


「え、うん……いいけど……」


---


 技術室の裏。普段は誰も来ない、この場所。俺は彼女をそこに連れて行った。


 その時点で、彼女も何が起こるのか、大体見当がついていたようだ。


 しかし、人気のないところで男女が二人きりになる、という状況は、普通に考えれば女にとってリスクになる。それなのに、彼女はここまで俺についてきた。

 これは決して脈アリということを意味しているわけではない。いざとなれば、彼女は俺を余裕で叩きのめすことが出来る。なんといっても、彼女は合気道の達人なのだ。そして俺は武道はズブの素人。だから、そもそもそういうリスクはかなり低い。むしろ、俺の方に無事では済まないリスクが……いや、そんなことはどうでもいい。俺は覚悟を決める。


「先生……俺、先生が好きです! 付き合って下さい! お願いします!」


 そう言って俺は、90度、上半身を折り曲げる。


「はぁ……」


 彼女は、大げさにため息をついた。


「細野君」


「はい」俺は上半身を戻す。


「私に、お付き合いしている男性がいる、っていう可能性……考えたことはないの?」


「……!」


 しまった……その可能性は……全然考えていなかった……


 そうだよな……先生、かわいいから……きっとモテるよな……彼氏だって、いても……おかしくないよな……


「いい? こういう場合、まずはね、そう言った類いの質問からするべきよ。わかった?」


 いきなり説教されちまった。やっぱ、この人、先生なんだ。


「あ、はい……で、先生……そういう男の人、いるんですか?」


「……どっちだと思う?」


「やっぱ……いる……んじゃないんですか?」


 先生は小さくため息をついた。


「昔はね。今は……いないわ」


「え、ホントですか!」思わず俺のテンションが上がる。


「ええ。私、騙されたんだよね……」先生は遠い目になった。「結婚しよう、なんて言われてさ。指輪も買ってもらったりして。すごく嬉しかった。だけどさ……その人、奥さんがいたのよ」


「ええっ!」


「私、知らず知らずに不倫してたんだよね。そしたら、その奥さんの弁護士、とか言う人が来てさ……慰謝料出せ、なんて言うわけ」


「な、なんで?」


「その奥さんは私に旦那さんを奪われたわけだから、私から精神的な苦痛を受けた、ってことになるのよ。だから慰謝料が請求出来る。でも、おかしな話でしょ? 私、奪うつもりなんか全然なかった。もしその人が結婚してるって知ってたらさ、私、そもそも付き合ったりしなかったわよ。それで私、その弁護士の人にそう言ったんだ。そしたら、その証拠がありますか、って言われてね」


「証拠……あったんですか?」


「ええ。その旦那さんが私に送ったメールが残ってて、それが、結婚していることを彼が隠してた、っていう証拠になってね。慰謝料払わなくても良くなった。むしろ、私から旦那さんに慰謝料が請求できる、って言われた。下手すれば結婚詐欺として旦那さんを訴えることも出来る、とまでね」


「……」


 なんつーか、大人の世界って、よくわかんないな……


「でも、私、気が抜けちゃってね。もういいかな、って。もうあんな最低男、顔も見たくなかったし。だから慰謝料も請求しなかったし、訴えもしなかった。でも……それ以来、ちょっと男性不信になっちゃってさ。なかなか彼氏を作る気に……なれないのよね」


「……」


 これは、遠回しなお断り……か……?


「ごめん。君らの年代には、ちょっと難しい話だったかもね。でもね、これだけは覚えておいて」


「はあ」


「二股をかける男は、最低よ。君も絶対やらないでね」


 ……先生の声が低い。目が怖い。


「はい……俺は、絶対二股はしません。俺は先生一筋ですから」


「ふふっ」いきなり先生が笑い出した。


「君、ほんとにこんなおばさんがいいの?」


「おばさん? 俺、先生のこと、おばさんだなんて思ったこと、一度もないですよ?」


「あのねえ」彼女はすっかり呆れ顔になっていた。「私と君、何歳離れてると思ってるの? ちょうど干支一回り違うんだよ? ちょっと……厳しいと思わない?」


「それくらいの年の差カップル、普通ですって!」


「普通? ほんとに?」


「ええ!」


「……」彼女は肩をすくめた。「あのさ、細野君」


「はい」


「今の自分の気持ち、あんまり信用しない方がいいわよ」


「え?」


「十代の恋愛なんてね、いつ気が変わってもおかしくないんだから。それくらい不安定なものなの」


「そんなことないですよ! 俺、1年の時からずっと、先生のこと好きだったんですから! その気持ちは全然変わってません!」


「ありがと」先生が笑った。「それじゃ、そうね……君が大学を卒業する8年後、それまで、君の気持ちが変わってなくて、私がフリーだったら……その時、また今みたいに告白してくれる? そしたら……考えてあげなくもないわよ?」


「え……8年後……ですか?」


「ええ。それまでは、いわゆるお付き合いはしない、ってことでね」


「……やっぱ、そうなんですね……」


 俺はがっくりとうなだれる。


「君の気持ちが本物だったら、きっと大丈夫よ。あ、でも言っとくけど、8年後、私は34歳だからね。今よりもずっと、おばさんになってるよ」


 う……


「だ、だいじょぶっす!」


「ふふふっ。8年後を期待しないで待ってるね。君も期待しないで待ってなさい。それじゃね」


 そう言い残して、先生はそのまま玄関の方に戻っていった。


 ……。


 俺はただ、呆然と、その場に立ち尽くしていた。


 これは、どっちなんだ……俺、フラれたのか?


 ま、でも、今すぐ付き合うことは出来ない、ってことだよな……それだけは、間違いない。


 ってことは……


 やっぱ、ダメだったか……


 いつしか、俺の視界が涙で滲み始めた。

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