33

 どうやら高科さんは、今ちょうど練習しているショパンの24の前奏曲の中から、有名そうな曲をピックアップして演奏しているようだった。続いて彼女が弾き始めたのは、第15番。この曲集の中で一番長く、たぶん一番有名な曲だ。そして、この曲には別名がついている。


 「雨だれ」。


 もの悲しいメロディ。曲全体を通じて流れる、断続的な雨だれの音。


 ぼくの目に、涙が浮かぶ。


 彼女に別れを告げられて、雨に濡れながら家に帰った、あの日のことを思い出す。


 あの時、ぼくは絶望のどん底だった。でも……


 たぶんあの時、彼女はぼくよりもずっと苦しんでいたのかもしれない。それこそ、倒れるくらいに。


 だけど彼女はそれを乗り越えた。今まで彼女の演奏で、ここまで心を揺さぶられたことがあっただろうか。やっぱり、彼女の演奏は変わった。成長したんだ。


「ね、知ってる?」瀬川さんだった。「『雨だれ』ってね、ショパンの恋人のジョルジュ・サンドが、雨が降る中買物に出たんだけどなかなか帰ってこなくて、ショパンが彼女のことを心配しながら作曲したんだって」


「へぇ……」


 知らなかった。そんなロマンチックな裏話があったんだ……


 拍手が終わる。この後は、時間的にも彼女の最後の曲だ。


 ふいに、高科さんの顔が引き締まる。この顔、どこかで見たことある。そうだ、まだ付き合う前、彼女の部屋で……あの時、彼女が弾いたのは……


 重々しく、おどろおどろしい冒頭部が始まる。


 そう。


 「スカルボ」だ! あの時は失敗してたのに……弾けるようになったのか?


 ぼくはドキドキしながら、耳を傾けた。


 冒頭部から一転、目にもとまらぬ速さで彼女の両手が鍵盤を右へ左へと跳ね回る。右手と左手が何度も交差する。最初の山場を経て冒頭部のメロディに戻り、再び演奏が盛り上がっていく。そして怒濤どとうのクライマックスを迎えた後、やや唐突に、あっけなく終わるラスト。

 

 すごかった。


 鬼気迫る演奏とはこのことだ。しかもぼくが聞く限り、ノーミスだった。


 しばらく会場は放心状態だったが、誰かが拍手を始めた瞬間、割れんばかりの大拍手が巻き起こった。


---


「それじゃ、私はちょっとヤボ用があるから。三人とも、気をつけて帰ってね」


 そう言って、ロビーから中田先生は会場の方に戻っていく。


「瑞貴、すごく良かったよ。『野ばらに』演ってくれて、嬉しかった」


 瀬川さんがニコニコ顔で、私服に戻った高科さんに言う。


「ありがとう、美玖ちゃん」高科さんも嬉しそうだ。


「さあて、私は一人で帰るね。お父さんの車、もう来てるみたいだし。後はお二人さんでごゆっくりどうぞ。じゃあね」


 そう言ってウインクして手を振ると、瀬川さんは玄関に向かって歩いて行った。


 ロビーには、ぼくと高科さんだけが取り残される。他の発表者たちはもうみな解散していた。会場にも誰もいなかった。


「高科さん」


「なに?」彼女がぼくを振り返る。


「『スカルボ』、すごかったよ。完璧じゃないか」


「完璧じゃないよ」彼女が顔を曇らせる。「2カ所、ちょっとトチっちゃった」


「え……ホントに?」ぼくは驚愕する。「全然気づかなかったよ」


「だったとしたら、とりあえずは成功……だったかな? 『スカルボ』を聴き込んでいる翔太君がそう言うんだったら」高科さんは少し笑顔になる。「でも、まだまだわたしも練習が必要だね」


 ……。


 ぼくは言葉を失う。確かに、あれからぼくも動画サイトで「スカルボ」の演奏をいくつも聴いてるけど、はっきり言って、プロでも明らかにミスタッチしているのがわかるものがたくさんある。それくらい難しい曲なのだ。高科さんの今日の演奏は、それらよりも遥かに上手いと思う。


 それなのに彼女は、さらに完璧を目指そうというのか……


 "一番のライバルは、ピアノなのよ。太刀打ちできる相手かしら?"


 中田先生の言葉が、あらためて胸によみがえる。先生の言うとおり、ピアノはかなりの強敵だ。まともに正面から戦うのであれば。


 だけど、それをやってしまったら、たぶん川村先生の言う「女の成長を妨げる愛し方」になるような……そんな気がする。


 彼女に「ぼくとピアノのどっちが大切なの?」と聞いたら、おそらく彼女は躊躇なく「ピアノ」と答えるだろう。

 それでいい。それでこそ高科さんだ。そういう、ピアノが大好きな彼女のことが、ぼくは大好きなんだ。


「あ……」ロビーの時計を見た高科さんが言う。「もうこんな時間……そろそろお母さんが迎えに来ることになってるから……よかったら、一緒に車で帰らない?」


「え、いいの?」


「いいって。当然だよ。だって……わたしの彼氏なんだもの……」


 恥ずかしそうに、高科さんが言う。


 うおおお!


 久々に胸キュンモード、発動!


「あ、そうだ」何かを思いついたように、彼女が言う。「宿題の答え合わせ、してなかったね。どう、曲名、わかった?」


「ああ。わかったよ」


 ぼくは周りを見回す。近くには誰もいない。ぼくは言った。


「I'll Keep Loving You……だね」


「正解です。良く出来ました」高科さんが、満面の笑みになる。「日本語で言うと?」


「えー、言うの……?」


「もちろん」


 ぼくは、しぶしぶ、という様子で、口に出す。


「わたしはあなたを愛し続けるだろう」


 "それが、今の……わたしの気持ちだから"


 彼女の言葉が、脳裏によみがえる。


「翔太君は、どうなの? わたしのこと、どう思ってるの?」


 言いながら、彼女は熱を帯びた目で、ぼくを見つめる。いつの間にか、彼女はぼくの目の前にいた。


「もちろん、同じ気持ちだよ。これからもぼくは、高科さんを……」


「ね、翔太君」そこで彼女がぼくの言葉を遮る。


「その、高科さん、っていうの、やめてほしいんだけど」


「え?」


「瑞貴、って呼んでほしい。美玖ちゃんみたいに……」


 そう言って、高科さん……いや、瑞貴が、頬を染める。


「わかったよ……瑞貴……」


 ふわりと柔らかく、瑞貴が笑った。


 やばい。胸キュンモードが暴走して、キュン死しそう。もうダメだ。


 とうとう、ぼくは彼女を抱きしめてしまう。


「きゃっ……」


 小さく悲鳴を上げたけど、瑞貴は嫌がる様子を見せず、逆にぼくの背中に手を回して、ぼくを抱き返した。


 あったかい……それに、とてもいい匂いだ……


「これからも、ずっとずっと、よろしくね、翔太君」


 ぼくの胸の中に横顔をうずめて、瑞貴が言った。


 ―― Fine ――

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