27

 その夜。


 ぼくは自分のベッドに寝転がって、瀬川さんの言葉を反すうしていた。


 "瑞貴はね、今、何かすごく辛いんだと思う"


 ……。


 一体、彼女は何が辛いんだろう。


 ぼくと、別れたこと?


 いや、それで辛い思いをするくらいなら、そもそも別れなくても良かったはずだ。ぼくもそんなこと全然望んでないんだし。


 だとすれば、彼女は何か別なことで悩んでいるんだろうか。


 それは一体、何なんだろう。


 でも、思い返してみても、ぼくと一緒にいるときに、彼女が辛そうな顔をしたのを見たことはなかった。いつだって彼女は楽しそうだった。そりゃ、最初の内は無表情に毛が生えた程度だったけど……


 うーん。全然わからない。だけど本人に聞いたところで、教えてくれるとも思えないし……


 とりあえず、瀬川さんの言うとおり、高科さんのことは遠くから見守るような感じでいるのが、今は一番いいのかもしれない。


---


 それ以来、ぼくはまた、高科さんの事を気にするようになった。と言っても、教室や廊下ですれ違っても、軽く会釈するだけで、彼女はいつも無表情。


 だけど。


 なんとなくぼくは、彼女の顔色がだんだん悪くなっているような気がしていた。顔もちょっと、やつれてきているような……


 まさか。


 高科さん、何か重い病気なのか? それが彼女の悩みの原因なのか?


 でも……ぼくと付き合っていた頃は、あんなに元気だったのに……


 いや、今でも元気なのは間違いない。音楽室で彼女が弾いているピアノの音色は、とてもエネルギッシュだ。病人とは思えない。


 だけど……心配だ。疲れているだけ、とかならいいんだけど…… 


 なんだか、嫌な予感がしてならない。


 そして。


 その予感が的中する瞬間は、唐突にやってきた。


---


 その日は水曜日。ぼくは部活で技術室にいた。


 真上の音楽室から、高科さんの弾くピアノが漏れ聞こえてくる。切ない気持ちになるが、しょうがない。ぼくは努めてハンダ付けに意識を集中しようとする。


 それからどれくらい時間が経ったのか。


 ふと気づくと、遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。それがだんだん大きくなり……学校の正門から救急車が入ってきて、正面玄関の前で止まった。


 何が起こったんだ?


 そう言えば、いつの間にか高科さんのピアノの音が聞こえなくなっていた。いつもならまだ練習を続けている時間のはずなのに……


 まさか……


 胸騒ぎがしたぼくは玄関に向かって駆け出す。技術室にいた生徒も何人か飛び出してきたようだった。ストレッチャーの上に横たわり、救急隊員に運ばれているのは……


 やっぱり、高科さん……!

 真っ青な顔で、目を閉じたままだ。


 そのまま彼女は救急車の中に飲み込まれていく。中田先生も同乗し、バタン、とドアが閉まる。


「高科さん、どうしたんですか?」


 ぼくはそこにいた、学年主任の斎藤先生に問いかける。


「ああ、音楽室で倒れてたらしい。意識がないみたいだ」


 そんな……!


 ぼくは愕然とする。


---


 ショックだった。


 やっぱり高科さん、何かの病気だったんだ……


 重い病気なのか……? まさか、死んでしまうような……?


 技術室に戻っては来たものの、ぼくは完全に上の空だった。全く工作が手につかない。


「翔太、お前、帰れ」


 長谷川さんだった。


「そんな状態で作業してたら、怪我するぞ。あの救急車で運ばれてった子、お前の彼女だろ? だから今日はもう、無理すんな」


「わかりました。ありがとうございます」


 ぼくは長谷川さんに頭を下げて、技術室を後にする。


---


 家の自分の部屋に戻っても、ぼくはずっと、ぼうっとしたままだった。


 高科さんが……死ぬ?


 考えたこともなかった。だけど、もし彼女が死んでしまったら……どうなってしまうんだろう。


 嫌だ。そんなの、絶対に嫌だ。


 ぼくは嫌われててもいい。それでもいいから、彼女には生きていて欲しい。


 神様、お願いです……彼女を助けて下さい……


 ぼくが一心不乱に祈っていた、その時。


 家の電話が鳴る。


「!」


 予感がしたぼくはそのまま部屋を飛び出す。でも、電話を取ったのは母さんの方が早かった。一言二言話して、母さんはぼくに受話器を渡す。


「中田先生から」


「!」


 ぼくは受話器を右耳に押し当てる。


「もしもし」


『翔太君?』中田先生の声だ。携帯からかけているらしい。


「はい」


『今、総合病院なの。高科さんのお母さんが来られたので、私は交代して学校に帰るつもり』


「高科さんは……どうなったんですか?」


『大丈夫よ。今は意識を取り戻してる』


 ……!


 思わずぼくはヘタヘタと床の上に座り込んでしまった。 


 よかった……彼女は生きてるんだ! しかも意識もある!


『精密検査してもらってるけど……とりあえずの結果はもうしばらくしたら出るみたい。でも私は帰っちゃうからね。高科さんのお母さんに、後で君にも連絡してください、って言っておいたから。君のことも知ってるみたいだったし』


「そうですか……」


『翔太君、ちょっと気になる話を聞いたんだけど……君と高科さん、別れたんだって?』


「え、ええ……ぼくが、一方的に振られました」


『そう……彼女の方が、君を振った、ってことね』


「はい」


『何があったの? まさか……二股?』


 先生の声が、いきなり低くなる。


「違います。ぼくにも、全然理由がわからないんです……でも、ひょっとして、彼女、実は病気のことを気にしていて、それで……」


『そうね。ひょっとしたら、それ、あるかもしれないわね』


「ええっ?」


 ぼくの胸が、キュッと締め付けられる。


『彼女ね、救急車で搬送されてる最中に……うわごとのように、君の名前を呼んでたの。翔太君、って……』


「!」


 衝撃だった。


『だから彼女も、本当は君のことが好きなのに、病気のために今までのように付き合えなくなる、とか……そんなふうに、悩んでしまったのかもしれないわね』


「……」


『どちらにしても、今はまだ無理だけど、お見舞いに行けるようになったらすぐに行ってあげて。君はまだ、彼女のこと……好きなんでしょ?』


「はい」


『だったら、絶対行って。ね?』


「わかりました」


『それじゃ、ね。また何かあったら電話するね』


 先生はそう言って、電話を切った。


 それから数分もしない後だった。


 再び電話が鳴る。今度はぼくが取った。


「もしもし」


『坂本翔太君ですか?』


 低い、男の声。


「はい」


『瑞貴の父です。今から、総合病院に来られますか?』


「ちょっと待って下さい」


 ぼくは電話を保留にして、台所の母さんの方を向く。受話器から「ジュ・トゥ・ヴ」が流れ始める。


「母さん! ぼく、これからちょっと総合病院に行ってくる!」


「何時に帰ってくるの?」と、母さん。


「わかんない。遅くなるかも」


「だったら、帰りは迎えに行くから、用事が終わったら電話しなさい。もう暗いから、気をつけて行くのよ」


「わかった」


 ぼくは電話を通話に戻す。


「もしもし、翔太です。今から行きます」


---


 市立総合病院は、ぼくの家からは1キロくらい。行きつけの病院だからよく知ってる。


 辺りは既に真っ暗だった。十分歩いて行ける範囲だが、ぼくは走った。全力で。一刻も早く病院に着きたかった。


 時間外受付の玄関を抜けると、エレベーターの前に、高科さんのお父さんがいた。


「坂本君。良く来てくれたね」お父さんが微笑みながら言う。


「はぁっ……はぁっ……こんばんわ……」


 ぼくは息を切らしながら、とりあえず挨拶する。


「高科さんは……どうなんですか?」


「一応、検査の結果は出たよ。彼女はね……」


 ぼくはゴクリと唾を飲み込む。


---

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