4

 彼女の部屋は3階だった。12畳くらいのフローリングの空間。奥に、なんと、屋根の閉じたグランドピアノがあった。でも、学校にあるピアノよりもちょっと小さいかも。


 手前にはベッドが置かれている。それを彼女は指さした。


「そこに座ってて」


 え、いきなりベッドに……? まあ、深い意味は、ないよな……


 彼女は鍵盤カバーを上げると、鍵盤に乗っていた赤いフェルトを取って、椅子に座り早速「月の光」を弾き出した。楽譜も何も見ずに。


 すごい。完全に、暗譜しているんだ……


 それにしても。


 本当に、綺麗な曲だ。高科さんが弾いている、と思うと、余計にそう感じる。そして……


 こうしてみると、ピアノを弾いている彼女もとても綺麗だ。なんて言うんだろう。ピアノと一体化しているような……まさに、ピアノを弾くために生まれてきたような……


 演奏が終わった。


 思わずぼくは拍手してしまう。彼女はすまして頭を下げる。無表情……のように見えて、ちょっと得意そうだ。


「この曲はね、元々はベルガマスク組曲っていう4曲の中の、3番目の曲なの。だけど多分組曲の中でも一番有名な曲よね」


 そう言って彼女は、他の3曲もサワリの部分だけ一通り演奏した。やっぱりぼくは「月の光」が一番好きかなあ。


「あと、ドビュッシーでは、これも有名だよね」


 続いて彼女は流れるような旋律を紡ぎ出す。あ……確かにこの曲、聴いた事ある。これもすごく綺麗な曲だ……


「『アラベスク第1番』。翔太君が好きそうな曲だよね」


「うん……すごく、綺麗な曲だね」ぼくはうっとりしながら言う。


「でもね、ドビュッシーってこんな綺麗な曲ばかりじゃないんだよ。これなんか、すごく変わってると思うんだけど」


 そう言って彼女が弾き始めたのは……随分コミカルな感じで始まる、割とテンポの速い曲だった。綺麗……と言う感じじゃないけど、聴いていて、とても楽しくなる曲だった。


「これはね、『ゴリウォーグのケークウォーク』。子供の領分、って組曲の6曲目。楽しい曲でしょ」


「うん……だけど、すごいね、高科さん。全然楽譜見ないで、弾けちゃうんだ」


「わたしもドビュッシー、好きだから。この辺の曲は、もう完全に暗譜しちゃった」


「へぇ……」


 なんか、趣味が合うみたいで、ちょっと嬉しい。


「でもね、わたしが一番好きなのは……実は、ラヴェルなんだ。ドビュッシーと同じフランスの作曲家だけど」


「ラヴェル?」


「うん。音楽の時間に『ボレロ』って習ったでしょ? あれの作曲者」


「えー、ボレロ?」


 それはさすがにぼくも知ってる。同じリズムを延々繰り返すヤツだ。正直言って……退屈で仕方ない曲、っていうイメージしかない。


 そんなぼくの気持ちが表れた言い方が気に障ったのか、高科さんの顔に、少し不服そうな表情が浮かぶ。これも、以前なら気づかないくらい微妙な変化だ。


「今、あんな退屈な曲? って思ったでしょ」


 図星だ……


「でもね、あれはラヴェルの曲の中ではかなり特殊な方なの。もちろん一番有名な曲だし、名曲でもあるんだけどね。翔太君、ラヴェルのピアノ曲、知らないでしょ?」


「う、うん」


「それじゃあね、弾いてあげる。まずは、とても綺麗なヤツからね」


 そう言って高科さんは弾き始めた。とても静かで、少しもの悲しいような……だけど、確かに綺麗なメロディだ。


「これは、『亡き王女のためのパヴァーヌ』、って曲。『ボレロ』とは全然印象違うでしょ?」


「うん。すごく落ち着いてる感じの曲だ。ドビュッシーに比べるとあまり派手じゃないけど、いい曲だな」


「そう……でも、この曲を聴いた後で、同じ事が言えるかな?」かすかに高科さんの顔がニヤリとする。「と言っても、これは難曲中の難曲って言われてて、実はわたしもそんなに上手く弾けないんだ。ミスタッチしたらゴメン」


 ピアノに向かった高科さんの顔が、ふいに引き締まる。今まで見た事のない、真剣そのもの、といった表情だ。


 そして彼女の指が紡ぎ出したのは……なんというか……とてもおどろおどろしい曲だった。低音から高音まで、彼女の指が縦横無尽に鍵盤を跳ね回る。確かに、派手と言えば派手だ。今日聴いた中で一番難しそうな曲だった。


「あー、やっぱダメだー!」


 いきなり彼女の指が止まった。悔しそうな顔。思わずぼくは彼女を見つめる。こんな風に彼女が表情をあらわにするなんて……初めて見たかも……


「結構ミスっちゃったよ……やっぱ、難しいなあ……『スカルボ』は」


「スカルボ?」


「うん。『夜のガスパール』って組曲の3曲目。すごく不気味で怖いでしょ? でもね、わたし、この曲好きなんだ。だから、満足に弾きこなせるようになりたいんだけど……まだまだ、全然技術が追いつかないよ……」


 そうなのか……ピアノの天才少女でも、弾きこなせない曲もあるんだ……


「『夜のガスパール』はね、元々ベルトランって言うフランスの詩人が書いた詩なんだけど、その詩にラヴェルがインスピレーションを受けて書いた曲なんだよ。ちなみに2曲目は、不気味さで言えばさらに不気味だよ。難しくはないけど。弾いてみる? タイトルは『絞首台』って言うんだけど。絞首刑を行う台ね」


「……遠慮しときます」


「あ、でも、1曲目は綺麗だよ。たぶん、翔太君の好みかも。『水の精オンディーヌ』って言うんだけどね。これも難しい曲だけど、なんとか弾けると思う」


「それはちょっと……聴きたいかも」


「OK」


 そう言って彼女が弾き始めた、その曲は……ぼくにとっては衝撃そのものだった。


 序盤の水の流れを思わせるような美しいメロディが、中盤にかけて激しく盛り上がっていき、頂点を迎えたか、と思うと、いきなりそこから崩れるように転がり落ちていく。そして、そのまま静かに終わるのか、と思いきや、再び旋律が猛り狂うように暴れまくり、また静かな水の流れに戻って終わる。


 ……。


 ぼくはいっぺんに心を奪われた。なんてドラマチックな曲なんだろう。


 もうぼくの中では、『ボレロ』の印象は完全に消え去っていた。ラヴェルって、すごい作曲家じゃないか……


「……どうだった?」


 高科さんがそう言うまで、ぼくは自分が放心状態である事にすら、気づいていなかった。


---


「はいこれ。『夜のガスパール』はこのフランソワの演奏が最高、って言われてるからね」


 高科さんはそう言って、ぼくにCDを差し出した。「水の精」をもっとじっくり聴いてみたいし、彼女が途中で演奏を放棄した「スカルボ」も最後まで聴いてみたい。そう言ったら、彼女が自分からCDを貸してあげる、と申し出てきたのだ。


「え、演奏って、人によってそんなに変わるものなの?」


「当たり前じゃない。全然違うよ。それじゃ、別な人のも貸してあげようか。そうだなぁ……ラヴェルの直弟子の、ペルルミュテルはどう? ラヴェル本人の意図に一番近い、って言われてる演奏だよ。しかもこれ、全集だから、ラヴェルのピアノ曲はほとんどこれで聴けるよ」


「そうなんだ」


 それはちょっと楽しみ。


「でも、ホントはこれくらいの古い録音は、アナログレコードで聴くのが良いんだけど。アンプが壊れちゃって、聴けなくなっちゃったんだよね」


 そう言いながら、高科さんはピアノの横にあるオーディオセットに寂しげな視線を向ける。


「どんな風に壊れたの?」


「全然音が出なくなっちゃった。電源は入るんだけどね……」


 見た感じ、ちょっと年代物かな? と思えなくもないけど、ミニコンポよりは明らかに大きい、割と値段が高そうなコンポ―ネントが揃ってる。レコードプレイヤーはヤマハだ。うちで父さんがメインで使ってるパイオニアのヤツよりもちょっと背が高い。スピーカーもヤマハだな。黒い小型の2ウェイ。金色のCDプレイヤーはソニー。アンプは……サンスイ? うちの父さんが好きなメーカーだ。よく中古屋でジャンク品を買ってきて、自分で直していたりする。ぼくも何度か父さんがアンプを直すのを見ていて、面白そうだな、と思っていた。


 そうだ……うちの父さんなら、このアンプ、直せるかも。いや……それより、ぼく自身が直そうか。ぼくだって伊達に電子工作部にいるわけじゃない。小学校の頃からハンダごてを持って、ラジオやアンプを作ったりしていた。


 高科さんのお家には、夕飯をごちそうしてもらったりして、結構世話になっている。だから、その恩返し、ということで……


「ぼく、アンプ直そうか?」


「ええっ?」


 高科さんが驚愕の表情でぼくを振り返る。この人のこんな顔、初めて見たかもしれない。


「翔太君、直せるの?」


「わかんない。けど、ぼくだって一応電子工作部だからね。それに、ぼくの父さんだったら間違いなく直せると思う。いくつもアンプ直しているから。だから、まずぼくがやってみて、ダメなら父さんに助けてもらうよ」


「そうなんだ……それはうれしいけど、これ、おじいちゃんの形見だから……お父さんに聞かないと、なんとも言えないなあ。あ、でも今日はお父さん早く帰ってくるから、翔太君、直接聞いてみてくれる?」


 え、ええー!?


 いきなり、お父さんとご対面……?


---

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