第3話 因幡の子兎

 気がつくと魁は自室の布団に入っていた。

 何が起きたのか直ぐに思い出せず、頭を押さえて記憶を辿る。

 そして体の状態も確認するが、特に怪我も負っていないようだ。

 まだ痺れるような感覚はあるが、起き上がって階下へと向かう。

 畳敷の広い道場では魁の母、桃子とうこがいつものように花を活けていた。

 桃子の前には、来客者と思われる背の高い女性と小さな女の子が正座している。

 邪魔をしては悪いか、と場を離れようとすると、

「これ、魁。起きたならこっちへ来て挨拶なさい」

 咎められ、観念して道場に入る。

「こちら稲葉さん。会った事あるわよね」

 桃子と同じくらいの年齢であると思われる子連れの女性に、魁は正座をして礼をする。

「そう言われても覚えてないわよね。何年も前に数度、顔を会わせただけだもの」

 と女性は優しく笑う。

 その言葉通り、魁にもキレイな女性だという印象以外何もない。

 言葉を交わした事もない。

 別の女性がそこにいて稲葉だと名乗っても何も疑わなかっただろう。

 だが稲葉という名前には深い印象がある。

 稲葉流二刀小太刀。

 分かりやすく言えば蕪古流のライバルに位置する流派だ。

 父魁一郎と稲葉流の当主は親交があり、互いに自身こそがと技を競い合ったと聞くが、魁一郎は技を誇示したり、競い合う事を好まなかったので、ほとんど一方的に勝負を挑まれていたように思う。

 その度に勝負を分けていたので、魁は父の方が強いと思っていたのだが、

「私もそうだが、あやつも真の力を出してはいない。あれは挨拶のようなものだ。真剣勝負になればどうなるか分からん」

 魁は当時、父の言葉の意味は分からなかったが、蟇目と幾度か戦う内に何となくだが分かってきたように思えた。

 蟇目が本気になって自分を倒せないとは、正直思えない。

 そして父が亡くなり、稲葉の当主は魁を養子に迎えたいと言い出した。

 当然のように桃子は断ったが、魁の気持ちも同じだった。

 以降、たまに訪れる度に挨拶のように切り出していた。

 仕舞いには流派は蕪古流のままでよいから稽古をつけさせてくれと言い出す始末。

 もちろん魁は蕪古流を修めた者以外に教えを受けるつもりはなく、これも丁重に断った。

 今思えば稲葉は後継者に恵まれなかったのだろう。

 そしてこの度、その当主も亡くなったのだと言う。

「生徒は何人かおりましたが、真剣を持つ者はおりません。稲葉流はゆるゆると消え行く事でしょう」

 魁は目を閉じる。

 蕪古流は表の看板は鏑古流という華道の家元。

 剣術としての蕪古流は自分の代で廃れるのだろう。

 魁はなんとも言えない気持ちの中、稲葉の当主に黙祷を捧げた。

「すきありぃ!」

 甲高い声に目を開けると、先程から女性の傍らで鋭い視線を送っていた女の子が、立ち上がって背に差していた物を抜き放った。

 抜かれた棒状の物は魁の顔面を正面から叩いたが、魁は瞬きもしない。

 女の子は手に持つ物、ウレタン製のおもちゃの刀を高く上げる。

「母上! 見たか。蕪古流を討ち取ったぞ!」

 魁はどうリアクションをしたらいいのか分からず固まってしまう。

 こういう時、「やられたぁ」といって派手に倒れればよいのだろうか、などと考えている間にも女の子はたどたどしく言葉を繋げる。

「母上は申したではないか。こいつを倒せば、稲葉流を継いでよいと」

 女性はくすっと笑う。

白羽しらは。お兄さんはまだ倒れていませんよ」

 女の子はぬ~っと悔しそうに呻くと立て続けに魁をパコパコと叩く。

 ひとしきり叩くとぜいぜいと息を切らせながら女性に詰め寄る。

「こいつは手も足も出ないではありませんか。すたんでぃんぐのっくあうとというやつです」

 随分難しい言葉を知っているな、と座ったままの魁は思う。

 横で見ていた桃子もくすりと笑う。

「魁。あなたの負けですよ」

 はあ……と魁は曖昧に応える。

「小さな女の子だからといって油断をして、アレに毒針が仕込んであったらどうするのですか?」

 父のような事を言う、と思いつつもその通りなので素直に負けを認める。

「はい。この勝負。確かに私の負けです」

 頭を下げると、女の子はこれみよがしな笑みを女性に向ける。

 女性も、仕方がないというように笑った。

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