第4話 いろいろ気づいてしまった

「……、……」


 誰かの話し声で、目が覚めた。身体を起こすまでには至らず、その場で寝転んだまま、その誰かの話し声に耳を澄ます。誰だろう、この硬質な低い声は。


「だから、心配するようなこと何もないって。今同僚の家だよ、飲み会盛り上がって、終電逃したんだ」


 口調がなんだか言い訳がましいな、と思う。そして、だんだんと冴えてきた頭で、これは富永さんの声だと気づく。


「ん? 好きだよ、愛してる」


 声が、途端に甘さを孕んで、わたしは思わずどきりとして手を口元に当てた。

 ずきん、と疼く頭の痛みをやり過ごしながら、状況把握に努める。この部屋が自室であることは自明の理だった。いつもたいているお香の匂いが、布団に染みついているからだ。そして、この布団の感触からして、わたしは全裸だ。それもいつものことだ、わたしは寝る際は全裸派である。カーテンの向こう側の暗さからして、まだ未明。そんな自分の部屋で、富永さんが電話越しに誰かに愛を囁いている。


「うん、じゃあな。また週末」


 富永さんは電話を切ったようだった。衣擦れの音がして、となりにもぐり込んでくる。

 彼の腕がわたしの身体に巻きついて、彼もまた衣服を身に着けていないことを察し、矢も盾もたまらず身を起こす。


「あ、起こしちゃった?」

「……」

「ごめん、身体冷たかったかな?」

「…………彼女いたんですね」

「え?」


 富永さんの、子犬のような笑顔がさあと顔色だけ変わり、凍りつく。

 わたしがじっとりと睨むと、彼はしらばっくれることを諦めたらしい、ため息をついて曖昧に笑った。


「彼女いるのに、なんでわたしのこと誘ってたんですか」

「いや、それは」

「最初から浮気相手探しだったんですね」

「そんなこと」


 不思議と、悲しみはわいてこなかった。そこにあるのは燃えるような怒りと、彼の恋人への同情のみだった。

 果たして自分が、富永さんといたしてしまったのかどうかは、分からない。慣れない酒のせいで頭はぐるぐるするし、身体がだるいのが酒のせいなのか別の原因があるのかまでは分からないからだ。

 それでも、板倉部長のときと同様に、わたしが勝手に服を脱いでしまっただけ、だとしても、彼は恋人に嘘をついてわたしをも欺こうとしたことは間違いなかった。


「帰ってくれますか」

「え、今夜中の三時……」

「帰ってくれますか!」


 こんな男にだまされた自分が情けないやら悔しいやら、それらの負の感情がすべて怒りとなって濁流のように喉元まで押し寄せる。


「どうせ真面目くさった男慣れしてない奴だから簡単にだませそうだと思ったんでしょ! 大きなお世話! 帰ってください! もう顔も見たくないです!」


 枕を投げつけた。押し寄せた濁流は涙腺にも作用して、わたしの目の表面を覆う。泣いたら、駄目だ。

 わたしの勢いに気圧されたのか、富永さんは呆然としながら服を着始めた。

 スーツのジャケットを着込んだところで、コートを投げつけて、もう一度帰れと叫ぶ。


「もう二度とわたしの前に顔見せないでください!」


 それだけ言って、ばふっとベッドにもぐり込んで布団を掻いて頭までかぶる。

 彼の気配はしばらく戸惑うようにそこにあったものの、やがて、遠ざかり、ドアが閉まる音がした。


「……」


 悔しい、悔しい、悔しい。

 富永さんに、二番目扱いされかけたことも、今までの彼の熱心なアプローチにいい気になっていた自分も、すべてが悔しい。

 そして何より悔しいのは、こんなときに浮かんでくるのが部長の顔だということだった。あやふやに笑ってごまかそうとした富永さんとは違い、しっかりと責任を取ると言ってくれた部長の顔が。

 富永さんといたしてしまったかもしれないという焦りより、部長と彼を比べてしまう自分に吐き気がする。

 部長のことを考えたって、仕方がないのに。彼との未来なんかうまく描けないのに。わたしの、つたないながらも一生懸命設計した人生の計画は、こんなところで破れてしまっていいはずがないのに。

 それに何より、今更部長に何を言えるというのだろう、ひどい言葉を投げつけてふっておいて。

 今まで、勉強以外に興味がなかったわけではない。好きな男の子がいるという女友達が羨ましかったし、わたしだってそういう話に参加したかった。けれどできなかった。羨みながらも、恋にうつつを抜かす彼女たちを心のどこかで軽蔑していた。軽蔑することで自分を正当化してきた。

 高校を卒業してすぐにできちゃった婚した友達を見て、なんて計画性のない、と呆れたりもした。

 わたしはきちんと人生設計を立てているからあんなふうにはならない、と優越感に浸ったりもした。

 それがどうだ。


「……水……」


 キッチンに、全裸のまま立つ。

 自分の理性では到底制御できないものが、恋だったのだ。


 ◆

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