第6話 あの雨の日に起こった事(回想③)〜驚愕〜

 無音。窓ガラスを挟んだ外界は未だ止むことのない強雨に晒されているというのに今、僕がいるこの車の中は恐ろしいほどの無音と適切な車内温度に包まれている。超高級車の車内はまるで家にいるのと変わらないとよく言われるらしいが、僕はその事実を今、身を以て体感している。

 しかし、にとってはその静寂がなんとも居心地の悪いものになってしまっている。なぜなら、肋骨から飛び出すんじゃないかというくらいの心臓のビートと、夏場の犬のように荒くなっていく呼吸を会長に聞かれないかめちゃくちゃ不安だからである。

 その元凶は一目瞭然。先ほど繋いだ会長の右手と僕の右手が、車が走り出してもうかれこれ十分近くは経っているというのに未だ硬く結ばれたままなのだ。女の子と付き合うどころか手すら握ったことのない僕にとって、全生徒の憧れの象徴——雨真宮会長とのまさかの長時間カップル手つなぎは胸の鼓動を早めるのに十分すぎる刺激となっている。


「……あの……雨真宮会長……その、手……手なんですけど……」

「…………」


 無言。会長は首を窓ガラスの方に向けたまま何も答えない。彼女のつややかな前髪がちょうど顔を隠しているため表情を伺うことも出来ない。

 雨真宮会長? 外に何かありますか? 僕の方からはオレンジ色の街灯と電柱しか見えません。何か興味のあるものでもありましたか? などと気軽に話しかけられればどんなに気が楽だろう。だが、幼馴染の鈴以外の女子と滅多に話さない僕にとってその行動は非常に困難なミッションだ。なら自分から手を離せばいいじゃないか。何をごちゃごちゃ言ってんだこの童貞は。と第三者の方は思われるかもしれない。うん。僕も同じ状況を俯瞰で見たら同じ感想を抱くだろう。でもね………離れないんですぅぅ!! 何故かガッチリとホールドされていて離れないんですぅぅ!! 

えぇ? これってどういうこと? 会長が自らの意思で手を強く握っている(少し痛いくらいの力で)というのは明白なんだけど、その理由がわからない! あっ! もしかして昔、少年漫画であった“手を繋いでいないと死んでしまうヒロイン”系の奴とか? それとも……

 僕が脳内でおかしな妄想を繰り広げていたその時、今まで沈黙を守ってきた会長が唐突に言葉を発した。


「小堺君……君は……」


 そのか細く、小さなつぶやきを口から漏らした会長は、ゆっくりと首を僕の方へと曲げ、吸い込まれそうな魅力を放つ緋色の瞳で僕を捉える。そのあまりにも妖艶でミステリアスな姿に僕は思わずたじろいでしまう。


「はっ……はい、なんでしょう?」


 数秒の無言ののち、会長は再び顔を伏せ前髪で表情を覆うと何事もなかったかのようにまた窓ガラスの方へと首を曲げ、「いや、なんでもない」と一言残し、またサイレントモードに突入した。

わっ……分からない! 会長が何を考えているのかさっぱり分からない!

 その後しばらく僕の苦悶の時間は続いた……。



「お待たせいたしました。お嬢様。小堺様。屋敷に到着いたしました。長時間の車移動、お疲れになられていませんか? 小堺様」

「あっ……はい。大丈夫です」


 その言葉は半分本当で半分嘘だ。正直、体は全く疲れていないが精神がひどく衰弱している。シートに置かれた僕の右手には未だ会長の指が絡まっている。僕はチラリと会長を見遣り、微動だにしない彼女にため息を一つこぼすとフロントガラスの向こうの景色に意識を集中させた。

 見上げるほどの大きな洋門。それに連なる左右に広がった白亜の壁。まるでどこかの国の城と見紛うかのような豪奢な建物。そう。これこそがこの街の誰もが知るあの雨真宮家の邸宅なのである。そんな門構えを見るだけで萎縮してしまうような場所に僕は本当に招かれたのだと改めて悟った。


「瀬馬洲です。開門を」


 運転席の窓を開け執事さんがそう告げると、門の内側の鍵がガチャンと開錠され観音開きの向こうから灰色のレンガが敷き詰められた屋敷へと続く道が姿を現した。


「すっ……すごい。あの巨大な屋敷も、そこにたどり着くまでのこの超広い中庭も……」


 屋敷まで続く道には途中、鮮やかな緑色を放つ綺麗に整えられた芝生や立派な噴水、様々な木々がそびえる森のような空間があり、車がゆっくりとその道を進むたび、僕はどこか異世界にでも迷い込んだような錯覚に陥りそうになった。

 そして、僕たちの乗った車は雨真宮財閥のシンボルである三つの雫が彫られたまるで神殿のような入り口を構えた建物へと到着した。

 車が停止するなり、執事さんはすぐさまシートベルトを外しキビキビとした動作で車外へと周り、後部座席の扉を優雅に開け放った。


「ようこそ。雨真宮家へ。小堺様」


 されているこちらが恥ずかしくなってしまうかのような大袈裟なお辞儀。だが、それをより本格化させたのは執事さんの後ろに控える何十人もの人たちが同様にこちらに対し深く頭を下げていたことだ。


「おかえりなさいませ。瑞波お嬢様。そしてようこそ小堺様」


 一声たりともずれないその声の重なりに、ここまで保ってきた僕のキャパシテーが完全にオーバーヒートを起こしかけたが、直後にかけられた会長の呼びかけになんとか自我を保つことができた。


「では行こうか、小堺君」


 甘い香りを漂わせ滑らかな黒髪をゆっくりと揺らしながら僕の前を横切っていく会長は、薄暗い車内から煌びやかな明かりを放つ外界へと、繋いだその手を強く引いたのだった……。

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