第13話 三条の北の方、仲忠に言葉巧みに誘われ、参内する

 仲忠は無言で立ち上がり、御前から下がる。

 それを見た兼雅は驚いて立ち上がる。


「何処へ行くんだ。あんなに帝がお召しだったのに、どうして御前を去るんだ?」


 黙って彼は苦笑で返す。


「変な奴だな。落ち着かない。しばらくはじっとしていなさい」

「帝からの仰せ事がありまして」

「なら仕方が無いが」


 何の仰せ事があったというのだろう。兼雅は首をひねる。

 仲忠はそのまま陽明門の方へと向かった。

 そして自分の車ではなく、そこに置いてあった父の車に乗って行くことにした。

 帝の仰せだ、と言うと兼雅の従者達は皆納得して、そのまま付いて行く。



 仲忠は三条殿に着くと、すぐに母の元へと向かい、簀子からその姿を伺う。


「おや、母上、今日は御髪おぐしを洗ったのですか」

「ええ、日も良いことですし」


 たっぷりとした長い髪は、まだ干しきれていない様だった。

 だが横になっているという程でもない。

 おおよそは乾いている様だった。隙間から見えるそれは、ほんのりとした灯りにもつやつやと輝き、非常に美しい。


「どうでした? 相撲はどちらが勝ちましたか?」


 母は訊ねる。


「左です」


 仲忠は答える。


「あら、それは残念だわ。もしかしたら右がお勝ちになるのじゃないかと思って、大勢集ってお待ちしているのに」

「それはひどいですよ母上。僕が居る左近衛が勝つのが嬉しくは無いのですか? ああ、母上は僕の側が勝ったことより、父上の方が負けたことが悔しいんだ」

「あら、そんなことは無いですよ。実はね、仲忠、さっき使いの者があなたを探しに来た時に、相撲の結果も教えてくれたのですよ。だから私からもお祝いをしようと準備していたのに、いつまでたっても来ないから、ちょっと寂しかったの」

「では左近衛を引き連れて、左大将どのをはじめ、皆揃って参りましょうね。あ、でも、今はちょっと駄目だな」

「どうしてでしょう?」


 北の方は首を傾げる。


「実は今、内裏の方では、とても面白いことをしていまして。そう、滅多に無いことなんだ。左近が勝ったからなんだけど……」

「まあ、どんなこと?」


 少女の様に、北の方は喜ぶ。


「世に名高い雅楽寮の舞の師や、歌や笛の師がもう、これでもかとばかりに集められて、様々な演奏や、舞いを行ってるんだ」

「まあ」

「で、僕一人で見ているのもつまらないので、母上をお誘いにきました」

「あら、それは駄目よ」

「どうして?」

「畏れ多くも帝が御覧になる様な素晴らしいものを、どうしてこの母が見られましょう?」

「僕がそこのところは上手くお膳立てするよ。本当に、極楽浄土の音楽はこうじゃないか、と思った程なんだ。もし母上が少しでも聞きたい、という気持ちさえあれば、僕が何とかするから」

「でも、はしたないわ…… それに、父上がどうお思いでしょう」


 仲忠はそれを聞くと、母には判らない様に口元を歪め、調子を強める。


「父上には何も言いませんよ。何も心配無いから。僕がこっそりお連れするだけなんだから。早くお仕度を」

「そうね。はしたないことはしたくは無いけど…… でも、あなたの話を聞いていると、とても行きたくなってしまうわ」

「僕を信じて下さいな。はしたない様なことをどうして僕が母上に勧めると思うの? そう思われていたなんて、何って残念。さあさあ、行きましょう、お急ぎを」

「え、え」

「そうですね、少し『これ!』と思う様な趣のある着物に換えて、皆が目を留める様な格好で行って欲しいなあ」

「……それは、まあ……」


 何だろう、と母北の方は思う。

 この息子にしては、ずいぶんと積極的ではないか。そう、こんなことは初めてじゃないか?


「着物は――― よく探せば、あなたの言う通りのものは見つかるけど… 私の姿の方は、所詮生まれつきのものだから、何処から取り出しましょうね。しまったところも思い出せないわ」

「かたちをよく整えて化粧をなさるのが必要な時もあるんです。さあさあ」


 化粧のことまで口を出す。これは本気だ、と彼女は気を引き締める。

 何の裏もなく、この息子が自分を人の多い場所へ連れ出すとは思えない。何か必ずあるはずだ。

 戯れ言で応酬してきたが、それが仇になったかもしれない、と。

 しかし。


「では支度しましょう。でも出来上がりにあれこれは言わないでね」


 そう言って北の方は、まだ充分乾いていなかった髪を、急いで仕上げる様に女房達に指示する。

 仲忠はその間も、何かと母に呼びかける。


「それにしても、今日の相撲は残念だったなあ。無論僕の側が勝って、父上の方は負けてしまった、っていうのもあるけど、勝負自体に一回負けてしまったこともあるんだ……」


 彼女には弁解に聞こえなくもなかった。


「右方の相撲のあるじのお相伴の準備においでになった方々を、母上のお供として一緒に車に乗せて下さいね。僕は馬でお供するから」


 そう母に言うと、仲忠は車の用意に急ぐ。


「父上がいつも使う檳榔毛びろうげの車と、別に副車ひとだまいを三台添えて参内しようと思う。皆、用意を頼むぞ」


 は、と家人達は皆緊張する。


「それから、右馬寮の助が今、父上の厩の別当だったな」

「は」

「僕が乗っても咎を蒙らない様な馬を選んで、鞍を置いておいて欲しい、と」


 するとそれを聞いた馬の権助の国時がこれは面白い、とばかりに答えた。


「世に言う名高い『龍の駒』であっても、あなた様がお召しになるのでしたら、咎などはございませんでしょう。御厩そっくりお持ちになっても!」

「あはは。僕自身、野育ちの馬の様なものだからね。厩の雑用でも何でも大丈夫さ」

駒牽こまびきも近くなりました故、野育ちの馬もその数に入ることもありましょう」


 駒牽とは良い馬を集め、帝などの前でお目見えさせる行事である。主に五月の騎射の前に行われるのだが、秋八月にも趣旨は違えども、同じ行事がある。


「若様、藤壺の御方をお送り致しますのですか?」


 かつて彼が懸想人の一人だったことを国時は揶揄しているのだろう。仲忠はそれをさらりとかわす。


「似た様な美しい方をお送りするんだよ。だから馬の支度をしてくれないか?」

「いつもの君が好きわざをなさるのですね。

 ―――今でも夏衣が透いて見える様ですね。秋/飽きが来れば脱ぎ替えるはずの衣でございますのに」


 それを聞くうちに、ふっと仲忠の側を涼しい風が吹きすぎた。


「―――秋の夜の涼しい頃に出で立つ/裁つ時は、着替える衣もやっぱり透いて/好いているよ。お前の言う通りさ」

「そうですか。まあ戯れ言はそのくらいにしておいて、若様、馬の鞍はどちらに致しましょうね」

移鞍うつしぐらを置いてくれないか。何をしても無礼だろう。それ以外じゃ」

「お供の男達には移鞍が無い者も居ますので、あなた様がそっちをお選びになりますと、急なことなので男達は困惑致しましょう」

「いやいや、何の遠慮も要らないさ。男共はいつもの通り唐鞍でも倭鞍でも置けばいい。僕は数に入っていないし、世の中にも認められていないから、これでも謹んでいるんだよ」


 国時は呆れつつも、厩に三十匹以上居る中で、吹上の浜で引き出物として貰った駁の馬を選び、移鞍を置き、仲忠の前に引き出した。


 一方、母の支度も着々と進みつつあった。

 洗って乾かした美しい髪を櫛で梳り、花文綾に模様を摺り出した裳に唐裳を重ねることにする。

 やや涼しくなってきたので、結局、綾の掻練の袙を一襲に、赤色の表衣、その上に二藍襲の唐衣をまとった。


「格別、珍しい装いは出来なくて、……まあ、こんなものですよ」


 北の方はそう言って微笑む。

 大人が六人、童が四人、下仕えを二人従えて、御簾のもとに出立するばかりである。

 仲忠はそんな風に少し跪いて居るのを、庭に灯した松明の光で見る。


「母上」


 思わず仲忠は息を呑んだ。

 灯りの中、北の方の姿は、照り映えて眩しい程の美しさだった。

 髪の長さは身の丈より二尺程長く、普段は少し小さく膨らむ癖があるのだが、洗ったばかりなので、背中一杯にこぼれる程、全く一本も乱れていない。

 姿の美しいことは言うまでも無い。身の丈も丁度良く、すらりと美しい。


「―――母上、何か、凄く…… もの凄く…… 美しいです」

「何を言うの、突然」


 くす、と母北の方は笑う。


「本気です。誰も母上に叶う者は居ないと思う」

「あの方はどうなの。藤壺の御方は」

「顔も御覧になれない方と、どうして比べられましょう?」

「嘘」

「それはともかく、僕は今、母上を見て、何処から降りてきた天女なのか、と思った程だよ。父上がこの姿を見られないのはさぞ残念だろうなあ」


 まあ、と北の方はつぶやき、車を寄せる様に頼む。仲忠は車まで几帳を自らかざして母の姿を隠す。

 その後に大人二人が一緒に乗り込み、副車に他の女達を乗せて行く。

 仲忠は移鞍の馬に乗って、母の車の轅に寄り添って立った。

 その後を、兼雅の饗のためにやって来ていた四位から六位の者達、合わせて八十人程が付いて行く。

 やがて、大内裏の北の御門――― 朔平門に差し掛かった時、仲忠は「ちょっと待って」と車を止めさせた。


「前駆の人達は母上の車の側に居て欲しい。今は僕一人で参内するから」


 仲忠はそう言って、仁寿殿へと向かった。

 帝は仲忠に気付くとふふ、と笑って問いかける。


「どうした? 約束のことは」

「車の中に」

「そうか。では例の賭けはそれで良しとしよう」


 は、と仲忠は帝の答えを有り難く受け取り、その足で梨壺へと向かった。

 そこには彼の妹が東宮妃として仕えている。


「一寸お尋ね申し上げます」


 仲忠は問いかける。


「どなた?」


 中から梨壺の君の母宮の声がした。


「仲忠でございます」

「まあ、仲忠どの。娘は東宮さまのお側に居るはずだけど」


 朗らかな声が耳に届く。

 母宮――― 嵯峨院の女三宮は、かつては一条院で兼雅と仲睦まじく暮らしていた。

 だが三条の北の方との再会以来、兼雅はまるでこの人を顧みなくなってしまった。

 所在ない彼女は娘を東宮に奉った後は、表向き、娘にかしづくという形をとって、ずっと宮中にばかり棲んでいる。


「いえ、母宮さまにお願いが」

「何でしょう」

「従者の使う御几帳が欲しいのですが、どうも里へ取りにやる余裕がございませんので、少々お借りできないでしょうか」

「几帳ですか。ええ、大変汚れておりますが、宜しかったらどうぞ」


 ありがとうございます、と仲忠は応える。


「ところで仲忠どの」

「何でしょう」

「いえ、この年頃、まだ若い梨壺が一人きりなのに私、心配になりまして」

「母宮さまがいらっしゃるではないですか」

「ええ。でも決して若くはございません。いつ何があるか判らない身です。それに、確かに私はここに居りますが…… 他の方がお寄りにならないのはともかく、あなたまでが滅多にお尋ね下さらないのは、まるで私のことを疎ましがっているかの様ではないかと」

「そんなことは」

「―――と、口さの無い者達が言うのです」

「そんなことはございません」


 仲忠は必死で抗弁する。


「左大将どのの中の大殿に行った時、母宮さまは、嵯峨院の方ではないかと伺っておりましたた。まさかここにいらっしゃるとは」

「そのまさかだった訳ですけどね」


 ほほほ、と母宮は笑う。


「僕には何も出来ないので、却って恐れ多いことなのですが、梨壺の姫君が東宮さまのお側にお仕えなのですから、頼りない者とそちらが僕のことを御覧になろうとも、他の人よりは特別にご信頼頂ければ、大変嬉しく存じます」

「ありがとう、よく仰って下さいました。あの子も可哀想なことです。父君すら今ではあの子のことをお忘れなのですか、もう頼るところなど何処にも無いのか、とつい愚痴の様なことを」


「そんなことはございません」

「いいえ、全く世間というのは空しいものです。私の同腹のきょうだいにしたところで、こちらのことなど思いだしもしてくれないことです」

「僕は同腹ではございませんが、梨壺の姫君はそれでもきょうだいである以上、これからは、格別な用事が無くともお世話させて頂きます」


 仲忠は几帳の用意ができた様子を伺う。


「色々と母宮さまとは語り合いたいこともございますが、只今は急な用事がありますので、失礼致します」


 梨壺で借りたのは、花文綾の帷をかけた三尺の几帳を二具だった。仲忠はそれを母の元へと持って急ぐ。

 帝は仁寿殿の南廂に御座を設けて、その西の方に屏風や几帳を立てさせた。そして上達部の席を、中が遠く伺えない東の方へと移した。


「あ、祐純さん、少しいいですか」


 仲忠は途中で見かけた友人の一人を呼び止める。


「何だい?」

「実は帝から是非に、と頼まれた方をお連れしたんです。で、あなたの陰に隠して連れて入ってもらえないかな、と」


「誰だい? その方は」

「まあそれは誰でもいいじゃないですか。ともかく急いでまして」


 何だかな、と思いつつも、滅多にない仲忠からの直接な頼みに、祐純はまあいいか、と頼まれる。

 身分が高く、かつ親しい人ではないといけない。そういうことだろう、と彼は了解したのだ。

 仲忠は几帳を祐純や、極親しい人々に持たせ、自分は兼雅の殿上用の沓を母に履かせるために人に持たせていた。


「早くお降り下さいね」


 すると母北の方は驚いて問いかける。


「降りるのですか」

「はい、降りて下さい」

「でも、見物なら、車の中で出来るでしょう?」

「ええ、でも今は」

「降りもしない、桟敷も見えないから、どういうことだろうとぼんやりしてしまいました。降りて何処へ行けとあなたは言うの?」

「その辺りには少々目をつぶって下さいな。僕が悪い所に連れて行くことは無いことくらい、ご存知でしょ」

「まあ、すっかり騙されたわね、ずいぶんと妙な参内だこと。まさかこんなことになろうとは思ってもみなかったわ。ひどいこと」


 しかし母北の方は、うつほで暮らすことを決めた時から、仲忠の言葉には従うことにしていた。自分には何もできないのだ。

 彼女は意を決して車から降りた。 

 童四人が几帳を持って最初に降り立った。

 その後に仲忠、北の方、女房達がついて行く。

 仲忠は北の方に沓を履かせ、裳を取り、髪の乱れを繕う。その甲斐甲斐しく世話をする仲忠とその母の姿は、端から見ても、大変美しいものだった。

 仲忠は身仕舞いをすると、自分も他の君達と一緒に、母の周囲を几帳で囲う。

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