宝貝の海路

秋津廣行(あきつひろゆき)

第1章 西海の潮(うしお)

(1)かしこねの海

第1話 豊浦宮の弔い

 

 比古次神ひこじのかみは、豊浦宮とようらのみやの落成を心待ちにしていたのだが、このところ響姫ひびきひめの体調が思わしくなく、祝いの日だと言うのに、晴れ晴れとした気持ちにはなれなかった。


 豊浦とようらみなとには、阿波あわのスイジニとウイジニ、秋津大宮あきつおおみや大戸之自おおとのじ大戸之辺おおとのべをはじめ、淡路あわじの島、姫島ひめしまなど瀬戸の多くの島々から、それに葦原あしはらの里からも喜びの船が集まり湊を一杯にしていた。


 だが、そこに愛媛えひめの姿はなかった。愛媛えひめは、乙姫(今は、大戸之辺神)の姉で十年前に、比古次神ひこじのかみと結ばれ、二人の間に子が産まれたのだが、残念ながら姿なき水蛭子ひるこであった。愛媛えひめは悲しみのあまり、それ以後は、比古次神に会うこともなく、伊予宮いよのみやに引きこもって、新しい豊浦宮とようらのみやには、全く心を開くことはなかった。


 響姫ひびきひめは、地元、豊浦姫神とようらひめかみの娘であった。比古次神ひこじのかみは、産み月に入った響姫ひびきひめを、新しく豊浦宮とようらのみやに迎えようとしたのだが、このような時に、響姫ひびきひめもまた、体調が思わしくなかった。


 新宮の庭には、春を待ちわびた木々の花々が一斉に咲き乱れ、海を見つめる磐座いわくら拝殿はいでんを華やかに飾っている。拝殿には多くの祝い客が集い、やがて始まる落成の祭祀を心待ちにしている。


 磐座いわくらには海幸、山幸の供えが所狭しと捧げられ、その先は、果てしなき海原が広がっている。いつきの庭は小高い丘になっており、ここからは、湊に浮かぶ大小の船が一望できる。

 今日は、入り日の太陽が真西に沈む日である。その姿が海の向こうに沈み込もうとしたとき、光の道の彼方に小さな島影が映った。響きの神島である。


 比古次神ひこじのかみと身重の響姫ひびきひめは、そろって磐座に現れた。沈みかけの入り日に向かって恭しく拝礼を行い、あめつちにそれぞれ柏手かしわでを打った。斎の庭に集まった皆々も祭主に合わせて柏手が打たれると、豊浦宮の落成の祭祀は始まった。


 入り日の差し込むのどかな空気の中で、比古次神ひこじのかみは祝詞を捧げた。高天原を下り、瀬戸の海の様々な出来事が思い浮んだ。そして、今、響きの海に向かう比古次神ひこじのかみは、あめつちの神々にこうべを垂れ、この新しい宮の落成に感謝した。比古次神ひこじのかみは、ここに集いし皆々に命あることを喜び、心よりの言霊ことだまを捧げた。


 祈りが終わると、青紫の光に覆われた。たった今、沈んだ太陽を追いかけるように、微かな光芒が水平の向こうからあめうみを照らしてる。


 あめつちの荘厳なひと時が幕を閉じると、斎の庭では松明が赤々と燃え始めた。大戸之自神おおとのじのかみ大戸之辺神おおとのべのかみの二柱は、それぞれに松明を持って斎の庭の真ん中に進み、空に高々と据えられた組木に火を灯した。祈りの場は、たちまちに明るくなり、活気に満ちて、みなみなの喜びの顔と顔を映し出した。宴が始まった。


 だが、宴の賑わいと、ときめきの声は長くは続かなかった。その目出度いお祝いの満月の夜、響姫ひびきひめは月も満たないまま急に産気づき、子を産み終えると息を引き取った。しかも、その子は、産声を上げることもなく母神の後を追った。斎の庭の空気は一変した。夜を通して悲しみの声は尽きず、しめやかに満月の光が斎の庭を包み込んだ。


 夜が明けると比古次神ひこじのかみ響姫ひびきひめもがりに入ったが、曽良そらを呼びつけて水蛭子ひるこの弔いを別にするように頼んだ。


「はて、母神とは別に弔いをせよとのことでありますか。いかようにとり行えばよろしゅうございましょうや。」


 比古次神ひこじのかみは、拝殿はいでんからはるか向こう、響きの海を眺めていた。

「この子は、新しき豊浦宮ようらみやの子となる若宮わかみやであった。この宮の行く末を見守るべき若宮わかみやである。われらが宮は新しき海の里にありて、この響きの海の神々に従わねばならない。命尽きたとはいえ、若宮わかみや豊浦宮とようらみやの守り神である。これより若宮わかみやの身体を麻綿あさわたにくるみ、くすの木箱に入れ、入り日の海に出よ。葦原あしはらの姫神タツルを訪ね、響きの海に相応しく葬ってくれ。」


「われらも海の民。しかと承りました。すぐに準備を整えまして出立致しましょう。」

 曽良そらは、櫛彦くしひこ久治良くじらと共に比古次神ひこじのかみを支えてきた。海が曽良そらを育て、曽良そらは海に溶け込んで育った。今では、秋津洲あきつしまを巡る綿津見わたつみ族の若頭である。


 曽良そらは早速、息子の八潮やしおを連れて船を出した。船中に神籬ひもろぎをつくり、若宮の亡き骸を包んだ木箱をその中にまつった。若宮の木箱は八潮やしおが付き切りで見張った。神籬ひもろぎの船は、潮目に逆らわず、海に出ると南に向かい、昼過ぎには葦原の湊に入った。


 すでに知らせを受けて待っていた葦原あしはら姫神ひめかみタツルは、湊の船溜まりに、比売次ひめじと共に出迎えた。二人は、ゆれる船中に乗り込むと、神籬ひもろぎに入り、若宮を弔った。新しき麻の御幣みぬさを隅々に懸け、小さな新珠を木箱の中に添え、かしわ手を打って捧げた。


 弔いの祈りを捧げ終えると姫神タツルは比売次ひめじに向かって、

比売次ひめじよ、これより曽良そらと共に、響きの海に出て、若宮わかみやの弔いを行ないなさい。響海神ひびきうみかみふところに高天原の魂をお届けなさい。若宮わかみやは、豊浦とようらの新しい守り神となられるでありましょう。響きの海にはいり、孤高の島、神島かみしまを目指しなさい。必ずや、海神うみかみのお導きがありましょう。」


 曽良そら比売次ひめじは、姫神タツルに深々と首を垂れると、湊を出た。

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