メリーさんとウチに来る課長が帰ってくれません

 俺が今勤めてる会社には鬼課長と呼ばれてる上司がいる。その課長は仕事に厳しい人で、他人にも自分にも一切の妥協は許さない、そんな人だ。なので別の課の人間からは結構怖がられてるらしいが、真面目に仕事をしていればちゃんとした評価をしてくれるということで、同じ課で働く同僚たちからは少し怖がられもしているが、尊敬されていた。もちろん俺も同様だ。


「ちょっと木内くん、いいかしら」

「なんでしょう花村課長」

「君が出してくれたこの書類、こことここの数字違ってるわよ」

「あ、すいません。すぐに直します」

「お願いね」


 課長から書類を受け取ると、すぐさま自分のデスクに戻り修正する。座るなり同僚の川本が話しかけてきた。


「先輩、課長に何言われたんすか?」

「何って書類に不備があったからそれを直すように言われただけだよ」

「なーんだ。てっきり課長にここをこうしないとダメでしょ。これはお仕置きが必要ね、なーんて言われたのかと思ってたっす」

「どんなイメージだよ課長」


 どうやら川本の中では課長はSMの女王のように見えているらしい。まぁメガネの奥に光る、あのキリッとした目つきで睨まれたいなんて物好きがこの会社には一定数いるらしいから、そう見えても仕方ないのかもしれない。というより、転職先間違えたかな……。


「いーっすよねー先輩は。俺なんて課長に怒られることないっすから」

「いやいや、普通は怒られたくなんてないぞ」


 俺がやれやれとした気持ちで言うと、川本は「わかってないなー」と呆れていた。呆れたいのはこっちの方だった。


 そんなやりとりをしているともう一人の同僚の柴田がやってきた。


「おい川本。そんなに怒ってほしいなら俺が怒ってやろうか?」

「え、あ、いや、俺が怒られたいのは課長で柴田さんじゃ……」

「まぁいいから付き合えや。じーっくりと話聞いてやるからよ」


 そう言って柴田は川本の襟首を掴むとそのまま引きずっていった。あとでありがとうと言っておこう。


 ちなみに俺が前の会社にいたときの取引相手がこの会社で、担当していたのもこの部署のこの課の人たちだったこともあって、前からそれなりに親交はあった。そのせいか、この会社では後輩になるはずの俺は年下の川本から先輩と呼ばれ、同い年の柴田とは同じような立場で接することになっていた。もちろん花村課長とも面識はあった。取引相手としては怖そうな印象を持っていたこともあったが、こうして一緒に働くようになってから見方が少し変わった。……いや、大きく変わったと言いかえたほうがいいだろうか。



 いつもの週末、俺の部屋の前にはメリーさん(今日はちゃんとゴスロリ)とアンジェリカ、あと……花村課長がいた。


「だからアタシこう言ってやったのよ! この分からず屋がー! ってね!」


 右手に缶チューハイ、左手に焼き鳥串、アイロンのかかっていたはずのパンツスーツはヨレヨレという伝説の装備、いや酔いどれ装備に身を包んだ課長がクダを巻いていた。こんな姿を川本が見たら卒倒するだろう。今まさに俺が卒倒したい。


「課長、もうその辺りにしておいては……」

「あぁん!? なによ、キューちゃんはアタシさらこの癒しの時間を取りあげようってのかい? そうは問屋がおろし金だよ!」


 こちらを舐め回すように睨みつけながら威勢よく啖呵を切る。ちなみにキューちゃんというのは、木内ちゃんがきうちゃんとなり、きうっちゃんからキューちゃんになったというわけだ。決してマラソン選手でもオバケでもない。


「キューちゃんたら酷いんだよー。アタシがこーんなに疲れてるのに労わりもしないでガミガミと口うるさくてさー。アタシを嫌らしい目で見てくるエロオヤジの相手だって大変なんだから。もういっそ板割って労るとかどう?」


 そう言ってなにがおかしいのかゲラゲラと笑っていた。横で肩を組まれているメリーさんはずっと目が死んでいた。時折、「あははー、そうでふねー」と滑舌が悪くなるくらいに生気がなかった。正直、やる気のないキャバ嬢だってもう少し愛想がいいと思う。


 チラリとアンジェリカを見ると我関せずといった様子で紅茶を啜っていた。


「キューちゃん! アンタも飲んでるかい?」

「え、ええ。飲んでますよ」


 俺は持っていた缶ビール(既に中身は入っていない)を一気に煽る。その飲みっぷりに気を良くしたのか「よーし、じゃあアタシも負けずに行ってみよー!」とこの日五本目のビールを空けていた。


「っぷはー! やっぱこのために生きてるって感じよね! ビール片手に傍らに美少女! これで桜の花でもありゃパーペキなんだけどねー」


 課長はメリーさんの肩をぐわんぐわんさせて気分上々、それに反比例するように俺たちの気分は下降する一方だった。


 なぜこうなったかというと、ある日課長が帰り道に立ち寄った弁当屋でとんでもない美少女を見つけた。まるで人形のような美少女に一目で心を射抜かれた課長は、それからというもの毎日のようにその弁当屋に通った。そしてその子がどの曜日のどの時間にいるかを調べ上げ、今度はその子の仕事が終わるのを待ってその子がどこに住んでるか突き止めようとした。そしてその子の後をついて来た結果が俺の部屋の前ということだった。よく見たらあれは会社の部下じゃないか。なるほどあの美少女と仲が良いというとこは、わたしとも仲良くなるチャンスがあるということだ。それなら彼を介してお近づきになろう。そしてあわよくば……というのが課長の言い分だった。要はメリーさんのストーカーというわけだ。蓼食う虫も好き好き。メリーさんも厄介な人に好かれたもんだ。


「そいやさー、なーんでキューちゃんはドアチェーンなんてしてるわけー? 上司が来たんだから快く中に入れようと思わないわけー? あ、まさか女子の上司を部屋に入れたら情事で常時大変なことになるからかな! あはは!」


 ……もうね、早く帰ってくんねーかな。あと、女子っていうけどもう三十路だろアンタ。そんな言葉が喉元を駆け上がってくる。それを察したのかアンジェリカが目で止めておきなさい、と留まらせた。


「メリーちゃんだってキューちゃんのお部屋入りたいよねー?」

「え、あ、そ、そうですね。わたしの目的は木内さんの部屋に入ることですからそれは願ったり叶ったりですが」

「じゃーその願いおねーさんが叶えてあげよう! その代わりお願い叶えたらメリーちゃんアタシとチューしようチュー!」


 んー、と課長がメリーさんににじり寄る。メリーさんは「ひぃっ!」と顔を引きつらせてなんとかその魔手から逃れようとしていた。メリーさんにとっては千載一遇のチャンスのはずが、四面楚歌、万事休すな状況になっていた。


「よーし、キューちゃん早速だけどそこのチェーン外しなさい」

「え、嫌です」

「な、なんだってー!?」


 ババーン! と効果音が付きそうなくらい驚いていたが、普通に考えて開けたら今より遥かに面倒なことになるのに開けるお人好しはいない。


「くっ、こうなったら……。木内くん、ここを開けないと今年のボーナスの査定どうなるかわかってるわよね? 貴方の処遇なんてわたしの言葉一つで何とでもなるのよ!」

「とんでもないパワハラだな!」


 職権濫用甚しい。なんでこんな人が俺の上司なんだろうな……。


 そんなことを思ってる間もずっと課長は「あーけーてー! あーけーてー!」と駄々をこねる子供のようにチェーンをガシャガシャやっていた。どうしてやることはみんな同じなんだろう。


 仕方ない。こうなったらもうこの手しかないみたいだ。


「わかりました課長。課長の命令通りこのチェーンを外します」


 言うと課長とメリーさんの顔がパァと明るくなった。だが続きはここからだ。


「その前に一つ確認。メリーさんいいのか? 俺がこのチェーンを外したらお前は課長にキスしないといけないんだぞ?」

「うぐ……」


 どうやら俺がなにを言わんとしてるのか気付いたようだ。そりゃそうだ。このチェーンを外すのは俺の意思ではなく、あくまで〝課長の命令〟なのだ。となると、俺がこのチェーンを外すとメリーさんは約束通り課長とキスをしないといけないことになる。それが約束というもの。おいそれと反故にしていいものではない。さぁどうするメリーさん?


「……か、課長さんに一つ確認なのですが」

「なぁにメリーちゃん?」

「……き、キスというのはもちろん頬にかるーくですよね……?」


 メリーさんが恐る恐る尋ねる。しかし返ってきた答えは、


「え? なに言ってんの。もちろん口と口に決まってるじゃない。それも濃厚なやつでね♪」

「いやあぁぁぁぁ!」


 恋する少女のように嬉しそうに答える課長。対してメリーさんは真っ白になっていた。

「きう、木内さん! 助けてください! このままではわたしの! わたしが危険です!」


 アワアワしたメリーさんが言葉にならない言葉で助けを求めてきた。


「まぁいいんじゃない? 別に減るもんじゃなし」

「減りますよ! わたしのメリーさんとしての威厳がごっそり抜け落ちますよ! いいんですか!? いいーんです! じゃ済まされないんですよ!?」


 メリーさんが懇願、いや哀願するようにドアにもたれかかる。


「早くー。キューちゃん早くー開けてー」

「開けないで! 開けないでください! 木内さん!」


 なんか俺の部屋のドアが騒がしいことこの上なかった。アンジェリカは持参したスコーンをお召し上がりになられていた。


「ほらキューちゃん早くー」

「開けないでぇぇぇぇぇ!」

「メリーちゃんいっそのこと先払いでもらってもいいかなー? いいよねー!」


 メリーさんが羽交い締めにされていた。どこからそんな力が湧いてくるのかメリーさんが必死にもがいてみるが一向に解ける気配はない。


「メリーさん」

「あ、アンジェ……もしかして助けてくれるんですか……?」

「もう夜も遅いから先に帰るわ。課長さんとごゆっくり♪」

「いやあぁぁぁぁ!」


 思わず見とれてしまうほどの笑みで最後通告。どうやら仲間にも見放されたようだった。


「くっ……こうなったら。木内さん! 今日のところはここで帰ってやりますが次は次こそはかならずその部屋の扉をブチ破ってやりますから! 覚えてやがれです~! 待ってくださいアンジェー!」


 涙目になりながらメリーさんはアンジェリカの後を追って閉まるエレベーターへと消えていった。


 残されたのは俺と花村課長。課長は去っていくメリーさんの後ろ姿をじっと見つめていた。


 なんか悪いことしたかな。さっきまで楽しそうにしていた課長は缶ビール片手に寂しそうにしていた。


「ねえキューちゃん」

「なんですか課長」

「ぎぼぢわるい……ドイレがじで……」


 ……寂しそうにしてたんじゃなかった。もう限界だったんだ。その証拠にブルブルと震えていた。俺はそっとドアチェーンを外すと、今にも吐き出しそうな課長を家の中へと迎え入れたのだった。

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