第17話 なんだか怖い、苦しい、でも…

 月代先生のティーサロンの奥の、居住部分に続くドアの、まるで、ナイフで切りつけたような傷、傷だらけのドアノブ。そして、

『お客様はこれから、月代先生の紅茶教室にいらっしゃるんでしょう?』

『月代先生のお教室にいらっしゃる方は、ひと目見て、すぐ分かりますわ』

 と近所の人が言ったこと。


「……何も言わないのに、どうして分かったのかしら?」

 と、初めて紅茶教室に来た、ふくよかで人のよさそうな女性に、のんきに訊かれて、月代先生が顔面蒼白になったこと。答えがなかったこと。


 月代先生に感じていた、自分でもうまくいえない、けれど積み重なっていく決して消えない違和感が、ドアの傷、その不可解な言葉によって増幅され、大きくなり、違ったものに変わっていった。


 ――なんだか怖い。本当は、ずっとそう感じていた気がする。……月代先生も、あのティーハウスも、うまくいえないけれど、怖い。どうしても怖い、苦しい。逃れたい。


 私はこの頃、いや、おそらくずっと前から、この気持ちを自宅でも伝えていたのだけれど、理解はされていなかったと思う。


 月代先生が、「とっておきのお菓子」を出してきて、出しただけ、すべて食べ終えさせるまで客を絶対に帰さず、私が記事を書かなければ寝られないから、と訴えても無視したこと。笑顔で、「今日、寝られるといいわね!」と言ったこと。私はその晩本当に寝られなくて、記事もいいものにはならず、そのミスがたたって、その紹介者から辛辣な評価をうけ、しばらくその人からは仕事がこなかったこともあった。


 その時も、自分の不安を家族に言うと、

「月代先生は一生懸命もてなして下さったのに、そんな風に言わないの」

 だとか、だったら断れば済んだ話じゃないの、という言葉が返ってきた。


 確かこの日もそうで、帰宅するまでの電車の中で、それまでのことを思いかえしていたらますます気分が悪くなり、帰るなり寝こんでしまった。


 急ぎの締め切りがあるのに。少し回復してから泡を食って記事を書いていると、あっという間に、李先生が来日する日が近づいてきた。


 本当にこの忙しい中、月代先生と一緒に、李先生を迎えにいかなければならないのだろうか。滞在のお世話も手伝わなくてはいけないのだろうか。どうせ、ろくなお礼も、感謝の言葉もないのに……。


 前からそうだった。私には他に、年が離れた、うちより裕福で、地位も名誉もあるのに、私を「友達」と呼んでくれる女性の仲間がいるが、彼女は比較的遠くに住んでいても、一緒に食事をするさいは、二回に一度はうちの近くの店に来てくれる。遅刻をほとんどしないし、頼みごとをした時は、お礼をしてくれる。


 A市から横浜のお宅に行くのにどれくらい時間がかかるか、今、忙しいことも何度も何度も言っているのに、月代先生はいつも無視している。


 最近、先生から連絡がある時は、大幅に遅刻してくるか、気軽に遠くに呼びつけるか、無償で何かしてくれ、という内容、もしくはその複合型だ。「よき友達でいたいから、こうしてくれませんか」と相談したり、頼んでも、改善されたことがなかった。


 この頃、特にそうだ。あの家の維持費が大変、ということは最初から聞いていたけれど、言われる頻度が増しているように思う。

 私が気にしだしたからそう感じるのだろうか。それとも、何かあったのだろうか。


「新聞は読んでる?先月……」

「月代っ、やめなさい!人様にお話しすることじゃない」

 

 あの言葉が私の脳内に蘇った。


 月代先生のあの顔、気の毒だった。旦那さんとのあの仲睦まじい姿……やっぱり、私の寛容さが足りないのだろうか?


 ああ、それにしても記事がなかなか進まない。……自慢でもなんでもなく、「グルメライター」になってから、いい職業ねだとか、なんの苦労があるの、だとか、よく言われるが、苦労がないなんて間違いだ。どんな職業でもそうかもしれないけれど……。


 眠い。苦しい。記事が締め切りにまにあわなかったり、間違いがあったら、大変なことになるのに、また時間がない。もういくら頑張っても、どうしようもないかもしれない。

 

 苦しい。誰かに分かってほしい。苦しい。怖い。


 その時、机の横に置いてあったスマートフォンから着信音がした。月代先生だった。もう夜の十二時近いのに。


 私は、わ――っと泣いた。それには出なかった。十二時を過ぎてからラインのメッセージも入っていたけれど、読まなかった。


 布団に入って少し仮眠し、起きたら、なぜかあっけなく記事が書けて、夜明けまでにメールで提出できた。


 お昼に編集部の担当者から返事がきて、

「いいじゃない。こういうのが欲しかったんだよ」

 とべた褒めされたが、素直に喜ぶ気にはなれなかった。この前の記事はひどい言われようだったのに。


 本人は否定するかもしれないが、この人の食や店の好みは私と全然違う。そして、自分の好み以外は認められない人なのだ。

 先が思いやられる。一度話しあった方がいいのだろうか。他のライターはこんな時、どうしているのだろう?


 そういえば最近、月代先生とのつきあいが密すぎて、時間もかかるし、他の人と疎遠になってきている。それに、目上の人がこんなに頻繁に誘ってはいけないはずなのに。

 うまく断れない自分にも原因があるのだけれど、頑張って程よいつきあいをしようとする努力しているつもりが、なぜかこうなってしまう気がする。


 華乃さんとか、どうしているだろう。連絡をしたかったが、疲れ切っているので眠ってしまった。


 起きると夕方だった。月代先生からの電話で私は起きたのだった。


 記事はまにあったが、李先生のお迎えか鎌倉の案内、どちらかだけでも断ろう。


 そう思っていたのに、電話に出ると、月代先生は、この前の激高はなんだったんだというくらい明るく、上品で、メッセージも既読になっていないから心配していた、元気そうでよかった、と嬉しそうに言う。


 それからのことはどう書いていいか分からないのだけれど、結局、私は李先生のお迎えに行くという返事をしたのだった。電話を切ったあと、また苦しくなった。自分にも原因があるのだけれど、私ばかりが悪いのだろうか。思ったままをいえば、とにかく苦しかった。(続く)

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