白銀の堅牢

koya

第1話

 彼は、父の名誉への庇護、母の身の保護と保証。家系、血統。その伝統と栄誉のために、祖国に身を捧げた。

 その彼、自らはといえば、力を利用され、肉体は貪られ、戦線へ出れば敵は愚か、味方にも「悪魔」と恐れられた。そう言われる度、その度に、母には「疫病神」「悪魔」「死神」などと罵られたなと、彼は他人事のように思い出し、知らず、僅かな自嘲の笑みが浮かべていた。

 肉体の苦痛、悲鳴を上げる心。それに気付かないふりをしては、「祖国の為、両親の為」と彼は自分に言い聞かせ、自らの悲鳴に耳を塞いでいだ。

 『戦場の悪魔』 彼はそう呼ばれている。彼は死を恐れない。故に他人の死に何の感情もない。自分がそう言われていることを、彼は知っていた。

 …言いたい連中には言わせておけばいい。

 それは違うと、彼だけが知っている。

 しかし、その心に反して提言する軍事案、その上に同胞達の屍を背後に、目の前に敵国の兵の屍の山を築き上げる。そんな輩が嘘だと叫んだとて、誰が信じるのだろうか。

 彼は、そのことも知っていた。

 故に、誰にも、何も言わず、ただ一人、戦争の天才、戦場の悪魔であり続けた。

 彼が内包する悲しみは観念を呼び、激情は既に凌駕され、いつしか、彼自身に涙すら忘れさせた。

 …死を迎えてなお、自分は「悪魔」として、歴史に名を刻むことになるだろう。それで、構わない。

 だが、自らの一族、その歴史と栄誉を守るためにと思った自分が、その氏族の歴史において最悪の人間として名を残すことになるであろうとは、皮肉を通り越して滑稽だとすら思えた。


 白銀などと言えば聞こえは良いが、外は色彩が入る余地などないとでも言いたげな白世界と、重苦しい灰色一色の曇天だけが広がっている。

 この、光すら拒むかのように閉ざされた世界に、抱く希望は何一つない。彼の翡翠を思わせる緑色の瞳は、既に希望など写さなくなって久しい。




「レオーノフ少佐」

  脇に差した軍刀の柄に片手をまかせ、呼ばれるままに振り返る。長く伸ばしたプラチナブランドが従うかのようにサラリ流れ、それを手で払うと、もう尋問の時間かと、彼は短い溜息を漏らした。

 しかし、本国も悪趣味なものだ。「悪魔」と謗られる自分に鞭を持たせ、相手に口を割らせる。実際に、何人かは鞭を振るうまでもなく口を割らせてはきたが、鞭を振るった人数の方が圧倒的に多い。当然、他の捕虜への見せしめの意味合いもあるのだが、ここまで来ると、呆れを通り越して笑いすら込み上げてくる。

 実際、この案を提案した男のマゾヒズムは知っているが、自分が鞭を持った姿を見た時に、「美しい悪魔だ」と喉を鳴らしたのには、はっきりとした嫌悪を覚えたものだ。

 彼自身は無頓着…利用できるものの一つぐらいにしか認識をしていないが、彼の容姿は端正を超えて美麗だと言える。華やかと言うより、湖面に写し取った月や、日陰の薔薇のような儚い美しさがある。切れ長の目を飾る翡翠の瞳と、長く伸ばしたプラチナブロンド。すっと通った鼻筋と、軍人らしからぬ、透き通りそうなほどに白く、きめの細かい肌。しかしながら乏しい表情は、それらを全て冷たい人工物のように見せていることも、また確かだった。

 今回のその尋問相手は捕虜の空軍中尉だが、彼へこの悪趣味な尋問などしても時間の無駄でしかないだろうと、会ってすぐに分かり、形式的に一度やっただけで辞めた。彼は不合理を好まず、また、その趣味もない。

 尋問室という名の拷問部屋。そこに天井から両手を繋がれた彼を目の前にして、まず目についた身体に刻まれた無数の傷に眉を顰めた。

「…君が、新しい所長…?」

 弱々しく問う声に答える代りに、壁を鞭で打った。反射的に自分の身体が打たれたものかと思った彼の歯の隙間から、噛み殺しきれなかった悲鳴が僅かに零れた。

場所を執務室に移し、扉の外の兵が聞き耳を立てていることを牽制する意味合いで机を打った。鞭が派手に音を立てると、謀らず、それに続くように彼が悲鳴を上げた。

 兵が驚きと恐怖に足早に去っていく音を扉越しに聞きながら、無駄に悲鳴を上げた中尉に苦笑した。

「不意を打たれたかと思ってつい…。構えていれば、その、悲鳴も殺せたのだが…」

 何故か申し訳なさそうに言う捕虜が可笑しかった。

「面白い人ですね。…貴方を鞭で打つ気はありませんよ。拷問でも口を割らない相手に、鞭など振っても仕方がないでしょう?あいにくと、そういった趣味も持ち合わせていませんので」

「そうなのか?」

 意外だとでも言いたげだ。

「…どういう意味です?」

「いや、その…よく似合っているから」

「何がです?」

「鞭が」

「…鞭打ちをご希望で?」

「いやいやいや!そうじゃない!」

 面白い捕虜だと思った。

 あの時は久々に笑わせてもらった。そんな対面だったなと思いだし、それが近いうちに、ただの空虚な、思い出話にもならない過去に成り果てるであろうと予感していた。

 …いや、最早、確信と言えるかもしれない。




「お通ししろ」

 わざと嘲るように言うと、心得たようにオリバー・ノア中尉が両手を拘束されて連れて来られた。最初に会った頃よりも窶れたなとは思うが、顔には精悍さが増していると思う。 短く刈った麦の穂を思わせる黄金色の髪と、何処か獅子を思わせる、男らしいと形容して支障ないであろう顔立ち。空色の青い瞳は今もってなお力強い。

 この空間に在りながら、彼は何も諦めていない。ましてや、絶望などしていない。不思議なものだと思う。

 捕虜よりも自分の方が、よほどに諦めている。その現実が不思議と面白く思えた。

「外せ」

 退室を促してすぐ、部下が敬礼を返して出ていく。ドアが閉まったのを確認した瞬間に、彼は軍刀を引き抜き、寸分の狂いもなくオリバーの両手を拘束する縄だけを断ち切った。

 軽く手首を回して両手の自由を確認するかのように動かし終えると、オリバーは疲れた表情で、それでも微かな笑みを称えて、彼に礼を述べた。

「…貴方ほどの気力と体力なら、脱獄など容易では?」

 軍刀を鞘に収めながら問うと、まさかとオリバーは首を横に振った。

「例え出られても、ここは敵国だ。逃げおおせるわけがないさ。…それに、私が逃げたら部下達はどうなる?捕虜の心得ぐらいはあるよ、レオーノフ少佐」

「賢明です」

 暗号を傍受し、割り出した合流地において、敵国の陸海空それぞれの軍の小隊の捕縛に成功し、この収容所に収容しているが、陸よりも海よりも空襲が一番の警戒対象だと、空軍に在る彼から、襲撃空路と潜伏基地を吐かせろとの命令だが、どんな拷問にかけたとて、オリバーは決して口を割らないだろう。

 彼、ミハエル・レオーノフ少佐がこの収容所の総責任者に就任する前は酷い拷問を受けていたようだ。 極寒の地で上半身を裸で強制労働させ、さらに外牢で拘束されたりもしていたようだ。鞭打ちなどとっくの昔にされたのだろう。

 …よく、死ななかったものだと思う。

 軍人にとって頑健な身体は誇るべきものだが、ひとたび捕虜に落ちれば、頑健さなど苦痛を長引かせるだけのものだ。

 窓の外、凍てつく灰銀色の景色をちらと眺め、ミハエルは手ずから淹れた紅茶をオリバーの目の前に置いた。白磁器で金彩の囲いと青いコバルトネットが縁に装飾された美しいティーカップから、熱い湯気と優雅な芳香が上っている。

「どうぞ」

 本来は尋問相手に出すものではないが、名ばかりの尋問の時間に、自分だけ茶を飲むのも気が引け、いつの頃からかオリバーにも出すようになった。

 ゆるゆると熱い紅茶を口に付けるだけで、ミハエルは尋問など一向にはじめようとしない。そんなことはするだけ無駄だと初見の時点で気がつき、無駄なことにわざわざ労力を割く気もないからだ。

 何回目かの時だったろうか、尋問を目的として連れて来られたはずの捕虜に、「今日も尋問をしないのか?」と問われたことが可笑しかった。

「…聞きたいことがあるのだが?」

「尋問されるのは貴方のはずでは?…それとも、何か話す気になりましたか?」

「…いや、私に祖国を売ることなんてできない」

「なら、時間と体力の無駄ですね」

「冷めますよ」と続けて、ミハエルは再び紅茶のカップに口をつけ、やがて空になったカップをソーサーへ優美な仕草で戻したのと同時に、ゆるやかな沈黙を破った。

「あぁ、そうだ。一つ、お教えしましょう。…貴方と、貴方の部下の方々も、近いうちに解放されます」

 そう言って優しく微笑んだ。柔らかく、オリバーの帰国を喜んでくれているかのような、そんな、心底美しいと思える笑みだった。

「本当に!?」

「えぇ」

 嬉しさと驚きに立ち上がるオリバーに、ミハエルは微笑んだまま肯定の言葉を口にした。

「…今度は、私が捕虜になる番です」

「…え?」

 それが何を意味するかなど、測れない方が愚かだろう。

 ミハエルは後ろにある窓を仰ぎ見て、ここではない、どこか遠くに視線を向けていた。

「我が国の敗北は目前に迫っています。上層部は国民に隠してはいますが…、…時間の問題だというのに、愚かなものです」

 私も、その愚か者の一人ですがね。そう付け加えてミハエルは笑みを深くした。

 再び、窓からオリバーにミハエルの視線が戻された時には、彼の笑みの意味も、質も、全く別のものになっていた。向けられた誰もが一瞬でわかる、心底冷たい、自嘲の笑みだった。

「貴方とお会いできるのも、あと何回になるのかわかりません。…先にお祝を申し上げます。おめでとう、ノア中尉」

 国同士の争いであるかぎり、勝敗があるのは当たり前だ。でなければ終わらない。だが、勝が正義となり、負が悪となるのは戦争の常。歴史とは勝者が作り上げ、高らかに謳うもの。

何故なら…

「敗者は消えねばなりません」

 将校粛清。政治や軍の中核に位置する者達は勝国主導の正義の元で裁かれ、消される。それを躊躇う勝国などなく、当然、今ここにいるミハエルとて、例外などではない。それどころか、戦場においては悪魔と言われた彼だ。少佐という地位を抜きにしても、処刑はまず免れない。

「…お茶を、もう一杯いかがです?」

 微笑を湛えた、ミハエルが聞いた。

 自らの祖国の勝利を、オリバーが知るのはその一週間後。

 祖国からの応援要員の兵達が加わり、ミハエルとオリバーの収容所での立場は逆転した。


 極寒の地、その収容所の最高責任者はオリバー・ノア空軍中尉。

 そして、この収容所における、最高戦犯はミハエル・レオーノフ陸軍少佐。




「中尉も災難っすねー。こんな極寒僻地に」

 そう言ってきたのは初期から自分の部隊にいた若者だ。まだかなり若く、オリバーより十歳近くは下だろう。軍に入るときに告白を受けてくれた彼女がいると言っていた。ロケットペンダントの写真を見せて「待っている」と言ってくれたと、嬉しそうにオリバーに語ったことがある。昨夜は、その言葉を胸に、強制労働にも拷問にも耐え抜いたと誇らしげに仲間たちに語っていたのを知っている。

今、彼の胸元にある銀製のロケットは、ミハエルの前に所長に没収され、ミハエルとオリバーの立場が逆転するのと当時に、捕虜となった時に没収された他の人達の私物と同じようにオリバーから返還されたものだ。

 その時を思い出し、感謝の言葉を述べる部下たちに、感謝されるのは自分ではないと言いたかった。…言えたらどんなに良かっただろう。

「仕方がない。上層部は今、裁判や調停に忙しいだろうからな」

 実際、本国は戦後の混乱もあり、忙しくはあるだろう。しかし、根本的な問題として、この極寒僻地に来たがる者好きなどいるわけがなく、丁度いたオリバーが体よく所長に起用されただけの話だ。

 あの日、ミハエルから目前に迫っているという祖国の勝利を聞いた時、ミハエルはこうなることを予想していた。

 まるで事務仕事をこなすかのように、オリバーに、捕虜たちの私物を保管させていることや、その保管場所、加えて食糧や武器、弾薬の保管場所や医療品の保管場所、捕虜の埋葬場所とその報告書の場所まで丁寧にオリバーに説明していった。

 全て、自分が所長となった時に困らぬようにと考えてくれていたのだ。

 だが、実際は、部下達は悟られぬように話しているつもりのようだが、ここをオリバーが仕切りだしてから、兵士達の不満は散々たるものだと知っている。

主に捕虜となった兵達への扱いをオリバーが厳しく律しようとしているのが原因だ。

 それに加え、この極寒であり僻地の場所に自然の猛威によって閉じ込められているという閉鎖感と曇天の圧迫感。自分たちが捕虜であった頃の扱い。

 ミハエルが赴任してきてから、無用な暴力をやめさせる傾向にはあったのだが、見ていないところで鬱憤を晴らすのは下部の常であるし、相手は「敵」であるという認識と差別、今回は勝者の愉悦がそれに拍車をかけている。

外に近い、岸壁を掘って鉄扉をはめただけの灯りも何もない場所。日が照ろうとも日が差し込むことなどない、牢獄というよりも、岩牢にと呼べる場所にミハエルはいる。

 陸軍少佐という地位に加え、戦場においては悪魔とすら呼ばれた相手である。裁判までは絶対に出してはならないと国から厳命が下っていた。

 唯一、鍵を管理するのは責任者のオリバーだが、古びた鍵を見るたびに、紅茶を差し出す彼の顔が脳裏に浮かんでは消える。

 ミハエルは己の身の安全よりも、相手の、自分にかわり、ここを仕切る立場になるであろうオリバーのことを考えてくれていた。

 …そして、その配慮が、より一層、オリバーを切なくさせた。




「よぅ!オリバー、元気そうだな」

 今いる兵達を祖国に帰すという話は聞いていた。

 レオーノフ少佐の裁判、いや、言葉を濁さずに言えば、処刑されるまで引き上げはありえないだろうから、交代の兵が来ると聞いていた。その中に、この人物がいようとは思わなかった。

 ロバート・エルズワ-ス。裕福な家柄の出であり、どちらかと言えば、上層部に近い彼がここに来るとは予想外すぎた。

「ロバート!?どうしてお前が?」

「それがさ、向こうじゃ裁判だの調停だのばっかりで、復興の話も何にも無いし、非建設的過ぎてつまらないって言ったら、だったらオリバーんとこ行けってよ」

 腹が立つから本当に来た。と続けて、ロバートはがっしりとした右手を差し出した。

 家柄こそ違うが、オリバーはロバートの屋敷からの脱走を手伝い、草原を駆け、森の奥に、共に秘密基地を作った間柄である。あげく、ロバートは下町の方に顔が利く、一種の「変わり種」だ。

 今、本国では「本当に行くとは思わなかった」と話が沸いているであろうことは、ここにいるロバートは予想しているのだろうが素知らぬ顔である。

「それで、こっちは今どんな感じだ?」

 今、オリバーとロバートのいる部屋はミハエルが執務室として使っていた部屋だ。

 数週間前にミハエルが座っていた椅子に、今はオリバーが座っている。

「ここは閉鎖感がありすぎる。人工的にというよりも、自然の脅威だ。…兵達も限界が近かったから、今回の交代は助かるよ」

「本国にまで届いている。お前さんへの不満が」

「…至らない点も多いからな」

 心底申訳がなさそうに、オリバーは頭を垂れた。

「捕虜を好き勝手に嬲れないことへの愚痴にしかみれなかったけれどな。…あ、そうそう !来月あたり、少佐の処刑命令が下る。そしたらオリバーも大手を振って本国に帰れるな!なんて言ったって悪魔を討った英雄サマになるんだからな!」

「…。」

 明るく言うロバートの言葉からは、「祖国の敵を打つ」という感覚しか伝わってこない。しかし、それが当然。ロバートの方が普通なのだ。

 白磁器で金彩の囲いと青いコバルトネットが縁に装飾された、それ。ミハエルが愛用していたティーセットに気がついたロバートが、それに手をかけようとした瞬間だった。

「触るな!!」

 瞬間的に怒鳴ったオリバーに驚いたのはロバート だけではなく、怒鳴ったオリバー自身もだ。何故怒鳴ったりしたのかは、瞬間的過ぎてわからない。

「…すまない、それはレオーノフ少佐のものなんだ」

「へぇ。良い趣味だな」

 レオーノフ少佐。そう口にして、岩牢で一人居る彼の身を案じた。

 ティーカップを眺めていたロバートがオリバーを振り返り、その表情を見た。硬い表情をしていた。無意識なのだろうが、両手も膝の上で硬く握られている。

「…まぁ、近いうちに死ぬ人間なんだよな」

「…」

「敵だし」

「…」

「…戦場の悪魔、ね…。どんな奴だ?」

「…」

「噂じゃ、天使の姿に悪魔の心だとか聞いた」

「……ちがう…」

「違うのか?じゃぁ、天使の姿で天使の心…な、わけないな。悪魔の姿で悪魔の心なのか?」

「違う!!…違う!彼は…っ」

「彼は?」

 問い直されて、はっとする。

 自分は彼の、何を知っている?

 敵国の、陸軍少佐。自分を捕虜とした国の収容所、その最高責任者。

 …それだけだ。

「…綺麗な人だ。だが、彼は悪魔じゃない。それだけは、絶対に違う」

「ふーん…」

 そのまま押し黙ってしまったオリバーにロバートは重ねて問うことも、別の何かを聞くこともしなかった。

 ただ、何か切ないものを興味深そうに見るかのように、じっとオリバーを見つめていた。




 その日の夜、オリバーは見張りを下がらせてミハエルのいる岩牢へ足を運んだ。

 岩にはめ込まれただけのような鉄扉に、無数の軍靴の跡があり、ところどころに凹みまで見られる。見張り達が何度も何度もドアを蹴ったのだろう。ただひたすらに、投獄された敵という憎しみと、勝者の愉悦を込めて。

 光一筋すら射さない極寒の場所に入れられ、だが、決して、本国の、結果のわかりきった、形式だけの裁判、その裁可が下るまでは死なれないようにしながら、昼夜を問わず、激しい音の拷問と罵声を浴びせ続ける精神的な苦痛を強いる。

それを律しきれていない自分を、オリバーは激しく恥じた。

「…レオーノフ少佐、起きているかい?」

「……ノア中尉…?」

 弱々しく、だが確かに自分を認識して呼んでくれたことに、少しだけ安堵した。

「ここは寒さが一段と厳しい。毛布を持ってきた。あと、干し肉と乾パンも少し」

 こんな場所で、処刑を待つだけの、死よりも辛い生。 生きる地獄を思いながら、それでも、生きてくれ、生きてくれと心が叫ぶかのように、オリバーは願う。

「…今の私に、貴方にして差し上げられることなど、何もありません…お気持ちだけで十分です…」

「いや、良くない。君は私にとても良くしてくれた」

「…お茶を、淹れただけじゃないですか…」

 掠れた声が、微かに笑ったのが分かった。それだけでオリバーの心が少しだけ明るくなる。

 鉄扉の下方に、食事を差し入れる小窓がある。そこを押し開いて、承諾も取らずに持参した毛布と食べ物を押し込んだ。

 しゃがんだ弾みで見えた、鉄扉の影にあった食器に愕然とする。食べ残しを齧っていた、痩せこけたネズミは、オリバーの視線に気がついて一目散に逃げ出した。

「…少佐…、最後に食事が配られたのは、いつだ?」

「…ここでは昼夜すら分かりかねますが…恐らくは、二、三日程前だったかと…」

 冷えて、ひび割れて固まったチーズは、記憶違いでなければ、二日前にオリバーが小窓から無言で差し入れたもの。つまり、それ以降、ミハエルは食べ物を与えられていないことになる。

「……すまない…本当に、すまないっ…」

 自分の監督がどれだけ至らないか。

 捕虜として牢獄にいた頃、十分とまではいかずとも、食事だけはきちんと貰えていた自分を思い返せば、いかにミハエルの管理が届いていたかが分かる。自分は本当に至らない。

「…ここは、作物もロクに育たない土地です。私より、生きて行く方が食べるのは当然です」

 差し出された荒れた手に、オリバーがそっと触れる。冷たい、骨ばった手だった。

『生きていく方が食べる』

 その言葉に現実の残酷さを知る思いだった。彼が、既に自らの死を受け入れている、その現実が苦しかった。

 彼の処刑命令は近いうちに下るだろう。それを止めることは勿論、まともに食事を与えることすらできていない自分。何もできていない、してやれない自分が歯がゆかった。

 謝罪を繰り返すオリバーに何故を問うこともせず、ミハエルは手を握られたまま、その言葉を聞いていた。

「…貴方を…救いたい…」

 絞り出すように、オリバーがそう呟いた数秒後、微かだが、確かに「ありがとう」という言葉が聞こえた。

 そのまま、鉄扉を背にオリバーは朝までそこにいた。

 当たり前すぎるが、オリバーが「寒いね」と呟いた時に、ミハエルが「そうですね」と返した意外、何を話すでもなく、それでもミハエルの手を握ったまま、そこにいた。

 そしてオリバーの心を写し取ったかのような、重苦しい曇天の朝を迎える。

 それから、オリバーは毎日ミハエルのいる独房へ足を運んだ。

 食べ物の差し入れを固辞するミハエルを宥めて、何とか食べてもらおうと半ば強引に小窓から食べ物を差し入れ、長い時間を経てから、空になって出てくる食器に安堵する。

 ついに毛布まで持参して、鉄扉の外で朝を迎えるようになったオリバーに、ミハエルの呆れ混じりの微かな笑い声がきけるようになった。

 元々から口数の少ない人なのは分かっていたが、ポツリポツリと会話をするようにもなった。 話題はいつも他愛のないものだ。

 まだお互いが軍人でなく、国が戦争を始める遥か前の、平和で、何も知らなかった、子供の頃の話。

 こんなことをして父や母に怒られた。もしくは褒められた。こんなことをして遊んだ。そんな話をした。

 そのうちに、ミハエルは暗い牢の中で夢想する。

 幼いオリバーが駆けたという緑の平原。軍に入る直前に友人と行ってみた、子供の頃の秘密基地。夕日の燃える茜の空。彼が駆けた平原と茜色の空が交わるその向こう、そこに広がる紅が、戦火でなければいいと思い、そして願った。

 一年の半分が雪に閉ざされる土地で育ったミハエルの話は、家の中の話が多かった。

 そのうちに、オリバーは彼の手を握り、夢想する。

 ミハエルは幼い頃のことしか話してはくれなかったが、彼の家はとても暖かかったのだろう。暖炉の中で燃える薪の香りがするようだった。小さく爆ぜる音は暖炉の薪が立てる音。その炎はとても暖かく、ただ、優しく燃えるもの。その暖かな部屋で微笑む彼の姿を思い描き、そして願った。

 戦争がおこらず、平和であったなら望めたであろう光景を、お互いがお互いに思い描き、同じことを願った。


 …二度と、戦争が起らぬように。


 それから三週間が経過したある日、本国は無情にも死刑執行のリストを送り付けてきた。

 腕組みをたしロバートが、その書簡を開くオリバーの表情を見ていた。

 裁判の罪状は省かれ、死刑の執行命令だけが書かれた書状。その最初に書かれていたのは、当然といわんばかりにミハエルだ。

 そして、その書状には執行人も記載されていた。




『ミハエル・レオーノフ陸軍少佐を銃殺刑に処す。執行はオリバー・ノア空軍中尉とする』


  

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