第12話 寂しい日々の片隅で
ぴーちく、ぱーちく、雛が親鳥を呼ぶように。
今日も今日とて、小瓶の中ではあぶくが躍る。
『おさかな、こんにちは、げんき?』
『おさかな、エメリナとあそぼ』
『おさかな、くさ食べてる。おいしい?』
『ねえ、おさかな』
『おさかな~~~』
ジゼの近くを行き来する透明な瓶の中からは、『おさかな』の呼称が何度も届き、弾けては消えてを繰り返していた。
件の〝おさかな〟……と名付けられた馬は、荒野に生えたわずかな草をもそもそと食して時折エメリナを見るものの、特に目立った反応もなくまた草を噛む。しかしエメリナは嬉しそうに表情をほころばせ、『おさかな〜』と呼びかけ続けるのだった。
この状況に不服そうな顔をしているのはただひとり。
言わずもがな、ジゼである。
(マ〜〜ジで、うるせええ〜〜〜……)
はああぁ、と大袈裟なため息を吐き、小川の水で顔を洗う彼。
しばらく続いていた荒野も、そろそろ端に行き着く頃合だろう。干ばつや環境汚染の影響で年々渇いた土地が広がっている荒野だが、この周辺は水も草木も少しは残っている。
見慣れない植物が目立ち始め、風の匂いも少し変わってきたように思う。関所の門も鮮明に視界に捉えられるようになってきた──つまり、国境が近いということだ。
まあ関所を超えるには金が足らないけど、などと考えて、ふと、ジゼは両手で汲み上げた川の水に油のような不純物が混ざっていることに気が付いた。たちまち彼は辟易したように顔を歪め、濡れた顔を衣服で雑に拭う。
「……ったく。いつから川の水はこんなに汚れて濁っちまったんだ? 産業文明だか何だか知らねーが、いつの間にか川に汚染物流すのが当たり前になりやがって」
年寄りのような小言をぼやきつつ、ジゼはどこか遠くを見つめた。
ある小さな
魔法を失った人類が作り上げた産業文明は、この国に機械と科学による新たな力をもたらした。その代償に湖は枯れ、土が渇き、山火事まで起きて、森は消えた。
今、この国は未曾有の大旱魃に襲われ、人の住める環境ではなくなってきている。人の手で作りあげたシェルターの中でしか、もう人類は生活ができないのだ。
自分がまだ幼い頃、世界はこんなに殺風景ではなかったはずなのに。
「この国は、本格的にもうダメだな。……そろそろ、見切りつけねえと」
呟き、ジゼは腰を上げる。見切り、という言葉が心に重くのしかかって無意識に視線を落とした頃、『ジゼ~~~』と己の名を紡ぐ声が耳に届いた。
振り向けば、エメリナがしょんぼりと眉尻を下げている。
『ジゼ、たすけて……おさかな、ぜんぜん、エメリナとおはなししてくれない……エメリナ、かなしい……』
「はあ? 当たり前だろ、馬は喋んねーんだから」
『どうして?』
「どうしてって……そういうもんなんだよ」
『むぅ……』
納得いかないとばかりに不服げな泡が浮かぶ中、ジゼはエメリナのいる鏡をひょいと拾い上げる。「ほら、そろそろ行くぞ」と続けた彼は鏡をベルトに繋げて背負い、馬の手綱を引いて川沿いを進み始めた。
『ジゼ、つぎ、どこいく?』
「さあな。お前が売れるんならどこでも」
『む……ジゼ、またエメリナ売ろうとしてる』
「当たり前だろ。早くカネになれ、ばーか」
悪態をつくジゼに頬を膨らませながら、ふと、エメリナは何かを思い出したかのように鏡から身を乗り出した。ジゼの肩に顎を乗せ、「おい、危ねえよ! あと重い! 濡れる!」と紡がれる文句のすべてを無視して、彼女は小瓶を押し付ける。
『ジゼ、おかねできたら、どうつかう?』
「……え……」
突如、小瓶の中のあぶくからそんな問いを投げかけられて、ジゼの表情は強張った。
エメリナを金にしたら──そう考えてすぐ、彼の脳裏には優しく微笑む養父の顔が過ぎる。
ジゼはぐっと息をのみ、視線を落とした。
「大事な人に、会いに行く……」
『……だいじなひと? おかね、そうやってつかう?』
「ああそうだよ、たくさん金がかかる。あの人を連れて、この国から出るには……」
しばらく直進していたが、ふと、ジゼは足場の悪い丘を上がった先で馬を止めて振り返る。
草木もろくに育たない大地。異臭混じりの煙たい風。視線の先に広がるのは、やはり幼少期に見た記憶とは異なる景色ばかり。
まるで世界に置き去りにされているような感覚だ。
どこまでも続く広い荒野を目にしたエメリナが楽しそうに微笑む傍ら、ジゼの表情は浮かない。
「……ほら、遠くに大きい門が見えるだろ? あれは関所だ。あの先には違う国がある。ここよりもっと広くて、綺麗な場所」
『ほんと? すごい! エメリナも、いきたい!』
「何言ってんだ、お前は行けねえよ。だって、国境を超えられるだけのカネが手に入った時、お前は……」
そこまで言いさして、エメリナと至近距離で視線が交わる。
この世に蔓延る汚いことも、自分が売られた先でどうなってしまうのかも、何も知らない無垢な瞳。
彼女が生涯幽閉されて見世物にされようが、喉を抉られて事切れようが、ジゼには関係のないこと。
だがジゼには彼女の目を直視することができず、声を詰まらせて俯いた。
「……とにかく、お前は、俺と一緒にこの国から出ることはできない」
『ええー! けち!』
「はいはい、そーだよ、ケチなんだよ俺は。……ほら、もう鏡に戻れ」
『エメリナ、ジゼと、ずっといっしょがいい……』
弱々しく泡をこぼして、エメリナは控えめに訴える。
ずっと一緒に──叶うはずもない、儚い願い。
ジゼは狼狽えたが、すぐにかぶりを振って顔を逸らした。
「は、はあ? ずっと一緒なんてぜってー嫌だっての、人魚の世話より馬の世話の方がマシだ!」
『うま、ちがう。なまえ、〝おさかな〟』
「うーわ、そうだった! 言っとくけど、俺まだその名前認めてねえからな!?」
「ヒヒーン?」
言い争う二人の横で、地面の僅かな草を食んでいたマイペースな馬が顔を上げる。ジゼは眉間を押さえ、深い溜め息と共にその背にまたがった。
「……ったく、お前と話してると調子が狂う。大人しく鏡の底で寝てろ、今からコイツに乗って移動するからな。顔出すと危ねえ」
『エメリナ、たいくつ』
「うるせえうるせえ! ほら、じゃあな!」
マント越しに密着していたエメリナを肘で押し返し、ようやく彼女は渋々と離れる。ジゼはやれやれと一息つき、やがてどこまでも続く荒れ地に再び視線を戻した。
水が消え、森も消え、人すら消えた、寂しい国。
大事な人と過ごした記憶も時間と共にすり減り、今ではもう、その声すらうまく思い出せない。
「……ずっと一緒に、なんて、俺には叶えられない」
先ほどエメリナが訴えた小さな願いを思い返して、ジゼは目を細めた。
ずっと一緒、なんて、無理に決まっている。
誰かと共に生きていくなんて、自分を傷付けるだけに決まっている。
なぜなら、ジゼは〝孤独〟を知っている。
その孤独を唯一埋めてくれていた人にすら傷付けられて、もう、今はそばにいてくれない。
──ジゼ。すまない。すまない。
同じ言葉を何度も繰り返し、謝っていた養父。
自分が愛されていたことを知っている。
自分が大事にされていたことを覚えている。
大金さえ手に入れれば、彼に会えるのだと分かっている。
でも、会いに行くのが、少しだけ怖い。
「……ウェイン……」
無意識にこぼれ落ちた人の名前を、脳天気な馬の耳だけが、静かに拾い上げていた。
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