第9話 きみの命を乞う一夜
エメリナと繋げた魔力糸をたどり、ジゼは
どうやら犯人はエメリナを連れたまま荒れ地を直進し、街を離れてしまったらしい。ごろごろと無造作に転がる岩石や廃棄されたゴミが目立つ中、ジゼは軽やかに地を蹴り、日の落ちた荒野をひたすら駆けた。
短時間でこれだけ距離を稼げるということは、おそらく相手は何らかの乗り物を使っている。
そういえば今日、馬に轢かれそうになったよな……と思い出したところで、ジゼは眉根を寄せた。
「まさか、アイツが人魚を奪ったのか? チッ、ナメた真似しやがって……」
苛立ちつつ、ジゼは暗闇の中を走りながら呪文を紡ぎ、手のひらに魔力を集中させる。
「──
直後、呪文に応えた風がジゼの手の中心部に集まり始めた。〝魔法が使える〟というだけで異端者扱いされる昨今では、久しく魔力を使用していなかったため感覚がやや掴みにくい。……が、この程度ならお手の物だ。
(ガキの頃は『魔法が下手だ』ってからかわれたモンだが、今となっちゃ、こんな基礎魔法すら人間共には驚異だもんな)
冷静に考え、そっと視線を落とす。
幼い頃、魔法もろくに使えない自分が、なぜ周りの大人から『化け物』と呼ばれて恐れられていたのか。今ならばよく分かるのだ。
ジゼは履き古したブーツに魔力を付与し、集めた風と掛け合わせて虚空に魔術式の解を描く。
淡い光沢を帯び、ブーツの踵に浮かび上がった魔法陣。途端に彼の足元が僅かに宙に浮き、追い風をまとって馬にも勝るスピードで駆け出した。
「うお、速すぎた……! くっそ、久しぶりに使うとスピードの加減がムズいな。風向きが変わる前に追いつかねーと……」
風に乗って荒れた土地を駆けながらも、魔力糸の感覚からエメリナとの距離が少しずつ短くなってきているのは何となく感じ取れる。
ただひとつ気がかりなのは、発光していた魔力糸の光量が明らかに減衰し、糸自体も細くなり始めているということだ。魔力の反応が弱いということは、エメリナ自身がかなり衰弱している可能性が高い。
「チッ……! 死んだら承知しねえぞ、アイツ……!」
苦く呟き、糸を強く握り込む。おそらくそろそろ追いつく頃合だろう。
夜道だろうが馬自体は走れるが、乗ってる人間の方はそうもいかない。足場が悪いこの道を暗闇の中で突き進むのは、常人であれば躊躇うはず──つまり、どこかで馬を降りているのではないかと彼は睨んでいたのだ。
そう考えると同時に、ジゼの視界は焚き火の明かりを捉えた。追いついたと判断した彼は足を止め、魔法を解除して武器を構えると速やかに近くの岩陰へ身を隠す。
しばらく様子を探っていると、ややあって岩の向こうから苛立ったような野太い声が耳に届いた。
「──あーっ、くそッ、水が全然足らねえじゃねえか!! どうすんだよこの人魚、干からびちまう!! せっかくのお宝だったってのに、一瞬で醜くなりやがって!」
響いたのは怒声。突然大声を出した男に戸惑っているのか、近くの木に繋がれた馬は興奮した様子でウロウロしており、随分と落ち着きがない。
エメリナを攫った盗賊の男は干し肉を噛みちぎりながら忙しなく貧乏ゆすりを繰り返し、彼女が入っている麻袋を乱雑に引きずった。やがて髪を掴まれながらあらわになったエメリナの横顔を確認したジゼは、力なく項垂れるその様子に眉根を寄せる。
(一応無事か……だが、相当弱ってやがる。顔に目立つ傷はなさそうだが、呼吸が妙に浅い。火の近くにいるせいか? ただでさえ水がない状態だってのに、あのままじゃ本当に死んじまうぞ……)
苦しげに呼吸を繰り返し、虚ろな瞳で遠くを見ているエメリナ。繊細な人魚を雑に扱う男に苛立ちながらジゼは奥歯を軋ませ、冷静に戦略を練った。
(落ち着け……安易に飛び出したらまずい。肉弾戦は得意じゃねえし、不意打ちを狙わねえと。魔法も使うのはナシだな、痕跡を追えるやつはそうそういないが、騎士団にペラペラ喋られたら面倒くせえ)
後々の身の危険を極力減らすため、真っ向勝負は回避しようと武器を構えたジゼ。息を潜め、不意打ちのタイミングを見計らう。
彼が思案している間に、男は一層語気を強めた。
「おい、何とか言え人魚!! ずっとぱくぱく口だけ動かしやがって、気持ち悪ィんだよ!!」
怒鳴られたエメリナからは反応がない。
男はぐい、と彼女の髪を掴みあげる。
「ちょっと触るだけでどんどん汚ねえ見た目になりやがって、高いカネにするつもりが台無しだ! どうしてくれんだ!?」
「……」
「はあ、クソ、本格的に死にかけてやがる……! 仕方ねえ、生きたまま売るのは諦めるか。店に持ち込む頃にゃあ、干からびた焼き魚になってるだろうしなァ」
落胆した声と共に突き飛ばされたエメリナ。その際、彼女を包んでいた麻袋が離れ、それまで隠れて見えなかった体が露呈される。
刹那、ジゼの心臓は大きく脈打った。
(──……は?)
絶句する彼の視線の先にあったのは、赤黒く変色した人魚の肌だ。
無作為に触れられたのか、白い腕は爛れ、上半身に残る手形のような火傷痕がいくつも痛々しく膨れ上がっている。
まるで、腹に赤茶けたヒトデの群れが這っているかのよう──膨張したケロイドが、彼女の半身を侵食しようと覆っていた。
鱗を焦がされ、皮膚もやぶかれ、渇いたヒレすら欠けている人魚。
今朝まで宝石のように美しかったエメリナはどこへ行ったのか。あまりに凄惨な、醜悪な姿に変わり果ててしまっている。
──ジゼ。
小瓶の中で弾ける彼女の声を思い出しながら、傷付けられたその姿を視界に捉えた瞬間──ぶつりと、どこかで明確に音がした。ジゼの頭の中で何かがちぎれたようだった。
練った戦略など全てかなぐり捨て、彼は即座に地面を蹴り付ける。
「オラ、さっさと顔上げろ人魚。じゃないとまた全身に大火傷させ──」
──ブンッ。
「……あ?」
ひゅるり、鋭い風が頬に触れて、盗賊の男が振り返る。しかし視線が交わる前に、ジゼは怒りに任せて振りかぶった右拳を男の顔面に殴り付けていた。
──ボゴオッ!!
「ぐぶっ!?」
鈍い音が響き、男の足元がぐらりとよろめく。狼狽える彼が呼吸を吐くことすら許さないまま、今度は膝で無防備な鳩尾をえぐった。
「ごふっ、ァ……ッ」
汚らしい唾液が頬に掛かろうが、気にもならない。猛攻を止める気もない。ジゼは持っていた短剣を引き抜き、その切っ先で男の両目を容赦なく一閃した。
「ぎィゃああァああッ!?」
飛散する血飛沫と、断末魔のごとき絶叫。ジゼは少年のような幼さが残る容姿に不釣り合いな返り血を浴びながら、収まらない怒りに任せ、彼の傷口ごと顔面を鷲掴む。
「ひ、ァぎぃっ、いィ……ッ!」
「──大火傷すんのはテメェだよ、ドクズ」
底冷えする低音を吐き捨て、ジゼは視界を失った男を躊躇なく焚き火の中へと蹴り込んだ。盲目のまま火炙りにされた男は耐え難い激痛と熱に「ああァあッ!? 熱い!! 熱い!!」と悶絶し、火だるまのままのたうち回って地面に倒れ込む。
その隙に落ちていた麻袋でエメリナを包んだジゼは、攫うように抱き上げて近くの馬に素早く飛び乗った。すぐさま手綱を握り、そいつを走らせて夜闇の奥へ駆けていく。
かくして、盗賊を残し、二人はその場を離れた。
ある程度の距離を走り抜け、適当な岩場の奥まった洞窟に馬を止めたジゼ。彼は呼吸を整え、麻袋で包んだ腕の中のエメリナに呼びかける。
「おい、エメリナ! しっかりしろ!」
しかし、衰弱している彼女からは反応がない。
すっかり渇ききって欠けてしまったヒレや鱗にはヒビすら入っているように見えて、ジゼはひやりと背筋を冷やした。
(だめだ、今すぐ水の中に戻さねえと……! このままじゃ死んじまう……!)
焦燥を抱え、ジゼはぐったりと力が抜けた彼女を地面に寝かせる。背負っていた
「頼む、エメリナ、一瞬でいいから目ェ開けろ! すぐ水ん中に戻すから! お前が鏡の中の自分を見ねえと、
「……」
「おい……っ、ふざけんな、起きろバカ!! 起きたらいくらでも話しかけていいし、俺に水ひっかけてもいい! 俺のこと水浸しにしても、もう怒んねえから! ……もう、部屋に、ひとりで置いてったりしねえから……っ!」
最後は柄にもなく弱々しい声が出て、傷付いた人魚の隣で奥歯を噛み締める。
ただの〝商品〟である彼女に対して、なぜこんなにも必死になっているのか、自分でも分からなかった。
大金が掛かっているからだろうか。
自分の商品を他人に傷付けられて腹立たしいだけだろうか。
どちらでもいいが、強烈な罪悪感が胸に引っかかっていることだけは確かだった。
あの時、彼女をひとりにして部屋を出て行ったりしなければ。面倒でも一緒に連れて行ってやっていれば。怖い思いをさせることもなかったし、こんなに酷い怪我をさせることもなかった。
人魚は地上で声が出ない。
きっとどれだけ叫んでも、助けを呼ぶ声なんて人間の耳には届かない。
ジゼが街で賊から馬で轢かれかけたあの時に、もしかしたらエメリナは、麻袋の中でジゼの存在に気が付いていたのかもしれない。弱った体で身じろいで、〝助けて〟と、必死に彼の名を呼んだのかもしれない。
けれど、ジゼには届かなかった。
彼女の声に気付いてやれなかった。
知っていたのに。
人魚の声が、人には届かないことを。
──ウェイン。
──ウェイン、行かないで。
──俺を、独りにしないで……。
「……くそ……っ!」
過去の自分が脳裏をよぎり、酷く後悔の念に苛まれた。ジゼは拳を強く握り込み、空っぽの小瓶の
「なあ、死ぬなよ……っ、こんなんで死なれたら、寝覚め悪ィんだよ……!」
縋るように語りかけ、小瓶いっぱいに汲んだ水を横たわる人魚に浴びせかけた。渇いた鱗や欠けたヒレを、可能な限り水で潤す。
「起きろ、エメリナ……! お前が蜂蜜たくさん食いたいって言うから、わざわざ専門店で良い蜂蜜選んで、二瓶も買ってきてやったんだぞ! 責任持ってお前が食えよ……!」
だが、答えは返ってこない。
「何とか言え、バカ……っ、なあ……!」
閉じたまぶたも開かない。
「エメリナ……!」
遠い昔、消えない孤独を背負った幼い自分が、記憶の隅で泣いている。
目に映らない亡霊に、その喉を締め付けられながら。
「…………っ、なあ……! 頼むから、起きろよ……」
弱々しい声で縋って、ジゼは力なく項垂れた。
傷付いたエメリナ。触れられない肌。人の手で抱き寄せてやることすらもしてやれない。
目覚めない彼女の命を乞い、彼はその夜が明けるまで、小瓶に汲んだ水をかけ続けた。
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