第4話 薨去

 聖徳太子こと厩戸皇子は、史実において 即位せず 皇太子のまま亡くなった。その要因の一つとして考えられるのが、第33代 推古女帝の在位が 長かったことだ。彼女の在位は36年にも及び(592〜628年:『日本書紀』)、その間に 聖徳太子だけでなく、蘇我氏四代の2代目 馬子も亡くなっていた(626年)。

 ちなみに、日本史上初の譲位は 第35代 皇極女帝から その弟 第36代 孝徳天皇へのもの(645年)。昨年(2019年)には202年ぶりに譲位が敢行されたが、推古天皇の時代には、未だ その前例はないものとされていた。


 古代史の著名人 聖徳太子の薨去の年には、従来より大きく2つの見解がある。正史『日本書紀』を準拠とする621年説と、法隆寺系史料による622年説だ。前者が 聖徳太子の薨去から1世紀近く経過して成立した書物を根拠としているのに対し、後者は ほぼ同時代に記録が残されたと見なされていた。このことから、通説は 後者の説を聖徳太子の薨去の年として採用している。

 また、聖徳太子は その死の状況から死因について様々な説が囁かれている。というのも 妃の1人である膳部菩岐々美郎女かしわで の ほききみのいらつめからだ。これにより、心中説や伝染病説が まことしやかに取り沙汰されることとなった。

 飛鳥時代の有力皇族 厩戸皇子(聖徳太子)は しこうして天寿国に往生したが、太子の妃の1人 橘大郎女たちばなのおおいらつめは 彼の死去を悲しみ、かの国における太子の往生の様を刺繍したとばりで表した。

 この刺繍帳は 断片が残るのみであるが、"天寿国繍帳てんじゅこくしゅうちょう"あるいは"天寿国曼荼羅繍帳てんじゅこくまんだらしゅうちょう"と呼ばれ、現在 国宝に指定されている。

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