第6話

 労働者階級出身のミュージシャンの歌詞には、驚くほど酒や煙草がよく出てくる。例えば俺が敬愛するオアシスも『シガレット&アルコール』というそのものずばりの曲を作っている。

 二十七歳の若さで急逝したエイミー・ワインハウスの出世作『リハブ』も俺の好きな歌だ。主人公の女がアルコールや薬物中毒者を更生させるリハビリ施設、通称「リハブ」から逃げ出したい胸の内を吐露した曲だった。

「私はまともよ」

「こんなの時間のムダ。私には必要ない」

 九十年代、イギリス全土を席巻したブリットポップ・ムーブメントのさなか、多感な少年の俺はふと疑問に思った。なぜこんなにもイギリスの労働者階級の人間は酒や煙草に頼るようになるのだろうか。

「現実から逃げ出したくなるからだよ」

 ある日の休日の夕方、愛犬のベスを膝の上でなでながら親父はそう教えてくれた。

「俺はロンドンの中流階級で生まれ育ったが、マンチェスター出身の友人を何人も知ってる。奴らは皆、自分の人生に希望を見いだせないでいる。働いても、得られるものはたかが知れている。無意識のうちに諦念を抱いているんだろう」

 俺はこんなに饒舌に語る父親を目の前にして仰天した。珍しいこともあるもんだと思った。

 親父は戸棚から一枚のコピー紙を取り出し、俺に見せてくれた。古い版画の模造品で、描かれていたのはこの世の地獄みたいな混沌とした世界だった。背景の建物は崩壊寸前で、その前で大勢の人々が何かをしている。棺桶を担ぐ男。鍋を差し出す夫婦。それをルーペで鑑別する、おそらく質屋と思われる男。彼らの手前では暴徒と化した群衆が酒屋を襲い、その傍らでは、あろうことか幼女が二人で盃を掲げている。

 絵のなかでもひときわ目立つのが最も手前に位置する女だ。階段に座り、何やら嗅ぎ煙草のようなものを嗅いでいる。とろんとした表情は見るからに理性を失い、彼女の腕から子どもが階段下に転落していく様子にも気付かない。この絵のなかで最もぞっとする人物だ。

「これは十九世紀ロンドンの下町を描いた風刺画だよ」

 すっかり青ざめて表情が引きつった俺に親父はそう教えてくれた。

「絵に登場する彼らは第二次エンクロージャーで土地を地主に奪われ、仕事を求めてロンドンにやってきた元小作人たちだ。時代は産業革命の真っ最中で、彼らは法外に安い賃金でこき使われた。過労で身体を壊せば、工場主からボロ雑布のように捨てられる。ホワイトチャペルみたいな下町には働けなくなった失業者が溢れ、彼らは浮世の辛さを忘れるために安いジンを浴びるほどかっくらい、辛い現実から逃げようとした」

 過労死した人間を運ぶ葬儀屋、ジンの金を調達するために日用品を質に入れる夫婦。お金が無くてやむなく酒屋を襲撃するアルコール中毒者による暴徒。そして、酒と煙草で廃人寸前となってしまった売春婦と、そのために墜落するその赤ん坊。さらに注意して見れば、幼児にジンを飲ませる女や、質の悪い酒に失明して倒れた兵士までいた。

 なんて気味の悪い絵だ。この絵のモデルの街が、自分が生まれ育ったロンドンのかつての姿だったなんて。俺にはにわかに信じられなかった。しかし、俺の絶望的な気持ちとは裏腹に親父は衝撃的な事実を告げた。

「これは昔話なんかじゃない。二百年前と今、ロンドンで起こっている出来事は何ひとつ変っちゃいないんだよ」

 街には失業者が溢れ、犯罪が横行しロンドン市内の治安は悪化。低所得者が暮らす下町ではスリや強盗が日常化し、女性の夜間の独り歩きなんてとても出来ない。

 一八八八年、イギリス全土を震撼させた切り裂きジャックが現代に蘇り、ホワイトチャペルを闊歩していてもおかしくない。

  過酷な現実を束の間でも忘れるため、人々は酒をあおりクスリを手に入れ、最後は前述した更生施設・通称「リハブ」のお世話になる。

「お前は、こんな時代だからこそ自分の信念に従って生きなさい。世の中や他人がどうであれ、お前が正しいと思うことに集中し、それに真剣に取り組みなさい。そうすればきっとうまくいく」

 幼い俺に大事なことを伝えてくれた親父。モスグリーンの瞳にはっきりと聡明さを宿らせていた中年の男。

 数年後に彼がリハブの住人になるとは、少年の俺も、この時の彼自身にも予想できなかっただろう。

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