Le Jardin de la sorciere ~魔女の庭~

平中なごん

序章 悪魔憑きの夜

 その夜、嫌な胸騒ぎを覚えたメデイアは真の暗闇の中で目を覚ました。


 こんな胸騒ぎのした時は、決まって何か悪い音が起きる……特に、このジャルダン女子修道院に来てからというもの、この感覚に襲われた時は次にどんなことが起こるのかを彼女は薄々感ずいている。


 メデイアはすぐにベッドを抜け出すとランタンに火を灯し、周囲を満たす真っ暗な闇に溶け込むかのような黒い修道服姿で狭い牢獄の如き自室を後にした。


 部屋を出ると、立ち並ぶ円柱の隙間から蒼白い月明かりの射し込む回廊の真ん中に立ち、猫のように目を凝らし、耳を澄まし、精神を研ぎ澄まさせる……すると、眼前に広がる美しい薔薇の花々がぼんやりと月影に浮かぶ中庭の向こう側で、星の煌めきのようにチラチラと揺らめく、一点の蝋燭の明かりがあるのをメデイアは見つけた。


 それは、彼女の位置からすると中庭を挟んで対角線上にある……その闇に灯る弱々しい明かりの点は、古代神殿のように石柱の建ち並ぶ回廊をゆっくりと移動し、礼拝所のある方へと向かって行く。


 この修道院は中庭を取り囲むように回廊が巡り、その外側に礼拝堂や食堂、修道女たちの寝起きする部屋が作られている……メデイアも自分のいる蝋燭の光とは反対側の回廊を廻って、同じく礼拝堂へと向かった。


 その間に、ギィィ…と低く木の軋む音とが不気味に石造りの回廊に木霊する。


 わずかの後、礼拝堂の前にメデイアがたどり着くと、案の定、その厚く大きな木の扉はわずかに開き、人が一人通れるくらいの隙間を作っていた。


「……………………」


 息を殺し、メデイアはそっとその隙間から堂内を覗いてみる……。


「……!」


 すると、ステンドグラスから射し込む蒼白い月明かりのもと、金色に輝く〝神の眼差し〟――プロフェシア教(預言教)のシンボルである、すべてを見通す神の一つ眼プロヴィデンスと、そこから放射される光を模した御神体を祀る祭壇の前には、右手に蝋燭を載せた燭台、そして左手には鎌を持った一人の修道女が立っていた。


 また、その胸にはなぜか真っ赤な薔薇の花を一輪、この場には不似合いに飾っている。


「あなた、そこで何をしているの!?」


 メデイアは咄嗟に堂内へ踏み込むと、背後から彼女に声をかける。


「あなたは、エルマーナ(※修道女の敬称)・アビガイル……」


 突然の声に振り返ったその修道女は、よく知る仲間の若い修道女だった。金色の巻き毛がなんともカワイイ、明るい性格の可憐な少女である。


「……いや、違う。アビガイルじゃない……あなた、誰?」


 だが、今、目の前にいるアビガイルの顔をしたそれ・・は、普段の彼女とはまるで違う気配をその身から醸し出している……血走った眼は闇の中でも爛々と赤く輝き、引き攣った口元から見える八重歯はまるで牙の様。その口からは溢れるままに涎までもが垂れている。


「俺ガ誰カ? ガハハハ…オマエナラ、モウ、ワカッテルハズダ」


 メデイアの問いに、それ・・はアビガイルとは似ても似つかないしわがれ声で不快な笑い声を漆喰のドーム天井に響かせる。


「悪魔……アビガイルに何をするつもり!? 彼女を返しなさい!」


 メデイアはその紫色をした瞳を大きく見開き、それ・・の名を呟くと、凛とした声で彼女の解放を求める。


「何ッテ? 決マッテルダロウ。オマエラガアリガタク崇メテイル神サマノ祭壇ヲ処女ノ血デ穢シテヤルノサ……コウユウ風ニナ」


 だが、彼女の中にいる者はアビガイルの顔を愉快そうに歪め、そのか細く白い首に手に持った鎌の湾曲した鋭い刃を押し当てる。


「や、やめ…!」


 メデイアは咄嗟に飛び出し、彼女の方へ手を伸ばして叫ぼうとしたが、その瞬間、鎌の刃は月光に冷たく煌めき、真っ赤な鮮血がまるで噴水のように高い天井近くまで勢いよく噴き上げた。

 

 数瞬の後、噴き上げた温かな赤い血は、月明かりに照らされながら雨のように冷え切った石の床へと降り注ぐ……。


「…………ハ! アビガイル! エルマーナ・アビガイルっ!」


 その衝撃的な、あまりにも残酷であるとともに美しくもある光景に見入ってしまったメデイアは、我に返ると慌ててアビガイルの床へ崩れ落ちた体へと駆けよる。


「エルマーナ・アビガイル! しっかりして! アビガイル!」


 ぱっくり開いた首の傷から溢れ出す血液で、ぐっしょりと黒い修道服の濡れたアビガイルを抱き、メデイアは必死に呼びかける。胸に着けた赤い薔薇も、今は本来の色ではなく血の赤色に染まってしまっている。


「…ゴフっ……ヒュー……ピュー……」


 だが、瞳から虹彩を失った彼女は体を時折痙攣させ、空気の漏れる隙間風のような音を口…あるいは傷口から発するだけだ。


「アビガイル……」


 もう一度だけ、彼女の名を口にすると、メデイアはその細く綺麗な眉毛を悲痛に歪める……アビガイルが息を引き取るまで、さほどの時間はかからなかった。


「なに、どうしたの? ……キャアァァァァーっ!」


「え? なに今の悲鳴……い、いやぁぁぁぁーっ!」


 やがて、騒ぎを聞きつけた他の修道女たちも寝床を抜け出して集まり始め、礼拝堂内の凄惨な光景を目にすると口々に衣を切り裂くような悲鳴を静かな修道院内に響かせる。


「ひぃぃ……あ、あれは誰? 誰が今度は・・・取り憑かれたの?」


「……あ、あれ、アビガイルよ! アビガイルが今度は生贄にされたのよ!」


 また、自身も血塗れになりながらメデイアが抱える者がアビガイルだとわかった修道女たちは、あたかもその惨劇が予言されていたかのような台詞を蒼褪めた顔で口にしている。


「こんな夜更けにいったいなんの騒ぎです? ……まあ! なんてこと……」


 礼拝堂の入り口に屯して恐れ慄く修道女たちの山を掻き分け、足早に入って来た堂々たる態度の美しき年長の女僧も、その有様を目にすると口に手をやって驚きを顕わにする。このジャルダン女子修道院の院長グランシア・デ・ザンチェスだ。


「……ま、魔女だわ……魔女がまた悪魔を取り憑かせたのよ!」


「……わかってるわよ! この中にいるんでしょ? 誰なの? 誰が魔女なの!?」


 その内、恐慌状態に堕ちった修道女たちの間からは、そんな自分たちの仲間を疑う声が上がり始める。


「およしなさい! 滅多なことをいうものじゃありません! この神の家・・・にともに住まう姉妹たちの中に魔女などいるはずがありません!」


 ヒステリーに騒ぎ出す修道女たちを院長のグランシアは毅然とよく通る声で窘める。


「ですが、院長! 一人や二人じゃありません! これでもう五人目・・・なんですのよ!」


「それも部外者が立ち入ることのできないこの修道院の内部でなど……この中に修道に勤しむふりをした魔女が隠れているとしか思えません!」


「それは……」


 しかし、語気を荒げて反論する彼女たちの声に押され、グランシアは言い淀んでしまう。


「と、とにかく! まずは天に召されたエルマーナ・アビガイルの魂を安んじめることと、聖なる礼拝所をもとの清らかな場所に戻すことが先です! さあ、皆さん、手分けをして用意をなさい」


 それでも、自分の不利を誤魔化すかのようにグランシアはそう声を張り上げると、ただ騒ぐだけの修道女たちにやるべき仕事をするよう叱咤する。


「最初にアビガイルを見つけたのは……メデイア、今回も・・・あなたなの?」


 そして、再び祭壇の方へ眼を向けると、すでに冷たくなり始めたアビガイルを床に寝かし、その手を胸の前で組ませるメデイアを見て尋ねた。


「はい……」


 メデイアは伏目がちな顔をそれでもグランシア院長の方へ向けると、力のない声で短くそう答える


「わかりました。あなたには事情を聞きたいんで、その服を着替えたら院長室へ来なさい……さあ、何をぐずぐずしているの? 神に仕えし者がそんなことでどうするの!」


 メデイアの返事を聞くと、続けてそう告げたグランシアは、いまだ呆然と佇んでいる数人の修道女たちに改めて発破をかける。


「………………」


 だが、背後の修道女たちの方を振り向きざま、自分を一瞥したグランシアの眼に、疑心とも敵愾心とも思えるような、何か攻撃的な色の帯びていたことをメデイアは見過ごさなかった――。

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