第二話 二人の兵士

 <レアー>とアーサーが語り掛けた。これが彼女のコードネームである。

「何かしら?」

 レアーは自身の髪を絞りながら優しく尋ねた。

<良いニュースが入った。無事にもう一人の工作員クリードもこの島にやってきたようだ>

 アーサーは目の前に送られた電文に目を通すと、おもむろにそう言った。

 レアーは進行方向に鬱蒼と生い茂る草をかき分けながら「あら、意外に早いのね」と言うと、頭上で木から木へと身軽に移動するイタチキツネザルに軽くウインクを決めた。

<まぁ、あのヘンリー・エイヴリー号であれば妥当だろう。しかし、そんなことよりもお前に伝えるべきことがある>

 アーサーはそこで一つ間をおいて、再び話を切り出す。

<もしも、そのクリードと遭遇した場合の合言葉についてだ>

「s……」

 それを聞いたレアーは何か返事をしようと思い、口を開きかけるが、ぬかるんだ土に足がとられてしまい、そのタイミングを失った。

<合言葉はだ。もう一度言うぞ、だ。覚えたな?>

「っ……、戦争は平和なりね。分かったわ」

 レアーはやけに粘土質が強い土から、慎重かつ大胆に足を引き抜くとそう言った。

そして後ろ髪を騎士がマントをはばたかせるように勢い良くかき上げると、水しぶきが激しく舞い、まるで彼女の装飾品と言わんばかりに煌めく。しかし、彼女はそれに目もくれず、工作員のそれにふさわしい足取りで密林の中にわけ入っていった。

 一方で、場面は変わってこちらはクリード一行だが、その様子はピクニックにでも来ているようだ。

「おぉっ、見ろよワイアット。あそこに見たこともないサルがいるぞ!」

 リバタリアの特異な自然環境に胸を熱くしたクリードは、自分の背丈をゆうに超える大木の幹を登っていく猿の親子に指をさしながら言った。

<『見ろよ』なんて言われても見えねえよ、ちゃんと説明してくれ>

 そう言われたクリードは猿の特徴を見定めようと、指の力で両目を大きく見開き、闇の密林を凝視した。

「体長は50cmくらいで、目は赤よりのオレンジに見える」

 満月の光で出来た影ですら溶け込みそうな暗闇でよくもと思えるほど、クリードは的確に猿の特徴を捉えた。流石は戦場の英雄が持つ眼といったところか。

 すると、クリードの説明でその猿をイメージできたワイアットは<あ~、それは恐らくブラウンキツネザルだな。この雨季に夜間での活動が見られるとは運がいいな>と言った。しかし、雨の雫に滑りかけた猿を心の声で応援することに躍起になったクリードは全く聞いていない。そしてクリードは続けてこう言う「ははっ、かわいいな。アメリカに帰ったらペット用のサルを探してみようかな」と。

<ならそのサルの名前は『ジョージ』で、お前のあだ名は『死へ誘う者』から『黄色いぼうしのおじさん』に改名だな>

 クリードの態度にマッチ棒の先端で上がる火くらいの怒りを覚えたワイアットが肘をつきながら囃し立てた。

「俺はそれでも全然構わないぞ、むしろ大歓迎」

 けれども、クリードの対応はワイアットの気分をさらに悪くした。

 ところで、先程と同様に、その裏でアルネが「僕も見たいなぁ」と密かにつぶやいたことを誰か知っているだろうか?いや、知っているわけがないだろう。何せ、それくらいの声なのだから。

 そういった緊張感に欠けた空気の最中、公園ではしゃぐ子供を監督する気分でいたトンプソンは、そろそろクリードとワイアットの二人を少したしなめようと考えた。そして、それを実行に移そうとしたまさにその瞬間、トンプソンには見当もつかない周波数からの無線がクリード一行に繋がった。

<……お、応答しろ、クリード。俺はアーサー、お前に伝えることがある。繰り返す。応答しろ、クリード。俺はアーサー、お前に伝えることがある>

 数秒間のノイズの後に発せられた声にトンプソンは目を見開いた。そして、なぜ貴様がここに?という言葉が喉まで出かかったが、それを理性で必死に堪えた。

<ふん、中央情報局(CIA)長官か>

 アルネは目の前のモニターに浮かぶ周波数を見ながら、他人にも聞こえる声で言った。すると、それに続く形でクリードも口を開いた。

「ん?長官殿か……。それで、俺に伝えることって?」

<俺が今回の騒動の対処に割り当てたのがお前だけではないことは知っているな>

 アーサーは何の挨拶もなしで単刀直入に本題に入った。

 それに対し、クリードは今日の朝のことを思い出すと低い声で「あぁ」と答えた。

<俺はもう一人の工作員レアーの作戦行動をサポートしている>

 アーサーはそこで一つ間をおいて、再び話を切り出す。

<そして、もしお前とレアーが対面した場合の合言葉を教えておこう。それはだ。もう一度言うぞ、だ>

「んっ!」

 クリードは体をこわばらせた。何故ならば、アーサーがそう言い終わるやいなや、阿吽の呼吸のごとく、クリードの身の回りのどこかで鳥が一斉に飛び立ち、空では雷鳴が唸り声のように轟くとその勢いのまま地に落ちたからだ。

<どうした? しっかり聞いていたか?>

「あ、あぁ、もちろんさ。聞いてたよ、平和は戦争なりだな」

 額に噴き出た汗を軍服の袖で拭いながらクリードは言った。すると、アーサーは口元を緩ませ、<そうか、では俺はレアーのサポートに戻る、アウト>というと、クリードらに対しての無線を早々に切った。

 そして、アーサーは無線機を持っていた腕をだらんと垂らすと、何かに対しての勝利を確信したように「くっくっくっ」と笑い始め、次第に声を大きくしていくと、窓から吹き込んできた風と共に誰もいない部屋で両腕を広げ、大声で狂ったようにひたすら笑った。そう笑った。

 そんな明らかに異常なアーサーと変わって、クリードは慎重に歩みを進めている。

「切れた、か。とんだじゃじゃ馬だったな大佐」

 クリードは吐き捨てるようにそう言うと、異能力を使って自分の頭に落ちてきた小枝の軌道を変え、「この程度だ」と言わんばかりに顔をしかめた。

<そうだな、クリード。しかし、その合言葉を覚えておいて今のところは損はないだろう>

 トンプソンは言った。そして、おもむろに目を細め、椅子に座り直しながら物思いにふけ始めた。

 今、トンプソンの中にある一つの考えが浮かんでいる。それは、長官が直接サポートする工作員がいるため、少なくともCIA本部特に長官にとっての本命の工作員はクリードではなく、私達の裏で別の作戦が動いているのだろうということだ。しかし、トンプソンが想像するCIAのどんな目的でもクリードの任務以上に大切だとはトンプソンには思えないため彼らの腹の一切が読めなかった。

 それでいてもトンプソンはさらに深く吟味した、「トンキン湾事件を思い出すんだ。ベトナム戦争に介入するための嘘を考えたのは誰だ? CIAだったろう!だから彼ら、いや奴をそう簡単に信じてはならない」と。

 トンプソンがこう考えるのは単なるCIAへの疑心暗鬼の感情からではない。これにはアーサーに対する個人的な感情も関わっている。

 そして幾ばくか経つと、トンプソンは、どう考えても解決しえないこの問題は後回しにすることに決め、再びクリードのサポートに傾注し始めた。

 そのころ、クリードは傾斜の激しい丘を懸命に駆け上がっていた。しかし、踏み台に役立ちそうだったり、登るのにつかみ易そうな岩にはびっしりと苔が生えている上大雨のおかげでとても滑りやすくなっているので、常人ではしがみつくだけでも精一杯である。それでも、この丘から辺り一帯を見渡すために一歩一歩足を上へ運んでいく。

「くそっ!」

 クリードは叫ぶ。右足を掛けた石の滑りが恐ろしくひどいため、足を踏み外してしまい、その勢いで下まで滑り落ちそうになったからだ。しかし、これを両腕の力で上手く阻止し、丘だというのに懸垂の要領で体を持ち上げ、元の姿勢にまで立て直した。

 そして体をよじりながらやっとのことで丘の頂上まで辿り着いたので、安定した場所でうつぶせの状態になり、「さて、何が見えるかな。楽しみだ」とつぶやくと、双眼鏡を取り出そうとした。ところが、そうするまでもなく木材で作られた人工物が彼の目に映った。

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