page.17 仔猫


「よせ」


 キッチンの食器棚。そこに収まっているのは普段使う皿やグラスだけではない。最も上の段には、エヴェリンやアルバートがいわいごとのある日に使う特別なものもあるのだ。

 美しい細工の施されたガラスの皿。異国の意匠を思わせる奇妙なティーカップ。そして古びた市販品でこそあるものの、ふたりが新婚の頃の買ったという大切なワイングラス。


「やめろ」


 今、その棚にはガラスや陶器に混ざって、白い毛むくじゃらが存在していた。


「それに、触れるな」


 そいつは、私のメイン・カメラに向かってにやけるように口角を上げる。

 そして、尻尾を使って器用にエヴェリンのグラスを押し出した。


「!」


 私はすぐさま騎士隊ナイト・フリート仕込みの跳躍をくり出す。地面とワイングラスが接する、数瞬手前。私はなんとかキャッチした。私のマニピュレータが繊細に造られていて良かった。もしジークのような無骨な指だったら、グラスを砕いてしまっただろう。


 彼女はいつも必ず、私の手がギリギリ届く距離でモノをおとす。試しているのだ。そして、楽しんでいる。私のあわてふためく姿を。


 エヴェリンのグラスを手に、私は彼女へ向けて声を上げる。発声器のボリュームをいつもより数段階上げた声。人間で言うなら、“怒気どき”というものを含ませた声だ。

 

仔猫キトゥン!」


 それは、名ではない。エヴェリンやアルバートには名付けるよう言われていたが、この家に来た初日から発揮されたあまりの傍若無人っぷりに、私はその気が失せていた。

 その結果、私は彼女を年齢の低い猫全般を指す名詞で呼ぶようになっていた。


「今日も、にぎやかね」


 騒ぎを聞きつけたエヴェリンが、キッチンへやってきた。

 老眼鏡をかけているから、編み物でもしていたのだろうか。


「邪魔をしただろうか。すまない、エヴェリン」

「そんなことはないわ。あなたとこの子が揃ってから、毎日が楽しいの」


 エヴェリンの、柔らかな笑顔。

 私は戦場に戻ったような気分だ。などとは発声器がエラーを起しても言えない。


 と、白い小悪魔は食器棚を降り、エヴェリンの足にすり寄っていく。私には決して向けられることのない、甘えた声を発している。


「ハルジオン、あなた、もっとこの子に優しくしてあげたら仲良くなれると思うわ」

「だが! この仔猫キトゥンは貴女の大切なグラスを破壊しようとしたんだ!」


 私は、手に持っていたワイングラスをエヴェリンに見せる。


「懐かしいわね、そのグラス。とても大切」


 目を細めて、エヴェリンが言う。

 そうだ、大切だろう? それを壊すなんて、許せないはずだ。


「けれど、もう古くて、私は手元がおぼつかないし、いずれ割れてしまうものよ。だから、もしこれをこの白い天使が割ったのなら、わたし、かまわないわ。ふふ。最後までこのワイングラスには想い出が尽きなかったね、って。アルバートも笑ってくれるはずよ」


 ああ、貴女はそういう人だった。


 エヴェリンの足元では、まるで「そうだ、そうだ」とでも言いたげに仔猫キトゥンが生意気な鳴き声をあげていた。


 これが、新しい私の日常。仔猫に振り回されては、エヴェリンやアルバートに寛容さを学ばせられる。


 仔猫の世話という新しい使命に、私はこれ以上なく苦戦していた。

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