誤解

 峯田が帰って直ぐ修平がやってきた。急いだ様子はなく、顔面蒼白で足だけワナワナ震えていた。

「親父は、」

「ついさっき、先生が、」

 泣くわけでもなく、へたりこむわけでもなく、呆然としていた。

「修平!来てくれたの?お父さん体調が良くないみたいなのよ。恵美子まで来てくれてね、この子がこんなに心配して泣くなんて。この世の終わりかしら。」

 その場に不釣り合いに微笑む千代子に修平はぞっとした。

「姉さん来てるのか?」

「あなた少し見ない間に目が悪くなったんじゃない?付き合ってる人いるんでしょう?顔くらい見せに来なさい。」

「おふくろ、何言って、」

 千代子の後ろでは歩美が首を横に振っている。

「修平。久しぶりね、」

「どういうことだよ、一体、」

 修平の姉らしく、別人になったように歩美が話しても修平は目を白黒させるだけだった。

「お母さん、ちょっと混乱してて。私を恵美子お姉さんだと思ってるから。」

「認知症の始まりなのか?」

「一時的なものだと思う。今だけはお母さんを否定しないであげて。」

 うん、と短く頷く。辺りを見回すと千紗が信治の体を揺すっていた。

「何してるんだ?千紗。」

「おじいちゃん、おきないの。いまねちゃうと、よるねれなくなっちゃうでしょ?」

 おじいちゃんはもう起きないよ、という言葉を修平は飲み込んだ。

「ねえ、修平。その子、だあれ?さっきから。」

 修平の持っていた鞄が落ちて大きな音がした。


 峯田はそのまま帰ろうか、店へ一旦寄るべきか病院の駐車場で考えていた。帰れば明日顔を合うせたら東山から詮索されるだろうし、一旦店に寄っても詮索されるのは想像できた。それに帰っても何かをできる気がしない。車を走らせ、見慣れた店のドアを開ける。裏口から入るとジャズの音色が聞こえる。カウンターでは東山がロックグラスを弄んでいた。

「お疲れ。悪い、急に。」

「おお、突然だったから驚いたけど。歩美さんだろ?」

「ああ、」

「何かあったのか?」

「親父さんが亡くなって、イロイロあって千紗ちゃんを迎えに行った。」

「は!?イロイロって何だよ、イロイロって。」

「あの人は!頼れる人が居ないんだよ、」

「義理のお母さんも旦那もいるだろ、なんで怜央に、」

「旦那は、来なかった。お母さんは、免許もないし、それに、」

「それに?」

「歩美さんを実の娘だって勘違いしてた。」

「えっ、」

「こういうことは良くあるからって、否定しないし。ずっと同じ家に居て信頼しきってたのに、あの家に居ないんだよ、あの人は。」

「なあ、怜央。」

「なんだよ、」

「お前が本気で誰かのこと考えてくれるようになったけど、相手は人妻なんだぞ?」

「分かってる。手なんか出してない。それよりお前の方が怪しいんじゃないか?」

「お前、歩美さんにばっか気取られてわかんないの?」

「は?」

「俺は彼女にも惚れてないし、誑かそうなんておもってねーよ。」

「でもお前番号教えてもらったって、」

「教えてもらってねーよ。そうでも言わねーと、お前聞かなかったろ、番号。」

「おま、お前。騙したな。」

「怒んなよ、俺は背中が押したかった。女はごめんだって思ったままじゃ何も変わらないと思って、」

 ははは、と大口を開け峯田は笑った。

「お前に食わされたの?俺?すげー悔しい。」

 悔しいと言いながら峯田は笑い続けた。

「いつか言わねーとなって思ってはいたんだけどさ、」

「今度一杯奢れよ。」

「わーった、わーった。」

 東山と峯田の誤解はとけた。

「なんか描きたいなあ、」

 大学で峯田は油絵をやっていたが、例の一件以来、筆を持たなくなった。いつも描くのは彼女だったから。もう必要ないものとまで言っていたのに。

「珍しいこともあるもんだな。」

「突然描きたくなった。明日休みにしようかな。」

「ランチタイム終わったら、一旦閉めるくらいならいいぞ。」

 あの人を描きたい。写真なんてない。想像で構わない。そしてこの気持ちは永遠に蓋をしよう、そう強い意志を峯田は抱えていた。

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