第五十一章  告白

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「本当に、百合なの?」


「ええ、本物の灰谷……いや、今はもう八神百合だったわね」


 八神林檎――いや、百合は柔らかな声でそう言った。


「あ、ああ」


 私はよたよたと足を運び、テーブルを迂回して彼女の許へ歩いた。そこにいたのは紛れなく私の親友だった。


 殺されたと思っていた百合が生きていた。


「百合っ!」


 嬉しさのあまり、私は百合の膝の上に崩れ落ちた。そして泣いた。ひたすら泣いた。


「よかった、よかったよぉ」


 声を上げ、子供のように泣いた。友と再会できた喜びが私の涙腺をゆるませる。そんな私の頭を、百合の暖かい手が撫でる。


「ごめんねぇ、ごめんねぇ。私、百合の苦しみに気づいてあげられなかった。もう一回、電話してあげればよかった」


「電話? ……ああ、叔母様に邪魔されたあの電話ね。いいのよ、もう過ぎたことだし。それに、またこうして会えたんだから」


「本物の、八神百合さんですか?」


 さすがの梢もこの事態には困惑を隠せないようで、しきりに足を組み替えていた。


「ええ」

「でも、なんで? なんで林檎って名前を名乗ってたの?」


 私は涙と鼻水で汚れた顔を上げ、百合に訊ねた。


「そのことを含めて、わたしは旅立つ前に楓に全てを告白しようと思ってここに来たの。でも、わたしの犯した罪はとっくに見破られていたみたいね」


「本物の八神林檎は亡くなっている、ということですか?」

「はい。あの子は八年前に天国に旅立ちました」


 百合の表情が沈んだ。深い悲しみと怒りが混ざり合った、複雑な表情だった。左胸に右手を当て、彼女は語り始めた。


「林檎は手術を受ける前に死んでしまいました」

「間に合わなかったのですか?」


「いえ、殺されたのです」


 百合の声が冷たく響いた。


「何から話せばいいのかな。そう、まず、八神勇心と夏江さんの離婚から、あの悲劇は始まったの」


「離婚の理由は、たしか夏江さんの不倫だったそうですね」


「はい。その意味では、あの人も林檎の死に間接的に関わっていたことになります。いや、そもそもの発端は夏江さん自身なのですから、彼女が殺したようなものなのです」


 百合の声色にはたしかな怒りが感じられた。感情を抑えているようだが、言葉の端々に決して風化することのない怒りが滲んでいる。

 私は百合の隣に座り直し、彼女の手を握った。しっとりと汗ばんだ、冷たい手だった。


「というと?」

「夏江さんの不倫がバレたことで、勇心はあるを抱きました」

「疑念ですか」


、という疑念です」


「ああ……」


 お腹を痛めて我が子を出産する母親と違い、父親は我が子が実子であることの判断を妻を信じる心にゆだねるしかないのだ。


 子供が本当に自分の子であるのかどうか。


 その疑惑は様々な時代でいくつもの悲劇を生んできた。


 だが、現代においては、それはもはや悪魔の証明ではない。しかしながら、安易に踏み込むこともまたためらわれることはたしかである。

 倫理的な問題はさておき、父親が確実に子が実子であることを知るすべはDNA鑑定による科学的な証明だけだ。しかし、世の父親のほとんどは妻子を疑うような真似をしないだろう。彼らは妻を信じているのだ。


 ではその妻が信じられなくなったとしたらどうだろう。自分を裏切った妻は、本当に自分の子を産んだのか? そんな脅迫的な疑念に囚われることは不思議ではない。


 私は八神勇心の疑念の想いが理解できるような気がした。もちろん彼が犯したという殺人を肯定するつもりはないけれど。


「彼はひそかに林檎と自分のDNA鑑定を行いました。そうして、二人の親子関係が認められない、という最悪の結果が出てしまったのです。林檎が自分の子でないと知った彼は、深い絶望を味わったことでしょう。林檎の命を助けるために、妾の子であるわたしを引き取ったのに、林檎には自分の血が流れていなかったのだから」


 可愛さ余って憎さ百倍ということか。


 愛人の子とはいえ、自分の娘の命を犠牲にしてまで守ろうとしたもう一人の娘が、自分の子ではなかったと知った時、それまでの愛情が反転して強大な殺意となってしまったのだろう。


「そして、妻の裏切りの証拠である林檎ちゃんを殺める決意を固めた、ということですね」

「ええ、しかし、勇心がそれを決行するためには一つの大きな障害がありました」


「障害?」


 百合は涙を拭って、


「わたしです。当時、わたしと林檎は四六時中一緒にいました。それはもう、起きた時から、寝る時まで、ずっと一緒に過ごしていたのです。同じベッドで寝起きをして、同じ時間を共有していたのです。だから、勇心が林檎を手にかけるためには、わたしを一時的に林檎から引き剥がさなくてはならなかった。その役目を担ったのが、石田友起でした」


「石田……友起」


 やはり彼は間接的に事件に関わっていたのか。


 この告白は百合自身にとっても辛いはずだ。励ますように、彼女の手を握る力を強くする。梢は余計な質問を挟まず、黙って耳を傾けていた。


「石田は最初から林檎の殺害計画に協力をする目的で八神家の使用人として働き始めたのです。彼は当時役者業を休業していました。舞台上での重大な失敗を座長夫人である夏江さんに咎められたことが原因でした。ご存知でしたか?」


「はい」


 梢は短い返事をする。

 往時の話は石田の妹である光子からも聞いている。百合の語った内容にそれと矛盾する箇所はなかった。


「当時の石田は芝居で食べていくことはもう絶望的だと覚悟していたそうです。復帰をするにも夏江さんが障害となるし、彼自身も役者としての自信を喪失していたようですから。勇心に憧れて役者の世界の門を叩いた以上、別の劇団に移る、という選択肢もなかったそうです。

 勇心は自分を慕っていた石田に目をかけていて、時おり彼の自宅を訪ねては説得を繰り返していたそうです。石田も勇心の熱意に押されて情熱を取り戻すようになりましたが、やはり夏江さんが復帰の障害となっていたようで、なかなか話が進みませんでした。そんな中、夏江さんと勇心の離婚が決まり、ようやく復帰のめどがなんとか立ちました。勇心はその状況を利用したのです。劇団蝶花への復帰を条件に、石田を林檎殺害計画に引き込んだのです」


 百合はここで言葉を切って、アイスコーヒーを口に運んだ。呼吸が荒くなっているのに気づき、私は彼女の背中をさすってあげた。


「ありがと、楓さん。それで、先ほど言ったように、石田の役割はわたしを一時的に林檎から引き離すことでした。一時的といっても、十分、二十分ではいけません。林檎を殺し、急性心不全で突然死したように工作するためには、できるだけわたしを八神の屋敷から遠ざける必要がありました。使用人として八神家にやってきた彼は夢破れた若者を演じながら、わたしに近づいてきました。彼の手口は実に簡素です。わたしを外出に誘い、屋敷の外に連れ出す。ただそれだけです。元々彼が女好きのたらしであることは知っていたので、わたしはその真意に気づくことなく彼を袖にし続けました」


 百合は涙声になりながら続ける。


「あんまりにしつこいので、遂にわたしは石田の誘いを受け入れてしまいました。でも、それは石田に好意があるとかそういうものではなく、ほんのきまぐれでした。たまには気晴らしに遊びに出かけるのもいいかな、とそんな軽い気持ちでした。でも、それがいけなかった」


「百合は悪くない。悪くないよ」


「慰めないで。たいして楽しくもない遊園地から帰った時、屋敷の中は息が詰まるほど重苦しい空気が満ちていました。不審に思いながら使用人たちに話を聞くと、林檎が死んだ……と」


 百合は声を荒げて、


「悲しみよりも先に、どうしようもない自分への怒りがあふれてきました。あの子の幸せを守ると誓ったのに、あの子の一生を幸せなものにすると誓ったのに、わたしの心臓を移植して、あの子はこれから幸せな人生を歩むはずだったのに……それをわたしが壊してしまった……」


「うん? ちょっと待ってください。当時のあなたは自分が八神家に引き取られた事情を知っていたのですか?」


「偶然父と城戸先生――林檎の主治医です、彼らの会話を盗み聞きしてしまい、わたしが林檎の心臓のスペアとして連れて来られたことを知りました。ショックだったけれど、これで愛する林檎が助かる道ができたと思うと、悲しくはありませんでした」


「……強い人ですね」


「よしてください。話を戻します。実際どんなふうにして林檎が殺されたのか、今となっては判りません。たしかなのは、勇心が自らの手で林檎の命をもぎ取ったこと」


 聞きながら、わたしは吐き気を催すような胸糞悪さと闘っていた。幼い少女が信じていた父親に裏切られ……殺されるなんて……きっと怖かったはず、苦しかったはず……


「旧友である城戸先生を抱き込み、勇心は林檎の死を容体の急激な悪化による病死として処理すると、次の手に打って出ました。わたしを『八神林檎』として育て、ゆくゆくは本来林檎が継ぐはずだった八神家をわたしに継がせようと目論んだのです。勇心は……あの悪魔のような男は言いました。『お前が林檎となって、あの子の人生を継いでくれ』『あの子ができなかったことを、あの子の代わりにやってあげてくれ』と。自分が殺したくせに、あいつは涙を流し、悲痛な声で嘆願したのです」


「一世一代の名演技ですね」


「そんなこととは知らずにわたしはそれを了承しました。林檎の分まで生きていこう、林檎の代わりに、あの子がやりたかったこと、できなかったことをやってあげよう、と。林檎の幸せを守ることがわたしの存在理由だった。それなのにあの子の死に目に立ち会えなかった罪悪感も後押ししました。それでも林檎を失ったショックは大きく、心神の静養のために神戸で過ごすことを勧められました」


「勇心さんから?」


「はい。しかし、それは今になって思えば彼の策略の一つだったのでしょう。あくまで彼は林檎の死――殺害を隠し、わたしが本物の林檎であるように振る舞うつもりだったのですから。使用人は口止めをしてクビにし、新しい使用人と入れ替えれば問題はありませんが、八神の親族たちを欺くためにはわたしと林檎のを埋める必要がありました。

 幸い林檎が親族たちと顔を合わせた機会は数えるほどしかなかったようなので、顔の違いは成長による顔立ちの変化を理由にできました。しかし、はどうしようもありません。なので、少なくとも林檎が二次成長期を迎える年齢までは八神の親族たちと接触することを避けなければなりませんでした」


「ということは、八神明雄さんはあなたを本物の八神林檎だと思っていたのですね」


「そのようです。その後勇心は多額の口止め料を払って使用人を解雇し、何も知らない新しい使用人を雇いました。約束通り石田も劇団に復帰させました。同じ時期に劇団を手放したのは、きっと夏江さんとの忌まわしい記憶を断ち切る意味があったのでしょう。夏江さんの不倫相手は劇団蝶花の役者だったようですし、彼女は元々劇団蝶花で女優として舞台に立っていて、その縁で勇心と結ばれたのですから」

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