第三十七章  お好きなんですか?

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 思いもよらぬ展開になった。


 推理小説が大好き。


 そう言った林檎は立ち上がって私の手を取ると、感極まったふうに相好を崩した。どう反応したらよいものか判りあぐねた私は、ぎこちないお辞儀を繰り返すばかりであった。

 高貴という言葉を擬人化したような彼女が、私の血なまぐさい拙作を読んでいるなんて、考えただけで顔から火が出そうだ。


「ありがとうございます。いや、本当に。あっ、そうじゃなくて、お姉ちゃん」


「判ってるわよ。さて、林檎さん。憧れの先生を前にして興奮しているところに水を差すようで恐縮ですが、此度の事件について、もう一度お話を伺いたいのです」


「姉が探偵で、妹が推理作家の美女姉妹……素晴らしいですわね。何でもお訊きになってください」


 恍惚とした表情を浮かべながら林檎は応じた。


「八神林檎さん、年齢は?」

「十七です」


 それにしてはずいぶん大人びている。佇まいや言葉の選び方には、すでに熟成された大人の余裕を感じた。これが上流階級のお嬢様か。


「昨夜のあなたの行動について伺います。午後十時から午前一時までの行動を詳しく聞かせてください」


 林檎は顎を上げ、中空を見つめながら、


「その時間帯は、自分の部屋で読書をしていました。ええ、もちろん推理小説です。『水晶のピラミッド』を再読していましたの。あれって本当に可哀そうなお話ですよね。救いのないお話って本当は苦手なんですけど、どうしてか定期的に読み返してしまうんです。読んだら絶対に胸を痛めるって判っているのに」


「ええ、判りますよ。悲劇ほど人の心を惹きつけるものはない」


「でも楓先生の作品はどれもハッピーエンドで締めくくられていて素晴らしいです。凄惨な事件を描いているのに、ディズニー映画を観た後のようなさわやかな気持ちになれるのは、先生の作品くらいですから」


「いやぁ、それほどでも」


 私としては一流の悲劇で胸を痛めるくらいなら、三流のハッピーエンドの方でほっこりする方が好きだ。なので、自作の結末はできる限りハッピーエンドになるよう努力している。


「昨日は九時から読み始めて、十一時半過ぎにしおりを挟んで、ベッドに入りました。でもすっと眠りに落ちることができませんでしたので、横になりながらぼんやりしていました。三十分くらいそうしていたら、だんだんと眠気がやってきて、なんとか眠ることができました」


「零時頃に眠ったということですね。ではその夜、誰かがあなたの部屋を訪ねてくるということはありましたか?」


「いいえ、全く」

「あなたが部屋を出て誰かと会う、ということも?」

「はい」


 林檎もアリバイはないということか。


「勇心さんにお茶の誘いを受けていたりも?」

「そんなことはありませんでした。父の部屋に呼ばれて一緒にお茶を飲むことはよくありましたが、昨日の夜はそんなことは全く。あの、捜査員の方から聞いたのですが、父の部屋には毒入り紅茶が残されていたそうですね?」


「ええ、興味ありますか?」

「ミステリマニアですので」


 愛くるしい表情で、林檎は不謹慎なことを言う。父親が殺害されたというのに、どこか非現実的なものとして事件を解釈しているようにさえ見受けられた。


「あまり詳しい話をこの段階ですることはできませんが、毒入り紅茶が残されていたことは事実です」

「まあ」


 口元に手を当て、林檎は驚いて見せた。その反応が本物かどうかを観察しながら、梢は質問を繰り出す。


「少し話を変えます。変なことをお訊きしますが八年前、この八神家で何か事件や事故が起きませんでしたか」

「八年前? 九歳の時ですわね」

「どんなに小さなことでもいいんです」

「……あ、そうだわ」

「何ですか?」


 梢は語気を強める。ようやく八年前について言及する証人が現れたのだ。


「実はその年、静養のために神戸の方に移りましたの」

「あなたがですか? どこか体を悪くしていらしたんですか?」

「ええ、ちょうどその年に大きな手術をしまして」

「失礼でなければ、もう少し詳しく聞かせてください」


 すると林檎は顔を曇らせて、左胸に手を当てた。


「ここに」


「心臓の手術……どちらの病院でしょう?」


「神戸の城戸循環器内科クリニックです。父の友人の城戸誠という先生が経営している病院です。富士宮にも同じ循環器内科の病院を経営していらっしゃいました」


「城戸誠……この方とは現在は?」

「去年亡くなられました。肺がんだったそうです」

「そうですか。神戸にはいつ頃まで?」

「二年前までいました」


「ということは、使用人の方々が入れ替わっていたことはこちらに帰ってから知ったということですね?」

「はい。驚きました。明雄さんたちも日本に帰っていたので、余計に」

「どうして使用人が入れ替わったのか、ご存知ですか?」

「いえ、全く見当もつきません」

「勇心さんの指示によるものだそうですが、そのことについて何か聞いたりはしていませんか?」


 林檎は無言で首を左右に振る。合わせて揺れる黒髪は、実に綺麗だった。


「勇心さんとの関係は良好でしたか?」

「はい。悪くはなかったと思います」

「誰かに恨まれていると言った話を聞いたことは?」

「どうでしょう。六年間離れて暮らしていたので、そういうことは判りません」


 出せる質問はもう出尽くしたような気がした。

 梢は難しい顔をして黙考している。林檎は俯き、膝の上で手を遊ばせていた。この気まずい沈黙をどうにかしようと、私は考えた。

 後になって思い返してみると、どうしてあんなどうでもいいことを聞いたのか自分でも判らないが、とにかくこの時は場を持たせるのに必死だった。


「あの、林檎、お好きなんですか?」


 目の前の林檎の木を指差しながら私が訊くと、八神林檎は表情を凍り付かせた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに元の優雅な表情に戻る。


「ええ、大好きです。とても……」

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