第三十五章  ジェラシー

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「次の関係者の方がいらっしゃいましたよ」


一条寺の声を聞いて戸口に目を配ると、一人の女性が悄然と立ち尽くしていた。


「八神そらさん、さあどうぞ」


 彼女が明雄の妻、八神空か。入室するなり、空は眉を八の字にしてこう言った。


「あの、もしかしてここで煙草を吸いましたか? 私、煙草の臭いが大の苦手なんです」


 そして彼女は戸口の脇に密集したスイッチを一つ押した。ややあって、天井の換気扇が動き始めた。


「臭いが消えるまでもう少しかかりそうですね。場所を変えてもよろしいですか?」


「え? ああ、それはもちろん。構いませんが」


 一乗寺はさっと腰を上げ、俊敏な動きで空をエスコートした。煙草の煙を吐いていた張本人、梢はバツが悪そうな顔をしてその後ろに続く。


「やっぱり煙草はやめた方がいいよ。口が臭い女子なんて、一生貰い手が見つかんないかもよ」


 歩きながら私が耳打ちするのを無視して、梢はしきりに何かを考えるようにぶつぶつと小声を漏らしてた。


 空の事情聴取は南棟の食堂で行われることになった。開放感のある空間だ。

 縦長のダイニングテーブルの端に座り、心細そうに肩を震わせている空と向き合う。ほっそりとした顔に白魚の様な肌、たれ気味の瞳には相対する人間の庇護欲を刺激するような効果があった。

 自分より明らかに年上のはずなのに、守ってあげたい、とついそんな気持ちを抱いてしまう私だった。


「さて、それではお話を聞かせていただきたいと思います」


 梢は余裕のある視線を空に向けた。


「お手柔らかにお願いします」

「昨晩は早くにベッドに入ったようですね」


「ええ、元々寝つきが悪いので、昨日だけじゃなく、いつも早めに横になるんです。えーと、昨日の夜は、子供たちを寝かしつけてからお酒を飲みながら少しテレビを観て、ベッドに入ったのは九時半ぐらいだったかしら」


 明雄・空夫妻の子供は四歳の息子と二歳の娘の二人だという。


「それから朝までずっと眠っていらしたんですか?」

「はい。睡眠導入剤を飲んで、十五分くらい微睡んだら、もう気づいた時には朝でした」

「それは毎晩服用されるのですか?」

「はい」

「明雄さんは十一時頃に帰宅されたそうですが、それには気づきましたか?」

「いいえ。眠っていましたから」

「八神勇心さんについて、あなたはどのように思っていましたか?」


 それまで明瞭に質問に答えていた空だったが、ここで初めて口を噤んだ。


「えーと、あの、よくしていただいていました」


「よくしていただいていました、とは?」


「え? その、他意はないんです。主人の転勤に伴って帰国した際も、色々と面倒をおかけしましたし」


 歯切れが悪い。もう少し突っ込んだ質問をしてみるべきだろう。


「勇心さんとの関係は良好でしたか?」

「……はい」

「勇心さんの部屋にはよく足を運ぶのですか?」


「え?」


「いえ、に勝手知ったるような感じがしたので」

「……」


 圧迫感を感じているのか、空は辛そうに呼吸をしていた。


「たまに伯父様とお茶をご一緒するだけです」

「二人きりで?」

「……はい」

「それだけですか?」

「どういう意味でしょうか?」


 空は慎重なまなざしで梢を見返した。


「親密な――いわゆる男女の関係にはなっていましたか?」

「そんな」


 心外だ、というふうに空は声を張った。柔和な造りの顔に怒りが滲んでいく。


「そんなことは決してありません。そんなこといきなり訊くなんてあなた、非常識ですよ」


「気分を害されたのなら申し訳ありません。しかし、男女が同じ部屋で時間を共有するというのは、おうおうにしてそのような意味を持つものですよ。旦那さんはそのことを知っていましたか?」


「さあ、知っているんじゃないでしょうか。でも私が伯父様のお茶の相手をするくらいでいちいちジェラシーを感じるほどやわな神経をしてはいませんよ」


「何か仰っていましたか?」


「別に何も。伯父様はもうお年ですし、そもそもそういった発想にはならなかったと思います。もしかして、主人が嫉妬に狂って伯父様を殺したとお思いですか?」


「可能性がないとは言い切れませんね」

「ありえません」

「では昨晩勇心さんからお茶のお誘いはありましたか?」

「いいえ」

「彼の部屋を訪れてはいないわけですね?」

「はい」

「判りました。ではこの話題はここで打ち切りましょう。別の質問に移ります。八年前、この八神家で何か大きな事件がありましたか?」

「八年前?」


 半開きになった口から熱い吐息を漏らしながら、空は過去の記憶を探り始めた。


「その時は、主人と共にベトナムで暮らしていたので。何かあっても、私たちの耳には入らないかと」

「ではあなた方夫婦がご存知ないだけで、事件があったかもしれない、ということは否定できないわけですね?」

「うーん、どうでしょう。そういう話は聞いていませんから。夫もそんな話は一度もしませんでしたし。でも、八年も前のことがこの事件に関係しているんでしょうか?」

「可能性は高いと思います」


 梢は自分に言い聞かせるようにそう言った。





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