第三十一章  毒入り紅茶はどこから?

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 寝室に入ってみると、まだ数人の捜査員が残っていた。


 大企業の会長の寝室というからには、どれだけ豪華絢爛で悪趣味な造りなのだろう、と期待したが、たいしたことはなかった。


 部屋の奥のダブルベッドはベッドメイキングしたばかりのように整っていて、人が眠った形跡はなかった。右手の壁にはサイドボードが造りつけられ、洋酒の瓶が並んでいる。その上には高級そうなオーディオセットがある。

 シャワールームやトイレも完備されており、なんと簡易キッチンまであった。まるで一流ホテルのスイートルームだ。

 中庭に面した窓のそばに大きなティーテーブルがあり、それを木製の椅子と電動車いすが挟んでいた。問題の毒入り紅茶はここに残されていたそうだ。


「つまらなそうな顔してるじゃない」


 部屋を見回したあと、梢が言った。


「いや、日本有数の金持ちのお爺ちゃんなんだから、もっと悪趣味で卑猥な部屋かと」

「例えば?」

「そうだなぁ。もっとこう、けばけばしい色のランプとか、回転するベッドとか、あとは磔みたいのとか」

「ラブホテルか」


「それでね、何人もの愛人に囲まれて、横溝正史よこみぞせいしの世界みたいな、肉欲と愛憎にまみれた淫靡な夜を――ちょっとお姉ちゃん、聞いてるの?」


 私の戯言を鼻で嗤うと、梢はティーテーブルの後方に残された人型の白線の前でしゃがんだ。

 顔を壁に向け、右半身を下にした状態で横になった形だ。ティーテーブルの方向に足を向けている。写真で見た遺体が、白線の内側に浮かび上がってくるような錯覚に襲われた。


「車いすの方は被害者が使っていたのですね?」


「ええ。八神は糖尿病のせいで両足がしびれて動かなかったそうです。一年ほど前から車いすで生活していました。今朝、日常的な世話をしていた使用人が、そこで倒れている被害者を発見したようです。最初の一撃を受け、被害者はバランスを崩して転倒。そのまま犯人が追撃を加えたと思われます」


 頭部の辺りには流れ出た血の痕が生々しく残っている。それ以外には特に変わったところはない。荒らされたような跡も見受けられない。

 被害者が自由に動けない健康状態にあったことは、犯人にとって非常に都合がよかったと言える。

 足を踏み入れた当初は、洗練された大人の空間といった印象を受けたが、すぐに現実に引き戻された。ここは殺人の現場なのだ。一人の人間がここで死んだ。


「一乗寺警部、もう一度確認しますが、たしかに毒入りの紅茶はだけだったんですね?」

「はい。また、残念なことにどちらも口をつけた形跡はありません。唾液が採取できれば一発だったんですがねぇ」


 それを聞いて、梢は深く考え込むように唸ると、やがて言った。


「とりあえず関係者に話を聞きましょう」


 書斎に戻り、昨夜この屋敷にいた関係者を一人ずつ呼ぶ。

 八神邸の使用人は七名おり、そのうち住み込みで働いているのは三名だけだった。残りの四名は通いの使用人だという。

 最初に梢が指名したのは、昨晩紅茶を運んだ女だった。彼女は派手なフリルが特徴的なエプロンドレスに身を包み、おどおどとした足取りで入ってきた。髪はショートで、丸っこい顔立ちをしている。


「あの、まだ何か?」


 女は不審なものを見るような上目遣いを一乗寺に送ると、さりげなく梢を盗み見た。


「ああ。こちらは普段から我々の捜査に協力していただいている、探偵の武光梢さんです。今回の事件には不可解なところが散見できるので、無理を言って参戦していただきました」


「はぁ、探偵の先生ですか」


 それにしてはラフ過ぎる格好じゃないか、と言いたげにメイドは梢を見つめた。探偵はウィンクを返す。


「そちらの方は?」

「武光楓といいます。こちらの梢の妹で推理――」

「助手です」


 私の自己紹介を遮るように梢が言った。


「あの、誰に何を訊かれても、同じ証言しかできそうにないですけど」


 言いながら、女は向かいのソファーに腰を下ろす。


「構いません。それでは梢さん、お願いします」

「まずお名前を」

太刀川たちかわまゆです」

「年齢は?」

「今年の春に二十三歳になりました」

「あなたは新しく入られたばかりの使用人だそうですね。正確にはいつ頃から?」

「二週間くらい前でしょうか」


「二週間!」


 梢は驚いた顔をして見せた。

 まゆが二週間前に働き始めたばかりなら、被害者に殺意を抱くほど深くは関わっていないだろう。


「どうしてここで働こうと思ったのですか?」

「前やっていた仕事より、お給料がいいので」


 以前はイタリアンのチェーン店で働いていたという。


「昨晩、同僚の男性と一緒に、勇心さんの部屋に紅茶を運んだそうですね」

「はい」

「どのようにして運んだのですか?」


 まゆは遠くを見つめるように目を細めて、


「どのようにって、給仕用のワゴンに載せて、私が押しながら南棟のキッチンから向かいました。準備から全部、基本的に私が一人で作業をして、松戸まつどさんの役目は、ミスがないかチェックすることでした」

「その時、相手の方が不審な行動を取った覚えはありますか?」

「不審な行動?」


 まゆは小首を傾げた。


「例えば、あなたの注意を別の何かに逸らして、その方向に視線が行くように仕向けたり」

「いえ、そういうことは特に何も」

「そうですか? では何かしら理由をつけてティーセットに触れるようなことは?」

「うーん、それもありません。準備の段階では私が一人でやって、松戸さんはずっと後ろにいました。それに運んでいる最中にカップやポットに触るには、ワゴンの蓋を開けなくてはいけないので、もしそういうことがあったらすぐに気づくはずです」

「……ああ、なるほど。そういうことですか」


 ワゴンの構造上、相方に気づかれずに毒を仕込むのは不可能のようだ。もっとも、この二人が共犯でなければの話だが。


「では、ワゴンを運んでいる最中に、他の誰かが話しかけたりしたということは?」

「ありませんでした」

「道中、誰とも会わなかった?」

「はい」


 やはり、ニコチンはティーセットが勇心の部屋に運び込まれてから仕込まれたようだ。


「あなた方が紅茶を届けた時、八神さんは一人でしたか?」

「はい。寝室でお待ちでした。ちょうど窓際のティーテーブルのところにいらっしゃいました」

「誰かが後からやって来るとか、そういうことを仰っていましたか?」

「いいえ。でも、二人分のカップを用意させたので、誰かを後から呼ぶんだろうなって思いました」


「誰だと思いますか?」


「え?」

「こちらの書斎ではなく、寝室の方へ運ばせた以上、相手はかなり親密な関係にある人間だと思われますが、そういう人間に心当たりはありますか?」


「そうですねぇ。親密っていうならやっぱり娘であるお嬢様かな。いやでも……うーん。ごめんなさい、判らないです。私、入ったばかりなので、この家の人間関係は詳しくないんです」


「それでは別の質問をさせていただきます。太刀川さん、昨日の午後十時から午前一時まで、どこで何をしていましたか?」

「あの、もしかして私も疑われているんでしょうか。こんなこと自分で言うのもあれですけど、旦那様を殺したって私には何の得もありません」


 まゆは懇願するような目を向けた。


「昨晩この屋敷にいた者は、誰もが平等に疑われています」

「……十時に旦那様に紅茶を届けた後、松戸さんと一緒にキッチンへ戻りました。本当はキッチン周りの清掃をするんですけど、松戸さんが今日はもう上がっていいと仰ってくださったので、そのまま寮に帰りました。ええと、十時十分くらいです」

「寮があるんですか?」

「はい、中庭の端に。それで、自分の部屋に帰って、シャワーを浴びた後、すぐベッドに入りました」


 つまり太刀川まゆにはアリバイはないということだ。


「それでは八神勇心さんについてお訊きします。あなたから見て、八神さんはどのような方でしたか?」

「そうですね、あんまりこういうことを雇い主に対して口にするのはあれですけれど、何と言うか、偏屈な方でした」

「嫌な爺さん、ということですか?」

「うーん、なんて言うんでしょう。自分以外の人間は信じない、という信念っていうか、信条っていうか、そういうものを言葉や行動から感じました」

「誰かとトラブルを起こしたという話は?」

「聞いたことはありません。さっきも言いましたけど、私はここで働き始めたばかりなので」

「噂程度のものでも結構ですが」


 考えるようなそぶりを見せた後、まゆは残念そうに首を横に振った。

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