第二十九章  事件発生

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 吸い殻を片づけ、灰皿を綺麗に洗ってから姉の部屋に戻る。


「次からは自分でやってよね」

「ありがとう。楓、愛してる」


 窓辺に立ったまま、相変わらず梢は煙草を燻らせている。


「はいはい。缶は自分で片づけてよね」

「はいよー」


 梢は窓から差し込む夏の陽射しに目を細め、気の抜けた返事をした。Tシャツにジャージのズボンという服装は、女盛りのアラサーとは思えないほど枯れている。根元まで灰にした吸い殻を灰皿に捨て、彼女は隅にあるベッドにその巨大な臀部を押し付けた。


「はぁー、平和だ」

「うん、平和だね」

「こう平和だと、何もやることがない」


「部屋の掃除でもしたら?」


「戦争が文明を発展させたように、事件が探偵を成長させる。平穏ほど人間を衰退させる毒はないね。今、あたしは毒を原液のまま飲まされている気分だ」


「掃除したら?」


「平和過ぎるのも考えものだな」


「掃除」


 梢は眉をひそめ、しぶしぶ立ち上がった。


 二〇一七年、七月五日。


 その日は、朝から嫌味なほどの快晴だった。


 締め切りが近い仕事を徹夜で終わらせたばかりの私は、束の間の休息を楽しんでいた。ちょっと高めのインスタントコーヒーとネットで取り寄せた有名店の銘菓で疲れ切った脳を癒す。

 時刻は午前九時。

 このまま少し仮眠を取ろうかと思ったが、せっかくの上天気なので散歩をすることにした。


 私たちの住むマンションの裏手は広い川となっている。川沿いの道には桜の木が延々と並んでいて、春になると花見客たちで賑わうのだ。


「日光が沁みるわぁ」


 歩いていると、だんだん頭が冴えてきた。先ほど飲んだコーヒーのカフェインが今頃効いてきたのだろうか。

 風はない。容赦のない夏の熱気に包まれながら大股で歩くと、たっぷり汗をかくことができる。

 創作のネタを考える時もよくこの道を歩く。何かを考えたりする時は、じっとしているより体を動かしている方がはかどるからだ。左手をゆるやかに流れる川を眺めていたら、さっそくいい感じのトリックを思いついた。お尻のポケットからネタ帳を取り出し、忘れないうちに書き留めておく。


 しばらく道なりに歩くと、右手に小さな公園が現れる。赤ちゃんを連れたママ友集団が滑り台の前で立ち話をしていた。川沿いを散歩する時はこの公園を折り返し地点と決めている。入り口のそばにある自販機でスポーツドリンクを買い、マンションへ引き返した。


 川面が陽光できらめいている。さっきは気づかなかったが、向こう岸に釣りをしている男がいた。桜の木はすっかり青くなっている。自転車をこぐお婆さんが私を追い抜いていった。あんなに急いでどこへ行くのだろう。


「うーん、気持ちいい」


 平和だ。


 梢は平和であることは人類にとって毒だと言ったが、それの何がいけないというのだろう。少なくとも、大勢の人が理不尽に命を奪われる戦争や事件よりも遥かにいいではないか。まあ、彼女の場合それで飯を食ってるのだから、そう思うのも仕方のないことではあるが。

 マンションの前まで来ると、どこからか私を呼ぶ声が聞こえてきた。


「おーい。かーえーでー」


「お姉ちゃん?」


 私はぎょっとした。梢が窓から上半身を乗り出し、大声で私を呼んでいたのだ。落ちたら骨折程度ではすまない高さだ。


「ちょっと、ちょっと、危ないから」

「早く来て。大変だ」

「何が大変なのさー」

 私が大声で返すと、梢はにやりと笑って、


「事件だ」


 そう言った。


   *


 そのわずか三十分後、私たちは電車に揺られながら事件現場へ向かっていた。


「もう、シャワーくらい浴びさせてくれてもいいじゃない」


 私が部屋に戻った時には、梢はすでに準備を終えていた。そして「すぐに行こう」と言って私の手を引っ張った。シャワーを浴びたい、と私が訴えると、そんな暇はないときた。しかし、女子が汗まみれの恰好で外出するわけにもいかず、着替えだけはなんとか済ませてきた。


「ねぇ、私、汗臭くない? 大丈夫?」


 制汗剤で一応ケアしたけれど、やはり不安だ。


「大丈夫でしょ、たぶん」


 梢は人ごとのようにそう言った。


「自分はちゃっかりおめかししてるくせに」


 梢は長い髪をサイドアップにし、ぴっちりとした白いノースリーブとデニムのパンツといったさわやかな服装に衣装替えしていた。胸元にはシルバーのネックレスが光り、唇に引かれたルージュはとても鮮やかだった。


「別に嫌なら無理してついてくることはないんだよ? あんた昨日は徹夜だったんでしょ」


「だってお姉ちゃんを一人にするのは不安なんだもん」


「母親か」


「それで、今回はどんな事件なの? 警察からの捜査協力なんだよね? 富士宮ってたしか、焼きそばで有名な町だっけ」


 私たちが向かっているのは静岡県東部の富士宮市。日本一高い山、富士山のお膝元に広がるその町で、凶悪な殺人事件が起きたという。


「ん、ああ。楓、あんたヤガミグループって知ってるかい?」

「いや知らない……あ、嘘。知ってる。ええと、たしか医療品だかなんだかを作ってる会社だよ」


「詳しくは知らないが、そのヤガミグループの会長が殺されたんだとさ。なんでも、八神家は富士山のふもとに大豪邸を構えていて、事件はそこで起きたんだ」


「ふーん。でも、わざわざお姉ちゃんを呼び出すってことは相当変な事件なんだろうね」


 姉の許に舞い込む事件は、推理小説のように不可思議な様相の事件ばかりである。胸騒ぎとでも言うのだろうか、私の頭は、なぜか嫌な予感でいっぱいだった。


「詳しい話は向こうで聞くことにしよう」


 そう言って、梢は窓に視線を移した。眼下に見えるミニチュアサイズの街並みが、どこまでも続いている。

 富士宮駅に着くまで手持ち無沙汰なので、私はスマホでヤガミグループについて調べてみた。主にカテーテルとペースメーカーを製造している会社のようだ。本社は東京にあり、全国に大きな工場を四つも持っているという。そのうちの一つはこれから向かう富士宮にあるそうだ。


 事件のことはまだネットニュースには上がっていない。殺されたという会長についても調べてみる。ヤガミグループの公式サイトにそれらしき人物が紹介されていた。総白髪の老紳士然とした男だ。


「八神……ゆう、こころ? なんて読むんだろ」


「『ゆうしん』だとさ。珍しい名前だ」



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