第二十章  不穏は徐々に姿を見せ始める

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 平穏無事に春が過ぎ、ぎらぎらとした太陽が天に昇る夏がやってきた。富士山も雪化粧を落とし、青々としたすっぴんを披露している。


 個人的には夏はあまり好きではない。むわっとした空気が汗ばんだ肌にまとわりつき、全身がべたべたになる不快な季節である。

 しかし、富士山麗は夏を迎えてもそれほど湿度が上がらず、気温も二十度を超えることはほとんどなかった。

 陽射しこそ強いものの、夏らしさを実感できるのはむしろそれだけで、曇りの日などは半袖で過ごすと寒気がするくらいだった。と言っても、これは富士山のふもとに建つ八神邸だけの話で、市街地へ下れば気が滅入るほどの熱気が襲いかかってくるのだ。




 七月の終わりから八月の頭にかけて、林檎が大きく体調を崩した。


 遂に恐れていたことが起きたのか、とわたしは全身から血の気が引いてしまったが、ただの夏風邪と聞いて心底安心した。使用人のメイドに混じって、わたしも林檎の看病を手伝った。

 普段の元気ぶりを知っているだけに、ベッドに横たわって弱弱しい呼吸を繰り返す林檎の姿は、何よりわたしの胸を痛めた。すりおろした林檎を口元に持っていってやると、彼女は喜んで口を開けた。


「林檎、死んじゃうのかな」


 林檎は鼻声で言う。


「そんなことないわ。大丈夫よ。大丈夫だから」


「林檎知ってるもん。林檎の心臓は、変だから、長く生きれないの」


「ただの風邪だから、心配することはないわ」


「違うの。林檎は知ってるんだもん。もう知ってるんだもん。林檎は、心臓の病気だから、大人になる前に死んじゃうの」


「……林檎」


 それは、林檎が初めて見せた弱音だった。彼女は知っているのか。己の体の現状を。そして、己を待ち受ける死神の影を。


「怖いよ、百合お姉ちゃん」


「大丈夫よ」


 ありふれた慰めしか口にできない自分が情けない。


「大丈夫。きっと代わりの心臓が見つかって、手術を受けることができるから」


「本当?」


「ええ、本当よ」


「絶対?」


「絶対よ」


「百合お姉ちゃん、どこにも行かないで」


「ずっとここにいるよ」


「ずっと林檎といて。ずっと」


 必死の看病が実を結んだのか、林檎は無事に快方に向かったが、わたしの心には暗い影が残った。

 ドナーが見つからない限り、移植手術を受けない限り、最悪の事態は必ず訪れる。林檎が夏風邪を引いただけで、これだけの心痛と恐怖がわたしを襲っているのだ。

 最悪の事態――林檎の死に直面した時、わたしは正常な精神を保つことができるだろうか。


 考えるだけでめまいがする。


 改めて、この子を守ってあげようと心に誓ったけれど、ちっぽけなわたしに何ができるのだろうか。


 このか弱い妹のために何ができるのだろう。




 何が……

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