第十六章  劇団蝶花

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 十二月二十四日、クリスマスイブ。


 世間はこの時期特有のどこか浮足立った空気に満ち、それはわたしも例外ではなかった。クリスマスイブに家族で出かけるなんて、初めての経験だった。

 母と暮らしていた頃は外食する余裕なんてなかった。雑な飾りつけをした安物のクリスマスツリーを眺めながら、小さないちごの乗ったケーキを食べたのを憶えている。


 勇心の運転でわたしたちは富士山を下り、富士宮市内の市民文化会館へ向かった。

 今日、勇心が座長を務める、「劇団蝶花ちょうか」の千秋楽がそこで行われるのだ。

 満員の大ホールの特等席にわたし、林檎、夏江、勇心の順に座り、舞台を鑑賞した。演目は「ピーターパン」をモチーフにド派手なアクションと家族愛を織り交ぜた冒険活劇で、ピーターパンに扮する主演男優がワイヤーを使って舞台上を縦横無尽に飛び回ったり、巨大なワニの模型が出てきたりと、最初から最後まで飽きることなく楽しめた。


 幕が下りた後、わたしたちは楽屋を訪れた。

 すでに出番を終えた役者たちは化粧を落としたり衣装を着替えたりしていて、忙しそうだった。黒いトレーナーに身を包んだ若い女性スタッフがスポーツドリンクを配って回り、汗だくのフック船長とかつらを脱いだウェンディが仲睦まじく話をしている。

 先ほどの舞台が素晴らしかっただけに、舞台裏の雑多な現実感は強烈なものがあった。


 わたしたちに気がつくと、一同は手を止めて挨拶をした。


 座長という立場にある勇心は一同の視線を受けながら、舞台の成功を祝い、彼らの苦労を労う言葉を並べた。それが終わると、劇団の重鎮らしき人々が代わる代わる勇心のところへ行き、言葉を交わしていた。


 その間、夏江は主演の若い俳優と話をしていた。後になって知ったことだが、彼女はかつてこの劇団の看板女優として活躍していたそうだ。座長である勇心に見初められて、寿引退した後も、かつての役者仲間たちとの関係は続いているという。


 現在はファッションデザイナーとしても活動しており、劇団で使う衣装のいくつかは夏江がデザインしているそうだ。

 手持ち無沙汰になったわたしと林檎は、衣装や小道具を眺めて時間を潰していた。


「ワニさん、いないの?」

「いないみたいだね。ワニさんは大きいからここには入れないのよ」

「そっか」


 林檎は巨大なワニの模型がたいそう気に入ったらしく、ワニが登場するたびに歓声を上げていた。


「ワニが見たいのかい?」


 背後で声がしたので振り返ってみると、小柄な青年が立っていた。たしか彼は迷子の子供たちの一人を演じていた役者だ。おそらく少年C役とか、その辺りの役どころだろう。


「ワニさん見たい!」


 林檎が期待に満ちたまなざしを青年に送る。


「いいよ、ついておいで」


 隣の部屋に案内される。劇中で使われたセットの類がバラバラに解体されて、乱雑に床に置かれていた。体格のいい数人の男たちが、大道具を片づけている。


「ヤマさーん、ワニはどこー。お嬢様がご所望だよー」


 青年が声をかけると、一人の男が無言で奥の方を示した。彼らの邪魔にならないよう端を歩いた。林檎がセットに足を取られて転ばないよう注意する。


「林檎、ほら手つないで。足元に気を付けて」


 林檎の小さな手を包む。


「あ、百合お姉ちゃん、ワニさんいたよ」


 ワニは首だけの格好となって床に転がっていた。それでも、実物はかなり大きい。高さは二メートル近くありそうだった。胴体部はすでに取り外されたようで、それらしきものが遠くに見えた。

 外観は凝っているが、口から中を覗いてみるとガムテープのつぎはぎが目に入った。それでも林檎は満足したらしく、ご機嫌な様子だった。


「すっごーい」

「ありがとうございます」


 わたしが礼を言うと、青年はかぶりを振って。


「いやいや、座長の愛娘の頼みじゃ仕方ないさ。ところで君は? 初めて見る顔だけど。座長の知り合いかい?」


「あ、わたしは灰谷……じゃなくって、八神百合です。初めまして」


「ああ、君がそうかい。いや、そうなのですか。失礼しました。噂は聞いていますよ。僕は石田友起いしだゆうき、よろしく」


 石田は誠実そうな印象の青年だった。長い髪を茶色に染めており、たれ気味の大きな目をしている。美形だが、どこか子供っぽさを残したその雰囲気は、年上にたいそう受けそうだ。


「あの、敬語じゃなくてもいいですよ」

「そういうわけにはいきません。というか、僕は何もあなたが座長の娘だから敬語を使っているわけじゃあないんです。僕が敬意を表しているのは、あなたのその可憐な美しさですから」


「へっ?」


「その白百合のように清く、どこか儚い、そう例えば、抱きしめたらぽっきりと折れてしまいそうなか弱さと繊細さとが――」


 どうやらわたしは彼のキャラクターを誤解していたらしい。芝居がかった調子で、まるで舞台の上のプリンセスに相対しているかのように彼はわたしを褒め称えた。

 悪い気はしなかったが、なんとなく軽薄な感じがした。言葉の重みとでも言うのだろうか。誰にでも同じようなことを言っているのだろうと察せられる。

 それに――


「どうです? よければ、今度一緒に食事でも」

「え、い、いや、ごめんなさい」


 石田が嫌いだとか迷惑だとか、そういうことではなかった。

 いつの間にか、わたしはというものが生理的に受け付けなくなってしまっていたのだ。

 光緒の件が尾を引いているのだろう。

 若い男性と接していると、時おりあの時の恐怖が記憶の隙間から顔を出し、わたしの背筋を凍らせるのだ。というかそもそも、大人がまだ中学生二年のわたしを食事に誘うなんて、いったいどういう神経をしているのだろう。


(ロリコンか?)


「ダメですか? 残念」


 石田は諦めたように肩を落としたが、すぐに表情を切り替え、明るい口調で言った。


「ま、それはそうと、どうでした? 舞台の方は」

「楽しめました。ピーターパンって、ちっちゃい時に一度映画を見たきりだったから、新鮮でした。石田さんは迷子の少年役でしたよね?」


「ええ、迷子の少年Cとフックの手下Bの兼任です。端役ですね。でもいつかは主役として舞台に立ってみせますよ」


「役者生活はもう長いんですか?」


「いえ、まだ二年目の駆け出しですよ。やっぱり学校のおままごと演劇とは格が違う。出番直前のピリピリした空気の中、これからたくさんのお客さんたちの視線の前に晒されるんだって思うと、死刑執行前の囚人のような気持ちになる。逃げ出してしまいたいくらいに緊張する。それでも、舞台に上がったら、それまでの緊張と苦痛が嘘のように消えて、清々しい気分になるんだ。端役ですらそうなんだから、きっと主役として舞台に上がったらもっとすごいことになるはずだ。僕はそのすごいことが何なのかを確かめるために、役者の道を選んだんだろうな――なんてね」


 石田は斜め上の中空を見つめていた。その瞳には気取りや軽薄さというものは一切なく、夢の舞台へのたしかな覚悟だけが燃えていた。


 夢を見る人間は美しいと思う一方、それが妬ましく思えてしまうのはわたしの心が汚いせいだろうか。

 もし林檎が病気でなかったら、もしくは、病気を克服できたら、彼女もいっぱしの夢を語ることができるのだろう。子供がクレヨンで白紙に描く、将来の夢という漠然とした幻影ではなく、筋道を立てた明確なビジョンを、夢として志すことができるのだろう。


 ワニの口の中に入っている林檎に目配せすると、悪戯っぽい笑顔が返ってきた。

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