第九章  百合『お嬢様』歓迎ムード

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 目が覚めた時にはもう夜だった。ずいぶん長い間走っているようだが、まだ着かないのだろうか。隣の勇心も眠り込んでいて、起きているのは運転席の泉だけだった。


「あの、今何時ですか?」

「午後八時でございます」


 疲れなど感じさせない、朗らかな声が返ってくる。


「あとどれくらいで到着しますか?」

「もうさほどお時間はかかりません。あと十分ほどでございます」


 そう言って、泉はちらっとハンドル横のカーナビを見やった。画面に表示されている地図を見るに、今わたしたちは静岡県東部にいるらしい。


 静岡!


 これはまたずいぶん遠いところまで来てしまった。窓に顔をつけて外の様子を窺う。暗くてよく判らないが、人家はほとんど見えない。視界に映るのは静まり返った林ばかり。


「あの、今どの辺りを走っているんですか?」

「富士山の登山道でございます。八神家の本邸は、静岡県富士宮ふじのみや市の富士山のふもとに建っております」


 富士山!


 わたしはまたしても面食らってしまった。


 思えば、富士山を真正面から眺めたことなどなかった。今まで住んでいた街では、よく晴れた日にぼんやりとした輪郭が見えればいい方で、たいていは厚い雲の後ろに隠れてしまっていた。なのに、今はその富士山のふもとに向かって走っているなんて。なんだか夢を見ているような気分だ。


「暖房の効きはいかがでしょうか。寒くはございませんか?」

「だ、大丈夫です」


 勇心の方を見る。かぶっていた山高帽を膝の上に乗せ、唸るようないびきをかいている。この時初めて彼の頭頂部を目にした。総白髪ではあるものの、薄くなっている箇所は見当たらない。ハゲは遺伝すると以前読んだ本に書いてあったので、とりあえずほっとした。


 やがて、前方に鉄製の大きな門が見えてきた。その前で一度車を停めると、泉は外へ出た。ややあって、門がゆっくり開かれる。泉は運転席に戻ると、入ってすぐ右手にある車庫へ車を進めた。

 勇心はのそのそと起きだす。


「旦那様、到着いたしました」

「ご苦労」

「あ、ありがとうございました」


 泉に礼を言って外に出ると、途端に冷たい外気が体を震わせた。夜の山、しかも真冬のそれとなると、その場に立っているのがやっとなくらいの寒さであった。


「寒いな、これを着ていなさい」


 出会った時にそうしてくれたように、勇心は自前のコートをわたしに貸してくれた。


「さて、行くか」


 車庫を出るとわたしは思わず目をむいた。車庫の外に広がる風景は、まさしく山奥のそれだったのだ。どこまで木々が続いている。あちこちに視線を彷徨わせていると、左手十メートルばかり奥に先ほどくぐった鉄門が見えた。しかし、背後の車庫以外に建物らしいものは発見できなかった。


「こっちだよ」


 勇心はすたすたと歩き始めた。彼のシャツの裾を掴みながらわたしも歩く。

 屋敷はこの森を進んだ奥にあるそうだ。どうやら、前庭にあたる部分を木々が埋め尽くしているらしく、小さな森を形作っていた。その中央を、石畳が敷かれた細い道が貫いている。


 道の両脇に数メートルほどの間隔で外灯が立っているが、あまり光は強くない。淡い光は逆に、夜の陰気な空気を引き立てているようにも思えた。


 風が吹くたびにかさかさと草木が音を立てる。空は黒々とした雲に覆われ、月や星は姿を見せない。まるで幽霊屋敷に続く森を歩いているような、なんとも不気味な雰囲気だった。はっきり言って、こういうのは苦手である。


 周囲の木々が途切れると、大きな洋館が姿を現した。横に広い二階建ての西洋館だ。玄関へ続く石階段に足をかけ、そろそろと上る。玄関扉には獅子を象ったノッカーがついていた。


 中に入る前に振り返ってみると、今通ってきた道の両脇の外灯の光が、手前から奥まで一挙に見渡せた。歩いている時はただ恐怖心を煽るだけに思われたが、こうして全体を見ると、あの淡い光の連なりが夜の森を幻想的に彩っているのがよく判った。


 光の道。


 そんな名称が思い浮かんだ。


「百合、入らないのかい」

「あ、はい」


 急かされて、わたしは中に入った。するとそこは学校の教室よりもはるかに広い空間で、目が痛くなるほど明るかった。

 その原因は一目で判った。天井から吊るされたシャンデリアだ。天井はかなり高い位置にあるのだが、直視できないほど強い光を放っている。シャンデリアなんて、古い洋画の中でしか見たことがない。灰谷家もそこそこの小金持ちだったが、八神家は規模からしてけた違いのようだ。


 手前に広いスペースを持った靴箱があり、そこでスリッパに履き替えた。


「旦那様、お荷物をお預かりします」


 どこからともなくメイド服姿の女が何人も現れた。勇心が帽子やら鞄やらを彼女たちに預けているのを見て、わたしはそういえば、と借りていたコートを脱いだ。これも返さなければ。


「まだ着ていてもいいんだぞ。寒かろうに。いや、それなら着替えを済ませた方がいいか。この後すぐに歓迎会をするからな。その恰好じゃあいかん。おい、百合を部屋に案内しておけ」


「かしこまりました。ではお嬢様、こちらへ」


 一人のメイドがわたしの前に立ち、頭を垂れた。それはわたしにとって、何よりも衝撃的な出来事だった。


 彼女はわたしをと呼んだのだ。

 

 ほんの数時間前までのわたしは、灰谷家専属ののようなものだった。

 立場的には彼女たちとそう変わらない、いや、自由な時間がない分もっとひどいものだった。それが今では「お嬢様」だ。シンデレラも真っ青な成り上がりである。


「さあ、こちらに」


 メイドに案内されたのは二階にある一室で、これがまた広かった。白を基調とした清潔な部屋で、二間によって構成されている。

 入ってすぐは十畳ほどの広さを持った洋間で、ソファーやテレビ、テーブル、小型の冷蔵庫など、一通りの家具が揃っていた。正面にある扉を抜けると、その先は寝室だった。

 右手奥に大きなベッドがあり、その隣に天井すれすれの大きなクローゼットが構えていた。左手にはガラス張りのシャワールームもある。もうこの二間だけで生活ができそうだ、と考えてしまうのは心が貧しいからだろうか。


「お着替えが済みましたら、食堂へご案内いたします」


 そう言って彼女は辞した。一人取り残されたわたしは、自分を取り巻く環境のあまりの変化に、気を失ってしまいそうだった。自分ごときがこんな立派な部屋で寝泊まりしてもいいのだろうか。自分を蔑む気はさらさらないが、そう感じずにはいられない。


 人生、何があるか判らないものだ。


 今日だけで、一生分の衝撃を味わったように思う。


 いとこの光緒に襲われて、自分の身を守るためとはいえ、生まれて初めて人の体を傷つけてしまった。そしてしかるべき処置も行わないまま逃げ出し、己の運命を恨んだ。死んでしまった方が楽だと、本気で思った。そして自分の父親とぶつかり、偶然の再開を果たした。


「……」


 クローゼットを開け、用意された服の多さに圧倒されながら、わたしは着替えを済ませた。もこもこの白いセーターに、紺色のロングスカート。この際だから下着も交換した。

 廊下へ出ると、先ほどのメイドが実に落ち着いた佇まいで待っていた。わたしの姿を認めると、彼女はにっこりと笑顔を見せて、


「では食堂へご案内いたします」

「あ、はい。よろしくお願いします」


 廊下の両脇にはいくつものドアが並んでいる。これは迷ってしまうな、と自分の部屋を確認しようと背後を振り返ったら、案の定、もうどこが自分の部屋だか判らなかった。


 食堂へ着くまでに、何人もの使用人らしき人とすれ違った。彼らはわたしを視界に入れると、一様に足を止め、深々と頭を下げる。そのたびにわたしはどぎまぎしながら同じように頭を下げた。やはりお嬢様待遇というのは落ち着かない。


 案内された食堂は縦長の広い部屋である。

 長方形のテーブルが戸口の手前から奥まで続いている。右手の壁には暖炉が設えてあり、赤々と炎が燃えていた。その向かいの壁には透明なガラスケースが取り付けられており、見ると、トロフィーや賞状の類が飾られていた。まるで学校が部活動で獲得した賞状やら優勝旗やらを飾っておく飾り棚のように思えた。足を止めて覗いてみると、どうやら演劇関連の賞のようだった。勇心の仕事は役者なのだろうか。


「待っていたよ、百合。さあ、こっちだ」


 三十人は余裕を持って座ることができそうなテーブルにはしかし、たったの二人しか座っていなかった。一人は勇心。そしてもう一人は妙齢の女。おそらく彼女が、勇心の本妻なのだろう。勇心から聞かされた過去話が思い出され、緊張と警戒心がわたしの動きを鈍くした。


 ぎこちない足取りで彼らの許へ向かうと、二人は示し合わせたようにすっくと立ち上がった。


「待っていましたよ。百合さん」

 そう言って、女は微笑んだ。そして、なんと彼女はわたしを抱きしめた。

「え?」


 頭がパニックになる。


 その抱擁は我が子を抱くときのように優しく、包み込むような力加減だった。わたしは昔母に抱きしめられた時のことを思い出し、切なさがこみ上げてきた。


「お会いできて嬉しいわ。私は八神夏江なつえ。今日からあなたの義理の母親になるのよ。仲良くしましょうね」


 我が子を慈しむような優しい声色だった。


(な、何なの?)


 夏江の歓迎ムードに、わたしの予想は完全に裏切られた。

 彼女にとってわたしは、かつて自分の夫が愛人に産ませた娘なのだ。しかもわたしが原因で夫は離婚の決意を固めている。そして彼女は不倫に激怒し(これは当然の反応だが)、勇心と母を強引に別れさせたという。

 そんな過去があるのだから、彼女にとってわたしは憎くてたまらない存在のはず。懐が深いとか、器が大きいとか、そういう言葉で納得できるわたしではなかった。

 やはり何か裏がある。そう勘繰らずにはいられなかった。


「灰谷百合です。これからお世話になります」

「さて、挨拶はこれくらいにして、始めようか。百合もおなかが空いたろう?」

「いっぱい食べてね」

「は、はい」


 わたしは二人の正面に腰を下ろした。奥の扉から銀のワゴンを押しながらメイドがやって来、給仕を始める。料理は洋食だった。どれもほっぺたが落ちるほど美味しかったが、夏江のことが気になって、食事に集中できなかった。


 とろりとしたクリームシチューをスプーンですくいながら、恐る恐る彼女を見やる。ブロンドに染めた髪に、くっきりとした気の強そうな顔立ち。化粧は若干濃いめで、目元が黒々としている。年齢は三十代半ばか。いや、わたしが生まれる前から勇心と結婚していたのだから、もっと上かもしれない。


「なあに?」

「あ、いえ」


 うっかり視線が合ってしまい、わたしは反射的に俯いた。


「照れてるのかしら、うふふ」

(うふふ、じゃないよ)


 とりあえず今は食事に集中しよう。色々と考えるのはおなかを満たした後でいい。


「そうだ。林檎りんごはどうした?」


 勇心が妻に言った。デザートの話だろうか。リンゴなら、わたしはアップルパイが好きだ。昔、よく母が作ってくれた。


「寝かしつけるのに大変だったんですよ。百合さんが今日来ることになったって知ったら、大騒ぎしちゃって。あの子、お姉ちゃんができるのを楽しみにしてたから」

「ああ、それはすまなかった」


 そういえば、勇心と夏江の間には娘がいると聞いていた。林檎、というのがその子の名前というわけか。中々珍しい名だ。


「でもまさか今日百合さんを連れて帰ってくるなんて、驚きましたよ。皆準備にてんてこまいでした。今回は灰谷さんに引き取るお話を持って行くだけじゃなかったんですか? それとも、何かあったのかしら?」

「まあ、こっちにも色々と事情わけがあってな」

「そう」


 勇心は一応わたしのことを気遣ってくれているふうだった。夏江もそれ以上は追求しなかったのでほっとする。できれば、わたしも灰谷家でのことは隠しておきたい。


「あの、あそこの賞状なんかを見て思ったんですけど、お父さんは役者さんなんですか?」


 二人の会話が途切れたのを見計らって、わたしは先ほどから気になっていたことを尋ねた。勇心はワインを一口飲んで、照れ臭そうに口を開いた。


「昔の話だよ」

「あら、そんな恥ずかしがらなくてもいいじゃない。この人ね、昔は映画や舞台に引っ張りだこの二枚目俳優だったのよ」

 夏江が横から言う。

「そうなんですか。観てみたいです」

「だから、昔の話だと言うのに」

 勇心は顔を赤らめた。

「今はもうやってないんですか?」

「ああ、私は長男だから、家を継がなくっちゃあいけなくてね。ヤガミグループというんだが、知ってるかい? 医療品を作るメーカーなんだが、まあ、この話はまた今度詳しく話そうか。で、役者の方は元々学生時代に趣味で始めたというだけで、格別深い思い入れはなかった。今にして思えば、ただ運がよかっただけなんだな」

「でもね、この人ちゃっかり自分の劇団を持ってるのよ。あそこの賞状やトロフィーは、劇団が獲得したものなの」

「へぇ」


 目の前の八神夫妻の様子は、過去に離婚間際まで溝を深めたとは思えないほど、仲睦まじいものだった。

 その後、雑談をしながら食後のコーヒーを飲んだところで場は解散となった。


「それじゃあ、百合さん。最初は落ち着かないかもしれないけれど、今日からここがあなたの家になるの。よろしくね」

「はい、よろしくお願いします」

「ふふ、いい子ね」


 顔を合わせてから別れるまで、夏江は笑顔を絶やさなかった。

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