第六章  一つ目の転機

 1


 気がつくと、わたしは街中を走っていた。


 自分を追う何かから逃げるように。


 光緒に対して、憐れむ気持ちはさらさらなかった。やりすぎたという思いはあったが、そもそも原因を作ったのは光緒であり、自分は強姦未遂の被害者だ。


 あれは正当防衛である。わたしは悪くない。


 ではなぜ自分は逃げ出すように家を飛び出してしまったのか。この自問に、わたしは答えることができなかった。

 こうやって家から離れたところで、事態が解決するわけがない。光緒の目だって、早く救急車を呼ばなくてはいけないだろうし、出血を放っておけば命に関わる危険もある。それすらも放棄して、わたしはどこへともなくただ走っている。


 外はまだ明るい。


 陽が落ちるまでまだまだ時間があった。もうずいぶん走った。疲労を感じているはずなのに、体は止まってくれない。涙の筋が斜めに落ちていく。正面から吹き付ける風の冷たさに、わたしはまた悲しくなった。


 楓に会いたい。


 母に会いたい。


 孤独から、わたしを救って欲しい。


 そう願った。しかし、その願いが聞き入れられることはおそらくないだろう。楓はもうわたしのことを友達だとは思っていないだろうし、どこにいるかも判らない母は、きっとわたしの存在すら忘れているに違いない。


 わたしは何のために今日まで生きてきたのだろう。遊びに行くことも許されず、奴隷のようにこき使われ、孤独な毎日を過ごしてきた。それでも、いつかはこの生活が変わるかもという希望を胸に抱いていた。

 この辛い毎日を耐えることで、いつかは幸せになれるかも、と。しかし、わたしは結局耐え切ることができず、こうして今逃げ出している。


 ただ、もし光緒の暴行を受け入れたとして、その先に明るい未来はあっただろうか。一度でも彼に体を許してしまえば、おそらく暴行は日常的なものになるはずだ。親の目を盗んで、彼は毎日わたしを求めるだろう。


 すなわち、どう転んでも、わたしの未来は暗黒に包まれているのだ。この呪われた運命から逃げ出す方法はもはや一つしかない。いっそのこと死んでしまった方がましかもしれない。わたしは本気でそう考え始めていた。


 生きていても楽しくなんかない。ようやく楽しみを見つけても、心無い人間に奪われてしまう。ああ、わたしはなんのために生まれたのだろう。


 曲がり角に差し掛かった、その時だった。


 どんっとわたしは何かにぶつかった。強い衝撃が全身を駆け抜け、わたしは後方に倒れた。


「危ない」


 わたしとぶつかった者――声からして男だろう――はとっさにわたしの手首を掴み、倒れ込む前に引き寄せてくれた。


「大丈夫かい?」


 わたしの様子に尋常でないものを感じたのだろう。男は柔らかい声色で言った。肩で息をしながら、目の前の男を見上げる。


「は、はい。すいません」


 とても背の高い男だった。一八〇センチは優にあるだろう。黒いコートを着、その下には灰色のシャツが見える。頭にはこれまた黒い山高帽をかぶり、整った彫りの深い顔立ちをしていた。柔らかい声色や口調とは対照的に、じっとわたしを見下ろすその目は、針で刺すような威圧感を放っていた。


「ひぃ、も、申し訳ありませんでした」


 わたしはすぐに頭を下げた。相手の風貌が恐ろしかったせいもあるが、相手に何か迷惑をかけたと感じたらすぐに謝る癖ができていたからだ。自分が先に引くことでトラブルを防ぐ、わたしが灰谷家で学んだだった。


 男は何も言わずわたしを見下ろし続けていた。見たところ、かなり年配のようだった。顔にはいく筋ものしわが刻まれ、くすんだ肌にはハリがない。五十代後半から六十代くらいだろうと見当をつけた。しかし、その研ぎ澄まされた佇まいや立派な体格は、まだまだ現役バリバリといった感じだ。

 ヤクザの親玉か、もしくはいくつもの修羅場をくぐってきた職業軍人。それが彼の第一印象だった。


「いやこちらこそ悪かったね。よそ見をしてた。嬢ちゃん、怪我はないかい。ん、手が血まみれじゃないか。どこか切ってしまったかい」

「あっ」


 光緒の返り血が跳ねた右手を後ろへやった。


「これは違うんです。何でもなくて」

「ほう、そうかい」

 男は怪訝そうに首を傾げたが、それ以上の追及はしてこなかった。

「本当に申し訳ありませんでした」

 そう言って彼の脇をすり抜けようとしたその時、耳を疑うような言葉がわたしの体を引き留めた。




「君、灰谷さんという家を知らないかい?」




 心臓をわし掴みにされたような緊張感がわたしを支配した。まさか、この男は光緒の通報によって駆け付けた警察ではないか、とそんな突飛な考えが一瞬脳裏をかすめたが、それはすぐに打ち消された。事件の通報を受けた警察がたった一人で現場に行くわけがないし、そもそも彼の身なりは警官のそれではない。


「灰谷、ですか」


 わたしは振り返り、男を見据えた。この時、正直に告白すれば、わたしはしらを切ってすぐにこの場を立ち去ろうと考えていた。もし知っていると答えれば、おそらく彼は灰谷家までの道案内をわたしに頼むだろう。そうなれば当然、光緒の件も公になり、わたしの身柄は拘束されてしまう。もうあの家に自分の人生を囚われるのはごめんだ。


わたしはもう、死にたいのだ。


 しかし、彼が次に発した言葉によって、わたしは考えを改めざるを得なくなった。





「そこに灰谷百合という女の子が住んでいるはずなんだ」





「えっ」


 今、この男は何と言った?


 灰谷……なんだって?


「君はこの辺の子かい? 灰谷百合という子、知らないかな。今中学二年か、三年くらいの年齢だと思うのだが」


 男はとぼけてるふうでもなく、淡々と言った。

 この辺りに灰谷という苗字を持つ家は一軒しか存在しない。すなわち、彼の言う、その家に住んでいる百合という少女はわたしに違いない。もちろんわたしはこの老人と面識はない。今日、今、初めて出会った。それは彼も同じだろう。

 正子か辰夫の知り合いだろうか。いや、それはない。彼らが不在の今日を選んで訪ねてきている以上、彼の目的は灰谷百合――わたしのはず。


「いやあ、ちょっと迷ってしまってね」

「どちら様でしょうか」

「知っているのかい。いやあよかった。この辺りは初めて来たもんだから――」


「わたしです」


「え?」

 緊張で声が震えた。

「わたしが灰谷百合です」

「君が……」

 男は急に何かのスイッチが入ったように表情を軟化させた。目元がゆるみ、顔のたるみが顕著になる。ぽっかりと開いた口から嗚咽のようなものが漏れ始めた。彼の放っていた威圧感はたちまち消えてしまった。肩を震わせ、目元を隠すように手を顔の前にかざす。


「あの、何なのでしょうか」


 たまらずわたしは訊いた。男の態度の変化があまりにも唐突で、不自然に感じられたからだ。彼はそのまましばらく立ち尽くしていた。

 さわさわと、乾いた風が髪をなびかせる。どこからか車のエンジン音が聞こえた。男は音を立てて鼻をすすり、両手を広げて近づいてくる。彼の目はかすかにうるんでいた。


「あの……」


「ようやく……見つけた。我が娘よ」

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